違いはどこか→もったいない→反省会(笑)

今日は一日校内研修です。
午前は保健部研修会。hyper-QUの説明と、スクールカウンセラーさんの不登校にかかわる話です。
hyper-QU、あまり好きじゃないんですよね。いや、とても役に立つのはわかります。わかるんですけど、なんか、そのことで教員の「嗅覚」みたいなものが損なわれてしまう気がするんです。もちろん「嗅覚」をある程度持っている人が自分の嗅覚を確認するために使うという方法はあると思います。でも、はじめから使ってしまうと、それに頼ってしまうというか、嗅覚が育たないというか、そんな気がしてならないのです。
なので、「ふーん」とか思いながら聞いていたのですが…。
話の内容はわかりやすいです。とりわけ個と集団の関係をうまく説明されます。なので当然のことながら「クラスづくり」にも言及されます。ほとんどこの間やってきた「クラスづくり」を中心に据えた人権研修と変わりないです。じゃあ違いはどこにあるんだろう。
後半のスクールカウンセラーさんの話は、もちろん「個人の把握と対応」に焦点があたります。おそらくは、2つセットに意味があります。つまり、hyper-QUで集団と個を把握して、スクールカウンセラーさんの話からその対応を考える。おそらくはほとんどの教員は「それで事足れり」とするんじゃないか。となると、人権の出番はなくなってしまう。
じゃあ違いはどこにあるんだろう。
それは、おそらくはそうした集団やこの背景にある「社会」に目を向けるかどうかの違いなんじゃないかなと思います。さらにいうなら、その社会を変革すること。それこそが人権なんじゃないかな。
となると、これがまたやっかいなんですね。なぜなら、そんなことをしなくちゃならないと考える教員はそんなに多くないってことなんです。つまり、集団と個を把握し、「しんどい個」を支えればOKと、ほとんどの教員は思うのではないかと思うのです。で、確かに学校の役割はそんなもん、というよりも、それでも「よくやってる方」だと思うんじゃないかな。なので「社会」まで行くと「やりすぎ」「そこまでする必要はない」と考えてしまう。つまり、教員って、極めて「福祉的スタンス」なんじゃないかな。
と考えると、「そうか」と思うのです。校内補習は手伝ってくれる。なんなら隣保館学習会も手伝ってくれる。でも、「高友」にまでいくとガクンと減る。「そこまでする必要はない」。わたしなんかは、校内補習も隣保館学習会も、高友へのネタでしかないんですけどね。

てことで、午後は人権研修会。今日はリビングライブラリです。集まってくれたのは「シングルマザー」「アメラジアン」「在日コリアン」「部落出身者」「トランス女性」「ゲイ」と、まぁ、よくぞこんなにというか、みんな友達関係じゃんというか、友だちにはマイノリティしかいないのか状態です。でもま、たぶんマイノリティしかいない。それは、「公認の」マイノリティというわけではなく、例えば「人権をガチでやる」教員なんていうのも学校教育現場ではたいていマイノリティなわけで、たぶんそんな人ばっかりなんでしょうね。
今日は2セッションやることにしました。てことは、組み合わせは6C2通りあるので15通りかぁ。
わたしは「部落出身者」と「在日コリアン」の話を聞かせてもらいました。おふたりとも大学生(大学院生)なんだけど、すごくいい話をしてくれました。なんだろ。自分のアイデンティティを構築していく過程をていねいに話してくださった気がします。その背後には、どれくらい自分を見つめ、どれくらい家族を見つめ、どれくらい社会を見つめてきただろうと思うと、やはりすごいとしか言いようがありません。
にしても、全員聞きたかったなぁ…。

で、当然のことながら反省会です。
ちなみに、おとついは「無理か?」と目の前が真っ暗になった反省会ですが、どうやらできそうな感じなので決行です。
いやぁ、よく食べ、よく飲み、よくしゃべりました。楽しかったo(^^)o

