今日は久しぶりに「4人」の呑み会です。やはり、せめて1年に1回くらいはこの呑み会をしたいです。
で、みんなで集まってお店に移動。
まずはこの1年、あるいはこの7年の変化について話をしたり。
でもそのうち、いろいろ最新の話題になるのは当然です。で、出てきた話題が…。
「学生アンケートで「あなたが出会ったマイノリティは?」というのをやったとき、「出会った」という回答が一番少ないのは部落の人」
これをどう考えるかでした。
昨日に引き続き、今日も「切実さ」です。
いや、まっとうというか、まっすぐというか、そういう答えは「部落差別はやっぱりきついから話せない→出会わない」なんですよね。
でも、昨日の考えでいくと、「リスクやめんどくささと切実さのバランス」が「カムアウトしない」に傾いている可能性がある。じゃそれってなんなんだろう…。
例えば、「説明のしにくさ」みたいな可能性はないかなぁ。
つまり
「わたし、部落やねん」
「部落って何?」
「いや、部落っていうところに生まれたらな」
「なんで?それがあなたとどう関係あるの?」
「…」
みたいな。
なんというか、カミングアウトって、実は「共通理解」が成り立っている上で成立するんじゃないか。あるいは、共通理解を得るところまでカミングアウトする側が説明しなくちゃならんのじゃないかと。それをしないと成り立たない。
となると、部落問題学習がどんどん減っている今「共通理解」がとても得にくい状況がある。で、その共通理解を得るための努力を「カミングアウトする側」が担わなきゃならない。カミングアウトする側はそこに「(結局理解を得られない)リスクや(理解を求めるために自分も努力しなくちゃならない)めんどくささ」がある。そして、その「リスクやめんどくささ」の質や量とカムアウトによって得られるもののバランスです。その「リスクやめんどくささ」を引き受けて、なおカミングアウトする切実さがあるかどうか。
それは、部落、レズビアン、ゲイ、あるいはトランス、外国人、ダブル、その他さまざま、それぞれの課題やその人の状況で異なるんでしょうね。
なんか、そんなことを考えたり話したりしてたら、おっと、閉店の時間です。
学生時代、周囲で起きていた議論を思い出しました。
「差別が無くなるのは、ほとんど誰も知らなくなるとき。なので『共通理解』がなくなるのは良いこと」(主に東日本出身の複数学生の意見)
VS
「いや、差別はどこにでもあるんで、歴史に学ぶためにも『共通理解』はいつまでも必要」(主に西日本出身の複数学生の意見)、
という。東日本出身者が、西日本出身者が期待するほどこの問題について知らなかったことから議論が始まったんですけどね。どうなんでしょうね。
関西出身としては(笑)。
「誰も知らなくてもある」ってことがありまして。差別って、直接的に誰かをどうかするだけではなくて、社会のシステムとして存在していると考えていますので…。なので「知らない」っていうのは「ある」ってことを「知らない」なんだと思っています。
つまり「共通理解」の最初は「ある」ってことなのかな。
『「知らない」っていうのは「ある」ってことを「知らない」なんだ』
うん。当時も思いましたが、「『共通理解』はいつまでも必要」派の人は「決して無くなることはない」とお考えなんですよねぇ。
「ある」なら「知る」のが正しい
vs
「知る」人が誰もいなくなれば「無くなる」
という考え方の違い?そう言えば、韓国の被差別民を扱った本を読んだら「今はほとんど知る人はいなくなった。が形を変えた差別は今もある」みたいな記述があったような。。。
差別を無くす工程というか方策は、難しいですねぇ。。。
うーん
「なくならない」と考えていないかというと、やはり考えていますねぇ^^;;。
というか、「差別のない理想的な社会」などというものを信じていないというほうが正しいかなぁ。なんというか…。人間社会の中でひしめきあって生きていたら、知らずに人の足を踏んでることはあると思うんです。なので「踏んでるかもしれない」って思いながら、そして「踏みたくないな」って思いながら生きていくことが必要なのかなということなんです。
なので、「差別がなくならない」ではなく「差別をなくし続ける」というのが、わたしの感覚なんですよね。
私が「いじめは無くならない。大人社会でもイジメはあるし」と考えているのと、少し似てますね。。。
そうですね。
で、いじめがあるってことを前提に、それをなくそうとし続けることが、大切かなと。