桃栗3年柿8年石の上にも12年

(1995.10.「季節よめぐれ」第95号より)

はじめに

ここ数年、全同教大会や全朝教大会をはじめとして、いろいろなところで発表させてもらう機会があった。そしてだいたいそのあとに、みんなで飲みに行くのだが、そうしたときに、「先生すごいですね。うちの学校なんか、とてもじゃないけど…」などと言ってくれる人が、必ずといっていいほどいる。発表というものは、「いいとこ」ばっかりだすので、そう思えるのだろう。もちろん私の今までの「実践」など、そう大したものではない。それはともかくとして、ありがちなのはその後、「学校体制が」とか「同僚が」とか、はては「教育委員会が」などという言葉が続いたりするのである。ところで、全同教や全同教をはじめとして、たくさんの実践報告が世の中に出ている。こうした記録を読むと、よくもまあこんな学校でなどと思うようなところでのすばらしい実践が、たくさんある。こうした実践記録におどろき、励まされ、元気をもらう。先ほどのような人には、「みんなしんどいところでやってますよね」などと言って、「一緒にがんばりましょう」と互いに決意をしていくのが、今までの常であった。
しかし、と最近思うことがある。自分の学校を見渡すと、少なくとも私のまわりには、「理解してくれない同僚」だけは、ほとんどいない。あるいは、私一人がそう思っているだけかもしれないが。しかし数年前、誰もいない「社会科学研究部」にも、1万円の予算をこっそりつけていてくれた生徒会担当の教員や、朝あえば、あいさつがわりにその日の朝刊を持ってきて、人権問題についての記事を教えてくれる教員、こうした同僚に囲まれて、私はいまいる。
いつのころからこんな学校になったのだろう。ここでJ高校の10年間のつたない歩みを振り返ってみようと思う。

前史

私は、新採以来12年間現在の学校にいる。私が赴任した当時は、「荒れた時期」を徹底した「指導」強化で乗りきってきたことを誇りにする学校だった。一方、在日朝鮮人問題や部落問題については、何の認識もない学校だった。当時の認識をあらわす、おもしろい例がある。当時、「図書部」と「同和部」は「東大」と言われていた。年度がわりの時の分掌希望が、殺到するからである。仕事がヒマだからである。「なぜそんなにヒマなんですか」と先輩の教員に聞くと、「同和部は、仕事のない状態が一番いい状態なんです」との答えが返ってきた。とりあえず、部落の生徒と在日朝鮮人の生徒の名簿だけは毎年発行していたが、それは全く使われていなかった。本校を卒業して、後にJ高校の講師になった在日朝鮮人の教員は、「私たちは、さらしもんにされていたんやな」と、怒りを込めて言っていた。
さて、では当時本当に何も「問題」がなかったのか。言うまでもなく、「あった」のだ。たまたまクラブの顧問をしていた関係で、私の所に「僕の住民票はあるんですか」と聞きにきた在日朝鮮人の生徒がいた。彼は、職員室の片隅にある応接セットで、外登証を誰にも見られないように注意しながら、そっと私に見せてくれた。その不安を誰に相談すればいいかすら教えてもらえず、ひとりで耐えていたのだ。あるいは、「キムチ、○○」と便所に落書きをされた在日朝鮮人の生徒がいた。彼女は、その悔しさを、私たちに伝えるすべもなかった。唯一そのことを話すことのできたのは、J高校を卒業した兄だった。彼はそのとき、「どうせ学校に言うても無駄や」と彼女に言ったという。私たちがその事実を知ったのは、それから2年後、2度目の落書きをされたときだった。
当時の「同和」学習については、映画を見せて、同和部からの話があって、感想文を書かせておしまいという、典型的なアリバイ的「同和」学習だった。なぜ担任が自分のクラスの生徒に語りかけないのかと尋ねると、「学校として一致した見解を生徒に伝えなければならないからだ」との答えが返ってきた。こんなふうな状態で、2年間が過ぎた。