決断

ずっとどうするか迷っていたのですが、とりあえず決めました。
まずは、玖伊屋は欠席します。「行くつもりだったのか」と言われそうですが、実はパートナーが送ってくれて20時〜22時のみ限定参加を考えていました。でも、往復の時間とそれに伴うロスタイムを考えると、19時〜23時が「安静にしていない時間」になります。そのことのリスクを考えると、やはり「行かない」がいいだろうと。
それに伴って、禁酒の期間も延ばすことにしました。実は、玖伊屋で軽く乾杯と考えていましたが、玖伊屋に行かないなら呑まなきゃならないわけではない*1ので、導尿バルーンが抜けるまでは呑むのをやめようと。
もうひとつは、今年の全国在日外国人生徒交流会も欠席します。この間、わたしの役割としては、なぜか卒業生たちとバタバタしていて、今年はじめてほんとうに体制を組んで現役生たちのサポートに入る準備をしていました。なので、交流会当日は本部でおとなしく寝ながらの参加をしようと思っていました。そこが会議室で布団がない時のためにこんなもんまで買ってしまいました。が、たぶん行ってしまうと動かなきゃならない。さらに、呑まなきゃならない(笑)。そして、寝られない。そのことのリスクを考えると、行くのをやめることにして、本番は卒業生たちにまかせることにしました。
実は、わたしの状態を知った卒業生のみんなから「会いたいけど来るな」という「暑苦しい優しさ」にあふれたメッセージが届いていました。Tーますに至っては、「「いつきちゃん、本部でねっぱなしやわー」とか思いながらゼンコーなんてできるか!」という、ほんとうに「暑苦しいメッセージ」をくれました。そんなみんなの言葉に従うことにしました。
おかげさまで、副産物として、「山に登る*2」の時間が2日確保もできたわけでo(^^)o。

*1:もちろん、玖伊屋に行ったからと言って呑まなきゃならないわけでもないのではありますが^^;;

*2:おべんきょ結果のリライト

facebookにおけるコミュニケーションのあり方についての一考察

それにしても、「今日」の半日はローだったなと。特に「明日」書いた「今日」の分の「考え」のエントリはローだったなと。なんで自分があんなにローだったのかなと「今日の夜」考えていたのですが…。
あ、そーかと思い当たる節がありました。
それは、「同じことを何度も書いた」ところにあったのかなと。
facebookっておもしろいというか変というか。
ある投稿をする。それに対してツッコミAが入る。で、いまは「そのツッコミA」に対する「ツッコミA’」がはいるようになっています。あれ、よくないよなと。つまり、あるツッコミAに対するツッコミはAにぶらさがっていく。すると、親投稿に対してツッコミBを入れる人は、ツッコミAへのツッコミA’の存在を知らずに(読まずに)書くことがある。すると、ツッコミAに対してツッコんだ内容をツッコミBにも書かなきゃならなくなることがある。
つまり、ある話題(親投稿)についての論議を、個々の人間とやるには適しているけど、論議をシェアしてみんなで話題にするには適していない仕様な気がするのです。これ、わたしにとってはどういう感覚かというと、「公開された場所で個人間の会話を何人もの人とする」という感じになるんですね。
で、同じシチュエーションがどこにあるかというと、教室にある(笑)。

とあるホームルームのシーン。
い「あしたの持ち物は○と△と□。わかったか!あ、A、聞いてへんやろ。いま、わたしが何を持ってこいと言ったかゆーてみぃ」
A「わからへん」
い「ええか、もう一回言うで。明日の持ち物は○と△と□。わかったか!」
B「え?なんやて?もっかい言うて」
い「同じこと、何回言わすねん!ええか、明日の持ち物は○と△と□!わかったか!C!」
C「なに?聞いてへんかった」

こうなってしまう最大の要因は、公開の場であるにもかかわらず個人間で会話していることなんですね。だから、それを避けるためにはこういうふうにしなきゃならない。

とある授業のシーン。
い「○は△で□になるねん。わかった?」
A「え…」
い「Aさん、どうしたん?」
A「なんで△になるの?」
い「いまAさんがとてもいい質問をしてくれた。たぶん、そこでひっかかった人、他にもいるやろ。じゃ、そこのところをもう少していねいに説明するね。Aさん、○が☆になる。これはOK?」
A「うん」
い「☆が□になる。これはOK?」
A「なんで?」
い「あー、ここか。これはね、☆が×になるねん。ええか、ここ、みんなキモやで。しっかり聞いときや。これOK?」
A「うん」
い「で、×が△になる。OK?」
A「うん」
い「だから△が□になる」
A「なるほど」
い「みんなわかった?Aさん、いい質問してくれてありがとう」

