在日外国人生徒交流会・事前合宿だけど眠い(T_T)。

今日〜明日、全国在日外国人生徒交流会の事前合宿です。
はいいんですが、先週が玖伊屋で今週がこれ、来週が京都の交流会で再来週がウジ。その次の週は「おさんぽ」。6月の週末はすべて東九条です。ダメです^^;;。
は、おいといて…。

わたしは昼間は放送コンテストなので、夜のみの参加です。でも、実はメインは夜なんです。昼間は交流会の事務的な話が中心になりますが、夜は「自分のこと」の話し込みです。
なんというか…。
子どもたちの話を聞きながら、これほどまでに共通の経験をしているのかと思いました。
全然別の地域で、全然別の国籍で、それまで会ったこともない。そんな、なんの共通点もない子どもたちの話が、あまりにも似ている。
そんな子どもたちの話を聞きながら、日本社会の情けなさと、一方で、こういう交流会の存在の大切さをつくづく感じました。
が、眠い。あまりにも眠いです。まぁ、昨日の打ち合わせ、メッチャ遅かったしなぁ…。
メッチャ眠いのに、もう2時ですよ。いつまでしゃべんねん(T_T)。

今年も打ち合わせ

ここに書かせてもらうようになって、もう5年目です。ずいぶんたくさん書きました。てか、もともと4年のはずだったのに、
「もう一年」
って口走っちゃったんですよね。
で、そんな時、編集担当の人は、必ず直接会って話をされます。で、そんなイレギュラーな時だけでなく、なんにもなくても、毎年年度当初には、やはり直接会って話をされます。その姿勢というかていねいさというかには、ほんとに頭が下がります。ま、単に「京都で呑みたい」ってのもあるみたいですけどね(笑)。
で、今日は恒例の打ち合わせ。今日は考えるところがあって、上の子どもも連れて行くことにしました。ま、別に何か意図があるというよりも、「どんな化学反応が起きるかな」って思っているんですけどね。
で、打ち合わせ開始。
なんでしょうかねぇ。
特に何もないんです。延々と取り留めのない話をしたり、ま、たまには原稿の話をしたり。でも、ずっとわたしの文章を見つめ続けてこられたことがわかります。例えば、論文指導もきっと「見つめ続ける」作業なんだと思うのですが、それとはまったく違う眼差しなんですよね。たぶん、じっとガマンして、ひたすら待つ。で、待つっていうことは、「信じる」ことです。例えば、
「うーん、もう少し深めて欲しいなぁ」
と思ったとしても、単純に
「深てください」
と言っても、たぶん無理です。深い表現をするためには、書き手がそのものごとを深く捉えることができていなくては表現できない。で、それをするためには時間とタイミングが必要なります。その時が満ちた時、スプリングボードを踏んだみたいに、突然ポンと飛び上がる。なんだかそんな気がします。
待つということは、きっとそんなスプリングボードがあるということを信じることであり、そのスプリングボードを踏むであろうことを信じることであり、スプリングボードを踏んだ時に跳躍する力を持っていることを信じることである。
とてつもなくしんどい仕事だよなぁと思いました^^;;。
あ、子どもは…。
なにやら不思議な化学反応を起こしたみたいです。

日常を分析的にフィードバックする

今日のおべんきょは「シェイピング」と「チェイニング」です。
まずは「シェイピング」。
これは、やったことがない行動を身につけさせたり、忘れていた行動を回復させたりする方法です。「少しずつ行動を近づけ」ながら、「特定の行動のみ強化する」。ま、簡単に言うなら、いろんな行動をやらせて、最初は「遠い」けど「まぁ…近いか」みたいなのをとりあえずほめておいて、そのうち段々近いのだけをほめて、特定の身につけさせようとする行動へと誘導していくって感じですか。
で、「チェイニング」は、「ひとつの行動は細かい行動の連鎖で成り立っている」ってことです。逆に言えば、「ある行動ができない」ということはすべてができないのではなく、「あるステップのみ(複数かもしれないけど)」ができないだけであると考える。すると、その行動ができるようにすれば、全体ができるようになる。
で、チェイニングを身に着けさせるための方法として「順行チェイニング」「逆行チェイニング」「全課題提示型」がある。
「順行チェイニング」は、チェイニングの順を追うので、わかりやすいんだけど、結果が遠いので「見通しがたたない子」には厳しい。に対して、「逆行チェイニング」は結果の提示が伴うので、「見通しのたたない子」にも優しい。けど、プログラミングをしないといけない。
で、「全課題提示型」は、普通の授業の感じ。ただ、当然できない子がいるわけで、「プロンプト(口頭のヒント)」や「ガイダンス(身体的な手助け)」を使ってサポートしながら、少しずつサポートを少なくしていく。
で、「チェイニング」の一部ができないときは、「プロンプト→ガイダンス」の順に試していって、それでもダメなときは「シェイピング」で身につけさせる。