草創期

教員になって3年目、MさんがJ高校に転勤してこられた。いまさらMさんのことを紹介するまでもないとは思うが、Y高校やM高校で、優れた実践を積み重ねてきた人である。実は、そのころ私は、Mさんがどういう人かぜんぜん知らなかった。しかし、ある時ひょんなきっかけで意気投合することができ、それ以降一緒に「同和」教育にかかわることになった。
ふたりでまず最初に着手したのは、「隣保館学習会」だった。
ある時、ムラの生徒Aが喫煙で家庭謹慎になった。Mさんは「生徒部」として、私は「クラブ顧問」としてAとかかわりたいと申し出た。また、Aの家庭環境が複雑であったため、隣保館で謹慎をさせることも提起した。
Aの謹慎があけたあと、定期的に学習会を持とうということが、Mさんから提起された。これに対しては、いろいろな人から反対や妨害があったが、とにかくAを中心とした学習会をはじめた。
いっぽう私は、なんとか在日朝鮮人の生徒とのかかわりを持とうと、たまたま教科を担当した在日朝鮮人の生徒Hと、名前のことを中心に話しあいはじめた。いたっていい加減なかかわりで、ある人からこっぴどく怒られたこともあるのだが、ここでは詳しく述べることはさけることにする。
また、学校全体としても、なんとか在日朝鮮人問題を知ってもらおうと、社会科学研究部(以下、社研)の顧問になり、日本人生徒とではあるが、活動をはじめた。文化祭では、日朝関係史などの展示と朴実さんの講演会をした。しかし、少々暴走気味の活動だったため、校内からの反応は、反発以外はほとんどないに等しかった。講演会にしても集まったのは、生徒3名(うち部員2名とH)と教員4名という、無惨な結果だった。しかし、Hは、翌年就職を機に、本名にすることを決意した。Hの決意は、学校にひとつの波紋をよびおこした。それまで在日朝鮮人問題に全く無関心だったまわりの教員も、不承不承ながらも動かざるをえなかった。当時私は進路部にいたのだが、Hのことを就職先にアピールするために、彼女に本名を名のるにあたっての決意の作文を書いてもらい、進路部長と一緒に就職先を訪問した。また、進路部内、職員会議の場などでも、彼女の作文を読み、アピールした。しかしこのあと、彼女の就職試験の中で、差別発言があったことが明らかになったのだが、それに関しては、全くとりくめなかったことも、明らかにしておかなければならないだろう。
またこのころ、前述の落書き事件が明らかになり、同和部内にも在日朝鮮人問題についてとりくまなければならないという認識が、芽生えはじめていた。このときは、落書きをされた生徒に作文を書いてもらい、それを学年アッセンブリーで読むという形のとりくみをおこなった。生徒にとっても教員にとっても、在日朝鮮人生徒の在日としての思いを、はじめて聞くことができたときだった。

転換期

翌年私は、1年生の担任になった。はじめての担任経験である。この年、同和部も大きく変わった。Mさんが、生徒部から同和部に移ったのだ。
まず最初に着手したことは、在日朝鮮人生徒を集めることだった。「朝鮮奨学会の紹介」と、「外国人登録に行くときには公欠がとれる」ということを説明することを理由に、入学式のあと1年生の生徒を集めることにした。J高校では、従来「保護者の考えもあるから」という理由で、「在日」はタブーとされていた。当時の同和部長は躊躇していたが、私を後押ししてくれたのは、Mさんだった。当日、私としても初めての体験で、夢中で奨学会の説明と社研への勧誘をおこなった。そして、このときのひとりの生徒の発言が、躊躇していた同和部長を、そしてJ高校の方向を大きく変えた。集められた感想を求められ、彼女はこう答えた。「私ひとりでなくてよかった」。それまで、保護者の思い、本人の思いなど全く聞くこともなく、勝手な想像で私たちがとりくみを放棄していたことが、このときはっきりしたのだ。
これを契機にして、この年の在日朝鮮人の新入生5名中3名が社研に入部した。単なるダベリのサークルだったが、彼女らのダベリをかたわらで聞くことで、多くのことを教えられた。かつて住民票のことを私にたずねた生徒や落書きをされた生徒と同じ不安を、彼女らひとりひとりが持っていた。しかし、あのときとちがうことは、社研というクラブの中で、それを話しあう相手がいることだった。そして、そのことを通じて彼女らは、「自分は特殊な家に生まれた」という認識から「民族として当たり前なんだ」という認識へと変わっていった。
次に着手したのが、「同和」学習だった。前述のような「同和」学習を、まず担任が担い、質的に高めることを目標とした。このことを巡って、担任会の中で何度も話しあった。経験豊かな教員ですら、「やったことがない」と後込みをする。しかし、幸いなことに、勢いのある若手教員が「やってみよう」と言ってくれた。残念ながら、この年は他学年では、担任による「同和」学習は実施することはできなかったが、私たちの学年以降、担任が自分のクラスの生徒に話をするスタイルが定着した。
さらに、在日朝鮮人問題を「同和」学習の内容に盛り込むことにした。1年生の学習内容は「身のまわりのさまざまな差別を知る」ということなので、何をやってもよい。私は、「生の声を生徒に聞かせよう」と主張し、講演会を提起した。J高校では前例のないことだったが、同和部の後押しもあり、講演会を実現することができた。講師は朴実さんである。私にとっては、リターンマッチの気分でもあった。当日の講演はすばらしかった。ちょうど毎日放送の「我が名は朴実」が放映された頃であった。朴実さんの語られる自分の生い立ちは、生徒たちに大きな感動を呼ぶとともに、教員自身も、この講演会を開いてよかったと認識をあらたにした。1年生の2学期に講演会を開くというスタイルも、この年以降定着した。
さて、講演会そのものはよかったのだが、朴実さんが、日朝関係史について話されたことに対して、生徒たちは「なぜ私たちが怒られなければならないのかわからない」という感想を返してきた。もちろん朴実さんは怒っていたのではないのだが、日朝関係史を語るとき、つい語気が強くなってしまわれたのである。生徒たちの誤解の根元は、彼らに日朝関係史をきちんと伝えていなかったことだった。しかし、それが実現したのは、さらに3年後だった。
この担任団は、徐々に意欲的に「同和」学習にとりくむようになっていった。翌年には、担任団が劇をして「同和」学習の時間を持った。また、さらにその次の年には、紙芝居をして、就職差別の問題を生徒たちに訴えた。生徒たちにも、教員たちの意気込みは伝わったようだった。
ムラの生徒達に対しても、隣保館学習会を軸に、少しずつかかわれるようになっていった。また、学校全体としても低学力生徒に対するかかわりの中で学習会を認めざるを得ず、はじめのうちは同和部の者のみ出張に、やがては全員の分を出張として認めるようになった。学習会に参加する教員も、徐々に増えはじめ、定期テスト前などは、各教科の教員が参加してくれるようになった。