というふうに、「個人間の会話を公開する」というふうにすればいいわけです。で、実際わたしはそういうふうに授業をしています。ちなみに、このAさんとのやりとりをしていく中で、Aさんのペースについて行けない生徒もいます。そういう生徒は隣の子に聞きながらわからないところをフォローアップしていく。それでいいんです。

で、こういうふうにやることがある程度自分の中で確立して、それに慣れているところに、「さっきのホームルーム状態」が来たのが堪えたのかな。しかも、ダメダメ先輩曰く「やっぱり血は大量に出たし、輸血したし、麻酔もしたし、傷口さわったし、肉体に何度もメスを入れてる。それだけで、体力も気力も、通常の半分以下」というところに本人が気づいていない(笑)。で、テンションだけで乗り切ろうとしてガックリ来たのかな。
ま、いずれにしろ、原因がわかれば対処法もわかる。なので、たぶんもう大丈夫です。

にしても、最初にも書いたけど、今回のfacebookの仕様変更(たぶん)は、もしかしたら個人間のコミュニケーションのためにはいいかもしれないけど、それを全体へと還元しようとするとダメな仕様変更な気がします。
なので、極力「返信への返信」は使わないようにしたいな。ま、もとの「親投稿」をした人の気持ちが最優先ではあるだろうけど。

情報発信の方法

今日、facebook上でいろいろやりとりがあって、それを通して考えたことの一端ですが…。
おそらく、わたしが一番コアな情報発信をしている場所は「ここ」です*1。で、それは、muchan時代から10年以上続く流れの延長線上にあるわけです。
それに比べると、twitterfacebookは、わたしにとってはそんなにコアな情報発信の場所ではありません。基本的にはfacebooktwitterと連携しているだけのことで、facebook独にの情報としては、つっくみを入れるだけだし、twitterは、まさに「ふと思ったこと」をつぶやくだけで、それほどまとまった時間内容を考えているわけでもない。
なので、facebooktwitterは、わたしの情報発信源としては、ほんとうにごく一部でしかない。
ところで、わたしへのアクセスの方法は、いまやほとんどがfacebookみたいです。それは例えば「友だち申請」であったり「つっこみ」であったり。たぶん、そういうのをうまく使って情報発信をしている人がいるから*2、たぶんそうした人たちと同じような感じなんでしょうね。でも、たぶん、わたしはそういう人間じゃない。
ここにも書きましたが、たぶん、わたしの情報そのものへのアクセスの方法が

twitterfacebookって、情報を発信したり、流れてくる情報をもらうには適してるけど、そこにない情報を探しに行くには適してないな。
ブログや日記(笑)しかない時代は散々情報を探した。情報発信するにははタグ打つしかなかった。〈blockquote〉とか懐かしいなぁ(笑)。

なんですよね。そういうわたしは、「時流」からはおいていかれているのかもしれないですね。もちろん、ブログやっている人もおられます。中にはブログの更新をtwitterで報告している人もいます。実は、今回の「騒動(笑)」を機に、わたしも少し「誘導」を試みてみました。そのせいか、ここのview数は、この数日100を越しています。多い時で200行きました。でも、たぶんこれも一時のこと。そのうちいつもの50くらいに落ち着くんでしょう。
なぜわたしが「報告」しないかというと、不定期ではあっても毎日分更新をしているから、「更新しました」の報告が意味をなさないからなんです。それと、なんか照れくさいというか、そういう積極さがやっぱりイヤなんでしょうね。

まぁ、そういうやり方って、例えば「トランスジェンダー生徒交流会」と近いのかもしれません。サイトをつくるわけでもなく、宣伝をするわけでもない。そのせいで、完全に「時流」というか「メインストリーム」からは,その存在は知られてはいません。でも、来る人は来る。それと同じことです。

