お題はふたつ

なんか、高齢者の自動車事故のニュースがタイムラインを賑わせていますが…。なんか、政府も「安全対策」とか言ってますが。
たぶん方向性が違いますね。
かつて車が高級品だった頃、それこそ高度経済成長の入口ぐらいの時は、車なしでは生活していたし、できていた。でも、そういう地域社会が高度経済成長によってつぶれていった。そして、車なしでは生活できない社会ができてしまった。
安全対策はすればいい。それは、高齢者のためというよりも、すべての人のためにすればいい。でも、向かうべき方向はそこじゃないです。少なくとも安全対策は車メーカーがやることで、政府がやることではない。
別に高度経済成長以前にもどせと言うわけではないです。そんなのは無理です。
ではなく、今の技術力をもって、なおかつ車なしで生活できる地域社会をどうつくるかって話です。それが実現できたら、雇用も増えるし、環境にも優しい社会ができるんじゃないかと思います。
が、たぶんそういう社会は富の一極集中を狙う人にとっては、あまり歓迎できない社会でしょうね。だから、「安全対策」などという車の販促をしようとする。その新しい車を買うのにどれくらいの金が必要やねん。結局、車メーカーが得をする構図ですな。

今日、とある場所で差別的な発言がありました*1。その瞬間、気持ちはどんよりです。
指摘しないという選択はありません。それは、すべての人にとって不幸です。わたし以外はね。「指摘する」って、メッチャめんどくさくてしんどいです。なんでそんなめんどくさくてしんどいことをさせるねんと、思わずどんよりです。でも、しかたないです。
「今の発言は不適切だと思います」
「そうでした」
「次の機会にあなた自身の言葉で撤回をしてください」
「はい、すみません」
「わたしにすみませんという必要はないです」
発言があった瞬間、そこでわたしから指摘しようかと思いましたが、やめました。そして「あなた自身の言葉で撤回」と言いました。それは、発言した人の名誉を守るためです。なぜ発言した人の名誉をわたしが守らなきゃならんのか、さっぱりわかりませんが、でもそうしてあげようと思ったのです。
指摘をする側はそこまで考えてしまう。
そして、わたしに「すみません」です。謝ることではないんですよね。でも、謝りが出てしまう。あるいは、謝ってもいいけど、その対象は指摘する力をデパワーされているもっとも傷ついている人なんですよね。
でも、きっと発言した人は、謝り撤回したら忘れちゃうんだろうなぁ。そして、「あの時にね」と言ったら「それは謝罪し撤回したから終わったこと」って思うんだろうなぁ。
なんかそんなことが、澱のように心の中に沈殿します。差別的な発言とは、そういう破壊力を持っているってことです。

*1:あえて「差別発言」とは書かないことにしますが、まぁそれはあれですわ

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