採点の祭典→震災から10年

先週に担当教科の試験がありましたが、ずっとパタパタしてたので採点ができませんでした。唯一チャンスはおとついでしたが、おとついは若手教職員研修が盛り上がったので、採点する気分じゃなくなって、そのまま「梅が散らなかったメール」をもらったのでした。幸い、今日は試験返しのコマが入ってないので、今日を「採点日」と決めてました。
てことで、採点の祭典開始です。とはいえ、そこは数学です。ひとクラス1時間半で終わってしまいます。他教科の教員にもうしわけないです。
それにしても、学年末試験って、採点中に思わず声が出てしまいますね。
「なんで、下端ー上端にしてんねん!」
とか
「ふぁ?2を積分して、なんで2のまんまやねん!」
とかね。
面積の計算は2次方程式が解けないとできません。しかも、x^2の係数がマイナスになることが多いです。そうなるとできなくなります。
「しもた!ここでひっかかるか…」
って声が出てきます。
それでも採点を終えて、ノート点検→平常点の計算です。ここでまた、
「おわ!こいつ、プリントの日に限って欠席してるやん!」
とかいうことになったりします。
まぁ、波乱万丈なのが学年末の成績処理ってことです。そんなこんなで午後のはじめまでかけて、成績処理がすべて終わりました。
うーん、こいつらビミョーやな。みんな、トータルであと10点。各定期テストで、1問たくさん正解があればビミョーじゃなくなるんですが、あえてビミョーにもってきているとしか思えないほどにビミョーです。あとは成績会議しだいですね。

午後はリハビリ。新しい作業療法士さんは、肩にひねりを入れたり、上げる方向をビミョーに変えたり、バリエーションが豊富です。たぶん、前の作業療法士さんがひたすら腕を上げてストレッチしまくってくれたおかげで肩関節に余裕ができて、その土台の上にバリエーションがあるのかな。たしかに肩の可動範囲は広がってる気がします。もうひとがんばりするためには、自己練習が必要なのかな。サボってるからなぁ。

夜、ビールを飲みながらテレビを見ると、当然のことながら「震災から10年」特集です。
いつになく違和感があります。
例えば、阪神・淡路大震災の時ってこんなにいろいろあっただろうか。いや、テレビの特集はあったかもしれないけど、国が式典とかしただろうか。あるいは熊本大地震は?震災じゃないから無視?ことさらに東日本大震災に焦点化する背後になにがあるのか、とても気になります。
そしてもうひとつ気になるのが、↑みたいな感想を言わせない「空気」です。まさに「震災から10年」を追悼しなければならない「空気」です。
もちろんわたしは当事者じゃないのでわかりませんが、たぶん被災者の人や震災で大切な人を亡くした人って、「節目」で思い出すんじゃなくて、日々の生活の中で、ふとした時に「不在」を感じるんじゃないかと思うのです。それに対して、「節目」を設定することによる「震災のイベント化」は、そういう「日常感じる不在」を隠蔽してしまう。つまり、わたしたちが、被災者や震災で大切な人を亡くした人の「日常」に思いを馳せる想像力を奪ってしまう。そんな作用があるんじゃないかと思うのです。
そしてなにより原発です。原発を震災の「ひとコマ」にしてしまうことで、原発は相対的に扱いが小さくなってしまう。例えば「震災で亡くなった人」に焦点化することで、「人とは異なる」あるいは「構造的な」原発は相対的に扱いが軽くなる。そうやって、原発の問題を隠蔽していく。
そしてその先にあるのは「復興五輪」です。そういうプロパガンダの一環としての「震災から10年」というイベントであるように思えてしかたない。そしてそのイベントに、誰もが善意で参加する。参加しない人は「非国民」とみなされる。そうやって「正しい国民」が構築されていく。
なんか、そんな気がしてならない「震災から10年」の夜でした。

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