てことで、これからも自分の一番コアなところはここで発信をし続けます。そして、きっとそれはtwitterfacebookには書かない。
まぁ、今回の騒動で、たまたまここを見に来られた方で「おもしろそうだな」と思っていただけたら、引き続きご愛顧のほどを(笑)。
てことで、このブログの宣伝はおしまいです。

*1:いや、だから「ここ」って言ったじゃないですか(笑)。

*2:MめたさんとかKね子さんとか、他にもいっぱい

適正人数とか

今日は今学期最後のp4cです。さてさてどうなるか。
今日もFぁよんさんが来てくれて、さっくりと打ち合わせ。「原点にもどりましょう」。確かにそれが大切なのかも。
で、開始。みんなで大きな輪になってコミュニティボールをまわします。
「この授業で何がしたい?」
「この授業でしてほしくないことは?」
子どもたちの答えを聞くと、やはりしんどくなってきますね。基本は、なにかをしたいと考えてないし、何も期待していない。いや、みんなじゃないです。でも、そういう子が多い。でもま、当たり前です。だって、もしも自分が高校生で同じ質問をされたら、やはり同じような答えになったかもしれません。
まぁ、今日はそれが確認できたことが収穫です。
最後にふたつのグループにわけて「雑談」をすることにしました。
ところが…。
わたしのグループが少し人数が少なかったところ、案外話が弾む。あれ?
テーマは「好きなお寿司」です。でも、ちゃんと「なぜ?」とか「でも」とか「例えば?」とかやってます。これ、p4cじゃん。
あ!
適正人数とか、適正メンバーってあるのかもしれません。
2学期への希望を残して終了。

闘いはここから闘いは今から

闘いはすでにはじまっていました。それは、たぶん、70年前からはじまっていたんです。で、転換点はいくつもあった。そして、わたしにとっての転換点は、まぎれもなく9年前のこの日です。あの日から敗北を続けてきました。そして、何度となくこの詩を思い出しました。

きょうから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うつくしくもなくなったから そうして
針のようなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活の中からみつけ
つき刺す
ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
引出しからつかみだすように 心の底から
ひとつの倫理を つまり
役立ちうる武器をつかみだす
しめっぽい貧民街の朽ちかかった軒端を
ひとりであるいは少女と
とおり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ぼくらの武器を
かくしている
胸のあひだからは 涙のかわりに
バラ色の私鉄の切符が
くちゃくちゃになってあらわれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とおくまで
ゆくんだと告げるのである

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによって
きみはぼくらによって ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ
(「吉本隆明詩集」思潮社 1966.0601 第6刷)

でも、昼に「強行採決」というニュースが入ったその瞬間、頭の中に鳴り響いた歌は、ほんとはこっちでした(笑)。

1.がんばろう
  つき上げる空に
  くろがねの男のこぶしがある
  もえあがる女のこぶしがある
  闘いはここから闘いは今から
2.がんばろう
  つき上げる空に
  輪をつなぐ仲間のこぶしがある
  おしよせる仲間のこぶしがある
  闘いはここから闘いは今から
3.がんばろう
  つき上げる空に
  国のうちそとのこぶしがある
  勝ちどきを呼ぶこぶしはひとつ
  闘いはここから闘いは今から

今はあの時みたいに国会前に行く時間はないです。でも、いまここでできること、やらねばならないことをする。たとえ一人であってもやる。いや、逆でした。「ひとりになってやる」。
まずはここから。

