「理解教育」ではない

今日は某人権教育研究会の総会でした。で、午後は記念講演。講師は松永真純さん。テーマは障害者問題です。
まずは、リバティ大阪時代のエピソードから。「子どもたち対象の授業の依頼があった時、部落問題や在日外国人問題だと「差別について話してほしい」と言われるんだけど、障害者問題だと「障害者理解」って言われる」というあたりから。そして「部落理解とか在日理解っていう言葉はありますか?」と。
なるほどなぁ。そうですよね。で、「なぜこういうことになるかというと「個人モデル」なんだ」と。ふむふむ。「自分は自分が障害者であることを引き受けるためには「障がい」ではなく「障害」でなくてはならない。障害の「害」にこだわるなら、その前に「健常」という言葉にこだわるべきではないのか」と。
で、バリアの話。「車いすが階段を登れない時、つい車いすに目が行ってしまう。でも、高い段差を「ヒト」が登れない時は段差に目が行ってしまう。でも、どちらも同じ。上に行けるようにすればいい」って話から誰でも乗れる地下鉄にする運動の話が出てきます。
そうなんですよね。声を上げること、妥協しないこと。
やがて、話は「青い芝の会行動綱領」を朗読する森修さんの映像へ。なるほど、わからなければ何度も聞けば、そして、聞こうとすれば、聞こえてくる。中学生の作文「聞こうとする力」の問題なんですね。
そうやって、障害者の問題は自分自身を問う問題であるということへと、自然と導いてくれる話が続きます。
質疑応答では、再び「青い芝の会行動綱領」の話。
うーん。
力強いというか、ヤケクソというか。でも、すごいです。たぶん、あとに引けないギリギリのところから反撃する時に出てくる言葉なんでしょうね。「水平社宣言」といい、「青い芝の会行動綱領」といい、なぜにこんなに。まぁ、あとは自戒の念をこめて、省略します(笑)。
いやぁ、この話、聞けてよかった。

2 thoughts to “「理解教育」ではない”

  1. おー、MMさん。この分野でほぼ唯一の「同志」と勝手に思ってる人ですよ。…って、私が紹介したんだった(^^;  ほんまレスペクトしてます。きっと「講演録」ができるでしょうから、その暁には一部いただけると幸いです。呑みに乱入したかった。。。じゃなくて、機会があればまた呑みたいどす。

  2. あー、ほんとだ。誘えばよかった。
    いやぁ、松永さんの名前を出していただいて「そうやん!」って思いました。こちゅかるさんの話が、どちらかというと「理論史」寄りだったのに対して、松永さんの話は「運動史」寄りでした。でも、いずれも歴史から学ぶところがあって、それぞれ味わい深いものがありました。

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