手放すとき・全同教2日目

朝、身体が動くのかと心配した昨日でしたが、案外マシみたいです。
てことで、分科会場までテクテク。途中、高知の人たちがバスから手を振ってくれたりして
「なんで長野で高知の人と会うねん」
と少しうれしくなるのも、全同教の楽しさです。
今日のレポートは3本。
まずは、ひとりの子に徹底的にかかわりつづけた人からのレポートです。ほんとにすごいです。小学校の担任なのに、高校生になってもかかわりつづけている。しかも、メッチャしんどい家庭のメッチャしんどい荒れたくりの子どもです。でも、レポートからはそんな荒れたくった子どもの姿が出てきません。きっとそれは、その子をまなざすレポーターの目線であろうし、レポーターに見せるその子の姿なんでしょうね。でも、聞けば聞くほど疑問が湧いてきます。それは崩壊した家庭が家庭をとりもどす時、自分もその片隅にいたいというあたりです。真意はよくわからないけど、違和感です。というか、わたしの根本的な考え方は「子どもは自分の力でその子の道を歩む」です。なので、ある子と別の子をつないで、わたしは静かにフェードアウトしていく。その引き際、手の離し際が勝負なんだと思っています。逆に、手を離さないということは、子どもから離れられない自分がいる。もしもそうであれば、それは「子どもへの依存」ということになるんじゃないかなと思うのです。
わたしが「こうありたいな」って思うのは、人と人をつないで、わたしの存在はフェードアウトしていく。とっても寂しいけど、でも、つながった人にとってはわたしの存在がいつまでもあったらジャマになる。だから、気づかないうちにいなくなる。それが自分のやるべきことだと思ってるんですよね。そんなわたしからしたら、正反対の生き方です。
どちらが正しいかはわからないけど、「違い」を強烈に感じました。
次のレポートはうって変わって正反対。わたし好みのレポートです。小学校から中学校への「接続」と「連続性」についてのレポートでした。ただ、これはこれで少し疑問がありました。連続性は大切なんだけど、発達段階を考えなきゃ、中1ギャップは乗り越えられても高1ギャップが乗り越えられない。
なので、意見発表の時間に「連続しながら変化することが必要なんじゃないか 」などという、わかったようなわからないような話をしたりして。

で、昼ごはんは香川+高知+大阪+京都の混成部隊。「昨日の夜から今日の夜までの間に連続的に変化するためには、燃料補給が必要なんだ」とか、さっそくネタにしたりして。でも、そば屋での大阪の教員ふたりの掛け合い漫才には「そら勝てんわ」と納得したりして。

で、午後のレポートは、さすがに集中力が切れてしまいました。なので、残る総括討論でリベンジです。
この2日間考えたことを話してみました。と、三重のレポーターがきっちり話を拾ってくださって、感謝感謝です。
てなことで、今年の全同教大会も終了。来年は熊本かぁ(^^)。

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