index

で、午後からは出張。
「絵本に興味を持たない幼児がいる」
って話が出てきましたが…。
なんとなくなんだけど…。
わたしたちがなにか本を読んだ時、どのようにその内容を理解しているんだろうって、ずっと考えてました。
たぶん
1、単語を拾う
2、単語のかたまり→熟語を拾う
3、脳内辞書のindexにかける
4、意味がわかればよし
5、意味がわからなければ調べる
6、調べてもわからなければ前後の文脈を見る
7、それでもわからなければ、同じような用法を探す
みたいな感じなんじゃないかなと。で、問題は「脳内辞書のindex」なんです。ここにあるかどうかがとても大きい。なければ、膨大な手間がかかります。で、どうしても読まなきゃならなかったら、この手間をかけるけど、読む必然性がなければ「めんどくさい」となって放り出してしまうことになりがちです。
で、幼児の場合は?
たぶん1から3は同じですが、「脳内辞書のindex」は、それまでの絵本経験+生活言語によってつくられている。で、どちらがより大きいかというと、生活言語なわけです。となると、目の前の絵本が生活言語とは異なる言語である場合、「めんどくさい」と放り出してしまう可能性が極めて高い。その体験を繰り返すと、そもそも絵本そのものがめんどくさい存在になってしまう。
もしかしたら「絵本に興味を持たない幼児」って、そんなふうにして生み出されていくのかなと、ふと思いました。

ゆるいなぁ

今日は下の子どもの学校の体育祭があるとかで、見物に行くことにしました。
とにかくゆるい。
とにかく「うちの学校は一番自由」ということを自他ともに認める学校です。まぁ、もともと誰かと競ったりする学校じゃないんです。例えば、「○○部の○○君、インターハイ出場!」みたいな垂れ幕はありません。てか、そもそも体育系のクラブはあるのか?かといって
「○○大学○○人合格!」みたいなのもありません。そういうところにはない学校です。でも、とても魅力のある、ある分野に特化した学校なんで、たくさんの生徒が希望をします。そもそも「特色ある学校」なんていわなくても、学校の成り立ちそのものが特色なんです。
街なかにある学校なんで、グラウンドの広さは小学校サイズというか、下手したら幼稚園サイズです。体育祭で描かれてるトラックなんて、スケートのショートトラックくらいのRです。でも、それでいいみたいです。だって、そのトラックをフルスピードで走れる運動神経を持ってるらしい生徒はきっといません(笑)。
でも、例えば「開会式をはじめるよ」というと自然と並ぶ。前で人が話しはじめたら聞く。そんな当たり前のことを当たり前にやるので、「並べ!」「早くしろ!」みたいな注意は一切ありません。体育祭の運営は、すべて生徒です。教員は何をしてるのかと思ったら、写真とってるだけでした(笑)。
うーん。なんか、定年前に最後にこんなところで教員やりたいなぁと、ぼんやりと考えちゃいました。まぁ、いろいろ無理ですが…。

講堂がほしい

今日は数学科の飲み会。お店はみんなの手というカフェです。
ここは、福島からの避難者の人たちのコミュニティで、その活動の一環でカフェをしておられます。
ちなみに、食事はとても安くてしかもおいしい!さらに、8人で行ったけど、飲み放題にするかどうかは個人単位で選べるという、もう、普通では考えられないお店です。
てのはおいときまして…。
当然のことながら、わたしの暴言癖が出てくるわけで、今日の暴言は「体育館を講堂にしよう」です。
うちの職場は体育館が都合3つありまして、それはそれでとても充実しているのですが、全校で落ち着いて座って集まれる場所がない。例えば椅子に座ろうと思うと自分たちで並べなくてはなりません。これ、かなりの労力なので、結局やらないんです。
でも、全校で集まるときに「椅子に座る」ってとても大切なんです。
もちろん、床に直接は非人権的ってのもありますが、それだけでなく、おしゃべりとかもしなくなるし、それに伴って怒られることもなくなって、したがって大きな声で話す必要がなくなって、だから静かな環境を保障できる。すると、すごく落ち着いた雰囲気になる。
ところが、みなさん「そんな、全校で集まる機会って、何回あるねん。それよりは体育館として使ったほうが効率がいい。講堂はムダ」と言われるんですね。
ま、もっともな意見です。でも、そのムダがとても大切なんだと思うのです。キチキチの遊びのない効率的なところと、多少のムダが保障された余裕のあるところ。どちらが子どもたちにとってよりよい環境か。
そう考えると、例えばクラブ指導で土日もすべて詰まってしまっている状態は、子どもたちや教員にとっていいのか?あるいは土曜活用の掛け声のもと、土曜日も授業するって、果たしていいことなのか?
ここで、子どもの権利条約にある「余暇を過ごす権利」を思い出します。