なーんてことをやったんですが…。
ほんと、普段の授業やスキーのインストラクションでやっていることそのままなんですよね。
ひとつの問題をいくつかのステップに分析して、それらのどこでつまづくかを予想して、適宜プロンプトを入れて、できない子については一緒に解いて。あとは宿題には解答をつけて、穴埋めにしてみたいな。全課題提示型と逆行チェイニングの混合型。
あるいは、答えは出せるけどどうやって出しているのかわからなかったり、途中のステップが書けない子がいたりもします。そんな子にとって、逆行チェイニングは有用でしょうね。
逆に言うならそういう手間をかけると、定着することが、行動分析の側面から言えるってことですね。
いや、ほんとにおべんきょになりましたよo(^^)o

足に来る(T_T)

毎週木曜日は午前4連続授業。これ、わたしがかなり時間割の組みに無理を言って、その結果のことなんで、感謝しているのですが…。
やはりきついですね。
2時間目まではいいんです。3時間目はちょっと「クラッ」とします。でも、3時間連続は普通にあるので、それもいいです。で、4時間目はあるクラスの本日2回目の授業になります。これがきつい。生徒たちはみんないい子なので、それでも一生懸命授業を聞いてくれますが(一部除く(笑))、こちらは足がプルプルです。
ちなみに生徒に
「足、プルプルやねん」
と言ったら、
「センセ、座ったらええよ」
って言ってくれたんですが、そうはいきません。
「あかんねん。落ち着きないし、座ってられへんねん」
と、ウケをとっておきました。
で、4時間目終わったら、なんか足の脂肪がすべて削ぎ落ちた気がした昼下がりでした。

長くて短い、短くて長い

去年の今頃、なにを考え、なにをしてたかなぁと、ふと考えました。
一日一日がとても長くて、次の日が来ないと思うほどしんどかったなぁ。でも、気がつくと、もう一年前なんだ…。
で、今も鮮明に覚えているし、まだ傷もあります。でも、その傷があるからこそ今の自分があるし、そんなこんなのすべてを大切だと思えます。てか、傷ばかりじゃなくて、もっと大切なもの/ことをもらったもんね。
季節は流れ、ゆき、またここに来る。
季節よめぐれ。

とりあえず走り切ったか?

「向こうにあった山」はみっつ。
で、朝、そのうちのひとつの進捗具合を聞かれて、
「今からやる」
と言ったら
「今日がタイムリミット」
って言われて、あえなく玉砕(T_T)。あきらめました。人間、あきらめが大事です(笑)。
で、残りのふたつを片づけて、もう、抜け殻になりました。
もう「向こうに山」はないよね、ないよね。
あ、ありました(T_T)。
でも、今日は考えない(笑)。

山の向こうに山はある

子どもたちは数学の問題を目の前に提示された時、どうそれを見て、どう考えるのだろう…。
例えば、3次式の因数分解の問題を見た時
「うわ、なにこれ」
とひるんで、そこで終わるのだろうか…。
そう考えた時、わたし(たち)との間にある圧倒的な「違い」に気づきます。というより、その「違い」を明確化し、言葉に翻訳しなおして伝えることが、教員の仕事かなと、最近ますます考えるようになりました。
例えば、3次式の因数分解の問題を見た時、わたし(たち)なら、まず先頭を見て3次式であることを確認して
「ふむ」
と思う。そして、定数項を見て約数を考えて代入する。その時、先頭にあるax^3なんてものはなんの関心も引きません。
つまり「ややこしそうに見えること」には関心を持たず、簡単なことを繰り返すことでややこしいことをこなしていく。

これ、もしかしたら山を登ることに似ているのかもしれません。
はるかな遠方にあるいただきを見た瞬間、
「無理や…」
と立ちすくむのが山をしていない人だとしたら、そこに至るルートを目でおい、とっかかり口を見て、そこに集中する。そして、一歩一歩歩いていくのが山をやってる人かな。わたしは山をやらないからわからないけど…^^;;。

