トイレに入る瞬間ですね、なにかが生まれてくるのは。今朝、トイレに入ろうと思ったときに、ふと思い出しました。
そういえば、昔「わたしのことを「人間として」見てほしい」と愚痴っていたことがありました。あのころは、「◯◯をやっているいつき」としてしか評価がされていなかったという思いが強烈にありました。「担任をやっているいつき」「在日の子らにかかわっているいつき」「部落の子らとバタバタやっているいつき」etc,etc。そうじゃなくて、「「単なるいつき」じゃあかんのかい」、「「単なるいつき」には価値がないのかい」、「◯◯をやめたら価値がなくなるのかい」と思っていたんですよね。
「人間として」ということにこだわった、もう一つの深層心理は、そのへんにあるのかもしれない…。
こんちゃ!
いつきさんの言ってるのとは違うかもしれないけど、私も「○○やってて役に立ってなかったら私には価値がないんかい?!」と思ってた時期、ありました〜。
その頃は、「ほんなら、私が今死んだとしたらお葬式に何人が来てくれるやろ…」とかも思ってました…暗い10代じゃ★
ともくりさん、ども。
一緒ですわ〜。「役に立つ」ということがすごく求められていたように感じていたというか、要請されていたというか。結局評価の基準を「他者」に委ねていたんじゃないかと思うのですが。「依存」というやつですか…。で、そこから評価の基準を「自己」にもっていくのですが、これがまたむずかしかったりしません?
そうそう〜基準を「自己」に持って行くのはムズカシーですね★
やってるつもりで…なんだかなぁ!
座談会〜、読みました。
いいじゃないですか。またメンバーがいい。
(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
とうなずきながら目を通してしまいました。