児童の権利に関する条約
第31条
1 締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。
2 締約国は、児童が文化的及び芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的及び芸術的な活動並びにレクリエーション及び余暇の活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。

「余暇」。つまり「余った」「ヒマな時間」を過ごす。いまの学校って、その対極にあるような気がします。「余った」「ヒマ」な時間はムダ。そして、ムダな時間を「有効」に使うべく、クラブや授業を放り込んでいく。
しかし、なぜ「児童の権利に関する条約」では、「余暇を過ごす権利」が必要としたのか。おそらくは、長い人類の歴史の中で、世界中の人の叡智を集める中で「必要」と考えられた。だからこそ、この条文がある。
そう考えた時に、世界の叡智の結集を知らず、自分(たち)の限定された価値観でものごとを考え、判断することの危険性を、強く感じます。

例えば、吹奏楽部が「今度の水曜日の昼休みに講堂で演奏会をしまーす。聞きに来てください!」。そして、講堂からお昼に吹奏楽部の音が漏れてくる。例えば、書道部が「今度の木曜日の昼休み、書道ライブをやりまーす!見に来てください!」。例えば将棋部が「今度の火曜日の放課後、公開で対戦しまーす!対局の解説つきです!」こんなことが、どこかのホールを借りて学校の外であるのではなく、日常的にあることの豊かさ。
「スポーツにしか使えない」体育館よりも、実はるかに豊かなことができると思うんだけどなぁ…。

意識化し、分析し、まとめあげ、伝える

最近、少し興味を持って「当事者研究」にかかわる本を読んでいます。そんななかで出会った綾屋紗月さん(と熊谷晋一郎さん)の本
いやぁ、みんなが「すごい!」っていうのがわかります。すごいです。よくぞ自分の中で起こっていることをあそこまで詳細に分析することができるなと。そしてそれを表現できるところがすごい。それも「きちんとした表現」と「わかりやすい表現」と「美しい表現」と。幾通りにも、繰り返し表現される。

でも、読み進みながら、何とも言えないデジャヴ感がありました。なんだろう…。
あぁ!これだ!
それは、わたしが考える授業です。
もちろん綾屋さんとは比べものにならない貧弱なものではありますが、やっていることは似ている。
例えば、ある問題が目の前にあります。
その問題を見るとき、わたしの目はどう動くのか。どこに最初に注目するのか。それはなぜなのか。他の問題はどうだろう。もしも同じならなぜ同じなのか。もしも違うのならなぜ違うのか。そして、同じものはあるのだろうか。
それらをまとめあげていく過程で規則性は見いだせるのか。仮に見出したとして、その規則性を理解するためには、どんなスキルが必要なのか。そのスキルの習得のためにはどんな練習が必要なのか。
そんなことを、いつも考えています。それが、わたしにとっての数学の授業です。

それはスキーも同じです。
ある斜面において、ある技術で滑るとき、自分はどんなバランスをとっているんだろう。そのバランスを支えるための筋肉はどうなっているのか?骨格はどうなっているのか?関節はどうなっているのか?それを常にイメージしています。それは滑る時だけじゃないです。お風呂の中で、あるいは普段歩いているときに。自分の体重は足の裏のどこに何パーセントくらいかかっていて、それを支えるための筋肉の緊張と骨格の方向を意識する。
で、それを伝えるためには、具体的に身体をどう動かす運動を練習課題として提案すればいいのか。もしもそれで伝わらなければ、同じことをもう一回やるのか別のことをやるのか。
それが、わたしにとってのスキーのレッスンです。

数学が解けること、スキーができることと、それを教えることができることは、まったく違います。解けること滑れることは「なんとなく」でいいです。でも、教えるためには「なぜ?」という問いを常に意識し、分析し、まとめあげ、伝えるということをしなくちゃならないと思います。
そうやって生きているわたしの感覚と、綾屋さんの文章に、ほんの少しだけど似てるなって思うところがありました。

まぁ、こんなことは、たぶん「教える者」であれば誰もがやっていることだろうし、偉そうに言う話では、もちろんないです。
でも、誰もがやっていることを意識化し、分析し、まとめあげ、伝えるという…。あり(笑)?