変速ダブルヘッダー

今日は試験最終日です。なんでも、試験のあと全校集会をひらくとか。で、わたしにもしゃべれと。
うーん…。わずか10分程度とは言え、新ネタやな。これは考えなきゃ…。てことで、考えたネタがこれです。

わたし、うちの学校の口コミをたまに見に行くんやけどね。「上り坂がきつい」「服装頭髪点検がイヤ」みたいな、ありがちな口コミに混じって「先生と生徒が仲がいい」「クラブの先輩が優しい」みたいなのがあって、さらに「いじめは見たことがない。ないんじゃないかな」みたいなのがあって、とてもうれしかったんですよね。
でも、今回「いじめアンケート」をとったら、やはり「いじめ」の案件が出てきました。なので、ここはやはり、人権担当として話をしようと思います。
なぜ人権担当が話をするか?
「人権が守られている状態」について、1年生のみんなには4月に話をしましたね。おぼえてますか?
「みんなが幸せであること」
って言いました。これは別に、みんなが「ハッピー!」と思っている状態じゃないです。「いろんなめんどくさいことやイヤなこともあるけど、それでも生きていてよかったよ」というのが「幸せ」なんです。でも、いじめがあった。いじめられて死を選ぶ人もいますよね。ということは、そういう人は「幸せ」とは言えない。そして「幸せじゃない人がこの中にいる」ということなんです。となると「人権ポリスがファンファンファン」ですよ。

意図的ないじめは話になりません。例えば「排除」。3年生にはこないだ話をしましたね。「あいつは違う。わたしら同じ」これが部落差別の根源でした。例えば、口をきかないとか、遊びの時にわざと誘わないとか、あるいはライングループから外すとか、そういう仲間はずれ。こんなことをやる人は「わかってやってる」から、当然指導の対象です。学校の外の社会だったら、「本物のポリスがファンファンファン」ですよ。
今日話をしたいのは「いじり」についてです。
先日、教職員研修がありました。その中で「いじり」の話が出てきました。「生徒のいじりに先生はのっていませんか。同じように生徒をいじってませんか?いじられていい生徒なんて、いるんですか?」と言われたんです。ハッとしました。もしかしたら自分もいじってるかもしれないと思いました。
もしかしたらいる?(おれ、いじられた。おれも!)
マヂか、ごめん。(ええよー(笑))
テレビにも「いじり」はあります。確かに「いじり」のない世界はおもしろくないんです。というか、悪いことのない世界なんておもしろくないんです。それはよくわかる。
でも考えてほしい。
1対1のいじりは◯です。1対2のいじりも◯かな。1対3のいじりもまぁええか。でもそれが、1対10になったら?1対クラス全員になったら?
あるいは、1日1回なら◯。1日2回も◯。でも、しょっちゅういじられたら?
どこかで質が変わるんです。それは人によって違います。どこで変わるかは、本人にしかわからないんです。でも、本人は言わない。なぜ?それは知られるのがイヤだからです。
理由はいろいろあると思います。「自分の弱さを認めることになる」「やっとできた友だちが去っていくかもしれない」「騒ぐともっとやられる」。でも、基本的には「めんどくさい」。めんどくさいことがいっぱい起こるんです。だから黙ってやり過ごせばいいと思っちゃう。これは、例えばいろいろなハラスメントとか、チカンとか、レイプとか、暴力とか、差別とか、そんなのと同じことです。
じゃぁ、どこで食いとめるのか?それは、いしっている自分たちで線を引くことです。「やりすぎちゃうか?」と、いつもビビることなんです。その感性を持つことが必要なんです。

で、こんなことが起こっていることは、きっとほとんどの人は知らないと思います。
それは、差別も同じです。自分の身のまわりで起こっていなかったら「ない」と思う。でも、どこかで起こっているんです。でも、そのことを知らない。それは、「人権を考えるアンケート」にも出てきます。
では、知らなければいいのか?
実は、当事者は常に出会っているんです。あるいは、ふとしたときに出会った経験をもっているんです。それは、来週配る予定の「君に伝えたい 大切な人権の話」を読んでほしいと思います。
そして、実は、「ある」ということは、非当事者にとっても出会う確率はゼロではないということなんです。そして、現実に出会った人がいるんです。そして、出会った人がアンケートに書いてくれました。だから、顕在化したんです。
だから、感謝をしたい。
そして、「いじめがあった」ということは「いじめられた人がいる」ということです。その人の心の傷は、そう簡単になくなるものではありません。傷を癒すためには、できればそっとしておきたいんです。でも、あえてこの場を借りて、やはり伝えなきゃならないことがあります。ごめん。
なぜ、傷をそっとせずにこんなことを言うのか。
かつて卒業生と呑んだときに「せんせいはなぜそんなに同和学習に力を入れるのか」と聞かれたことがあります。その時答えました。
「このクラスの中に部落の子がいるの、知ってるやろ?」
「うん」
「誰や?」
「S」
「そしたらな、もしもお前が将来どこかで差別と出会って、差別するか差別しないかの選択をしなくちゃならないとき、Sの顔が浮かぶやろ?」
「浮かぶな」
「そしたら差別するか?」
「せぇへんな」
「だからやるねん」
「わかった」
いじめはそんなに簡単になくなるものじゃなありません。だって、「いじり」がいじりかどうかは、なかなかわからないからです。「いじってる人」「いじられてる人」が意識しないいじりはあります。誰がそれを指摘できるのか。それは、わたしたちを含めたまわりにいるみんなです。まわりの人たちにしかわからないんです。
つまり、なくし続けることが必要なんです。なぜ?それは「みんなが幸せになる」ためです。
今日、みんなは「この学校にいじめがある」ことを知りました。そのことを通して、もしかしたら自分が「いじめ」と出会うかもしれないことも知りました。だから、「出会ったとき」にどうするかを学ぶ必要があるのです。考えることではなく、具体的に行動を起こすこと。そのことを、みんなに伝えたいと思いました。
最後までしっかり聞いてくれてありがとう。

で、職場をあとにして、おにぎりをぱくつきながら午後のお座敷の学校へ。
到着したのは20分前。とりあえず准校長室に通されたけど、あいさつしただけで、そのまま会場へ。ちょこっとセッティングしたら、すぐにつながったので、ほっと一息です。
そうこうする間にみなさん集まってこられました。てことで、2時間のお座敷スタートです。少し狭めの部屋ですが、それがかえっていいです。なんとなくみなさんとわたしとの間に一体感がある気がします。となると、テンションがあがってきます(笑)。で、気がつくとこないだと同じパターンです。
まぁ、あとからあとから新しいスライドを突っ込んでいったら、時間がかかるに決まってますよね。でもまぁええか。とりあえず与えられた時間分話をしたから。
終わったあとの准校長さんのあいさつは笑いました。「はじめに会った瞬間は頼りない感じで「大丈夫かな」と思ったけど、知らない話がどんどん出てきて、それにつれて尊敬の念が出てきた」とのことでした。まぁでも、知識は誰でも獲得できますからね。尊敬なんて必要ないです(笑)。

で、最寄りの駅からバスに乗って、お友だちと合流です。まぁ、悩み相談というかなんというか。とりあえずふたりでダラダラ話をしながらダラダラ呑んで、気がついたら10時です。これはアカン。帰らなきゃ^^;;。

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