そしていまへ

さらに3年後、卒業生を送り出した私は、再び1年生の担任になった。再び巡ってきた1年の「同和」学習である。2学期の講演には、朴実さんのつれあいの朴清子さんにきていただいた。そして、3年前の反省に基づいて、日朝関係史の授業を、事前学習としてとりくんだ。これは、同和部からの要請ではなく、担任団の中から声があがり、とりくんだという意味で、画期的なことだった。また、従来は、生徒が書いた作文は、次の学期に返す形態をとっていた。しかし、それでは記憶が薄れたころにしか作文は返らない。やはり、本学習の次の週には返さなくてはならないと、私は学年会で主張した。そこで、講演会の次の週に、事後学習の時間を持つことにした。こうして、従来は学期に2時間だった「同和」学習の時間は、一気に3週連続、4時間へと増えた。同和部としても、日朝関係史の必要性を重要に考えてくれ、次の年度からは、ビデオ「ある手紙の問いかけ」とセットにして、2年次に学習するというカリキュラムを、組むようになった。
一方、社研は、秋頃から在日朝鮮人の生徒2名(UとS)を中心としながら、チャンゴサークルとしての活動をはじめた。詳しくは、全同教・大阪大会のレポートをごらんいただきたいが、この活動の中で、Sが本名を名のることになった。また、チャンゴサークルという性格上、文化祭のステージでの発表などを通じて、広く自分たちの活動をアピールすることになった。また、O高校の生徒Cとの交流を通じて、J高校の文化祭に賛助出演をしてくれたり、逆に社研のメンバーが、O高校のロング・ホームルームの時間にチャンゴをたたきに行ったりと、学校全体としても、認知されるようになった。
こうしたさまざまなとりくみの中で、日常的に「同和」問題を扱うクラスも出てきた。

おわりに

チャンゴサークルとして活動した社研のメンバーが卒業したあと、私は再び1年生の担任になった。自分のクラスの授業の時に、ひょんなきっかけから、日朝ダブルの生徒Wがいることがわかった。現在Wと部落の生徒を中心として、新しい社研の活動をつくっている。また、京都には朝文研活動をしている学校が数校ある。7月にそれらの学校と交流会をおこなった。
勤務して2、3年のころ、自分の思い通りに行かず、幾度「こんな学校やめてやる」と思ったことだろう。そんなとき、「おまえがやめたあと入ってくる教員に、何が期待できるんだ。おまえがやめずに居続ける、それだけでも大きなことなんだ」と言ってくれた先輩教員がいた。その言葉だけを信じて、生徒とかかわり続けた。まわりの教員に働きかけ続けた。いま、ほとんどの教員の机の上には、『在日のいま』『在日のいまpartⅡ』『全朝教ブックレット①②③④⑤』の7冊が置いてある。転勤していった教員が、新しい勤務校の「同和」学習を変えようとがんばっていると聞く。もちろん彼も、そこで『在日のいま』を売ってくれている。あるいは、新しい学校で在日の生徒とかかわりはじめた教員もいる。
いつからこんなになったのだろう。もちろん私ひとりの力では、断じてない。いつも私を教え導いてくれた、Mさんの力は大きい。そうした私を支えてくれる人々と、生徒たちの無言の告発のなかで、J高校の「同和」教育、在日朝鮮人教育は、少しずつ変わってきたのだと思う。
もちろん、もっともっとすばらしい実践をしている学校は、たくさんある。そういった意味で、このレポートは、どこにでもある学校で、どこにでもいる教員ができる実践である。私も、いまのJ高校が、すばらしい人権感覚を持った学校とは考えていない。あくまでもいまはひとつの通過点である。