つまり、難しいことを難しいと考えるのではなく、簡単なことの集積であると考える。

なんてことを思いながら仕事をしていたのですが
「終わったぁo(^^)o」
と思った向うに、まだまだ仕事があるのを思い出してげんなりした一日でした。

山頂だと思ったら、まだ向こうに山があったって感じ(T_T)。

テキストを身体化する

今日のおべんきょのテーマは「素読」ってやつでした。
とにかく声に出して覚える。完璧に覚える。意味なんてどうでもいいから覚える。そういう学習方法だそうです。
で、なぜそんなことをするのか。
おそらくは江戸期の儒学者にとって、漢文は外国語であると同時に「思考のための言語」「論議のための言語」であった。そういう言語を後天的に習得するためには、とにかく声に出して、リズムとともに覚え、身体化させる。そうしないと「言語」とはならない。なので、近世の儒学者はそういう方法で身につけていったようです。
で、現在も「素読」はあるんですけど、随分と意味が変質しているんじゃないかっていうあたりが、今日の論議の内容でした。
でも、今の素読も、おそらくは同じような意味はあると思うんですよね。というのは、意味はわからずとも、「そのリズム」で、とにかく読むことによって「その世界」が伝わってくる。例えば「平家物語」と「枕草子」。文字を追い声に出すことで「その時代・文化的背景」さらには「その世界」が目の前に広がる。
ただ問題は「よいリズム」で素読ができない。伝える側も「よいリズム」を知らない。そこに問題がある気がしました。

で、さらに論議は「いま、教員として何を伝えようとしているのか」ってところに行きました。

で、わたしの答は「世界の見方」でした。

おそらくわたしにとっての数学は、「わたし自身」なんでしょうね。そういう「数学が身体化された人間」が見ている世界の見え方を伝えるのがわたしの仕事かなぁと思っているんです。
もしかしたら、子どもたちにとって「いつきちゃん、なんでそんなふうに思うの?」ってなることはよくあるんじゃないかと思うのです。もちろん、トランスであることや、さまざまな人との出会い、あるいは育ち方など、要因は複雑に絡みあっているでしょうけど、少なくとも数学教員としては、「数学」という側面からそのわたしの世界観を伝えることで、「世界の見方の一方法」を伝えているのかなと、ふと思いました。

こんなところもあるんだなぁ

今日は京都府中部にある農業系のガッコに出張でした。会議の前に校内を案内してもらったんですが…。
いいですね。
空気に自然の匂いがあります。
なんだろ…。
ここには、もしかしたら「自然とつながった学び」があるのかな。いや「学び」って、本来はもっともっと自然とつながり、自然のリズムやテンポの中で行うものなんじゃないかな。そんな気がしました。
もしも、高校教育に専念できる状況であれば、ここ、いいかもって思いました。でも、無理だよな^^;;。

憎悪は強盗

「一般名詞」に向けられた憎悪に、その一般名詞に含まれる人はどう対処するのか。例えばそれがわたしなら…。
方法はいくつかあるように思います。
まずは「一般名詞だから」と流す。つまり、「一般名詞への憎悪は、実は空虚であり、現実には誰にも向けられていない」と考える。
あるいは、「一般名詞に含まれる自分以外の人を思い浮かべ、それぞれの差異を考えて、あの一般名詞はあの集団を指している」と考える。
それから、「一般名詞は一般を指すのではなく、自分を指している」と考える。

最初のやり方は、でももしかしたら、「一般名詞」に回収させることで、主体としての自分を失うのかもしれないなと、ふと思います。
二番目のやり方は、「自分は違う」と考えるわけで、それって結局「なかま」を失うこと、そしてそれは「自分への名づけ」が歪んでしまうこと、つまり最初のと同じように主体としての自分を失うことにつながるのかなと、これまたふと思います。
じゃぁ、それをしない方法は…。それが三番目です。でも、きつい。あまりにもきつい。三番目は主体と引き換えになにを失うのか。それはユーモアであり、笑顔であり、柔らかさであり…。そんなこんなを持っているからこそ「自分のこと」と引き受けられるわけなんですが、それを奪われてしまう。いや、究極的には命を奪われてしまうこともある。

人から何かを奪うもののことを「強盗」というならば、憎悪=ヘイトは強盗である。