読むは易し書くは難し

今日は午前は雑用をして、昼ごはんを食べて、久しぶりにゆらゆらしながら、送られてきた『解放社会学研究』を読んでみようかと。
1本は大坪真利子さんの「「個人の選択」としてのカミングアウトという困難」、もう1本は眞野豊さんの「多様な性(生)の選択をめぐる不可能性ーーAさんは、なぜ「性別再変更」をしたのかーー」です。それにしても、『解放社会学研究』の投稿論文が両方ともセクマイ系ってのがおもしろいな。
大坪さんのは同性愛者に限ると断った上で「選択的」という言説を再考するというもの(だと思う)です。たしかに「カミングアウト一般」というのは論じられないわけじゃないけど、そのぶん網目が粗くなりますよね。だからこうやって限定したところで論議するのはとてもよくわかるというか、見習わなきゃならんところだなと。ただ、そうであるからこそ、トランスのカミングアウトとの違いみたいなのが際立ちます。もちろん「引きづられたらアカン」と思いながら読むのですが、つい「つくづく同性愛とトランス、違うわー」って思ってしまう。まぁ「制度としての性別」の強固さって話なんですけどね。もちろん、その強固さは「異性愛規範」とセットだから「同性愛とトランスは違うとは言い切れない」って話もあるかもしれませんが。
で、そのあたりの話が真野さんので、「トランスはなぜ性別二元論に回収されてしまうか」って話(だと思う)です。「多様な性」と言いながら、例えばトランスは「多様な性を生きてないじゃん」「典型的な女/男を生きてるじゃん」と非難されてきたし非難されてもいる。で、真野さんはそうした「選択」を個人のものと考えるのではなく、外部にある性別二元論の圧力によって生み出されるとされるんですね(と思う)。それがFTMTFの方へのインタビューを通して明らかになる。で、真野さんは「「多様な性」なんて生きられない。みんな「多様な生」を生きてるんだ」とされる(と思う)。まぁそりゃそうです。そもそも「多様な性」というのは選択肢の問題であって、生きるものではないですよね(笑)。で、性別二元論に基づく「制度」をおしつけておきながら、「多様な性をなぜ生きない?」って言われても、それは困るわな。
まぁそんなことを考えながら、なかなか楽しい2時間ばっかを過ごしました。が、問題は、読むのは簡単なんだけど、書くのはたいへんってことです。夕方1時間ほど七転八倒して、倒れたついでに筋トレやって。そんなことしてるから、2〜3行書くのがやっとだったりするわけで。
やれやれ。

しまった!今日は青森パレードとか大阪でデモとかあったんだ。
動きが鈍くなってるな。

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