「問うこと」は人間存在であるらしい

きょうの話もめっちゃおもしろかった。
とにかく「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」というテーゼのもとにすべてを考えていこうと。いや、このテーゼそのものを壊してもいいんだけど、あとがたいへんだよと。なぜなら、ぼうだいな作業をしなくまたゃならない。なので、簡単に言うなら「新築ではなく、リフォームで」らしいです。
わかりやすいわぁ(笑)。
ただ、リフォームといっても、そんなに牧歌的なものではなくて、「修理しながら走る潜水艦」みたいなものらしいです*1。なぜか?すでに生きているから。そこに「現実」があるから。
わかりやすいわぁ(笑)。
で、「問いとはなんぞや」と。
すんごく簡単に言うと、「答えより問いのほうが難しいやろ」と。たしかに難しいです。試験問題づくりは(;_;)。さらに「答えがない(かもしれない)問いもあるんとちゃうかな」と。かのデカルトも「コギト、エルゴ、スム」と言ってるやろと。これを言い換えると、「人間とは問う存在である」と。
じゃぁ、もしも「問い」が許されなかったらどうなるか。
ここで犬養毅が登場です。
「話せばわかる」
「問答無用」
なるほど!「問い」のない世界は「無限の自己肯定」の世界で、それは、逆ハンの切れないドリフトみたいなものなんや(笑)。
で、ストンと落ちた話は…。
「良識ある生活と思慮のない生活の区別は?」→「手続きの有無」
思慮や良識は知識の量ではなく手続きであると。
たしかにそうです。手続きとは、結論へ至るために、常に問い続けることですよね。
「なぜ○○をするのか?」
「したいから」
なんていう会話が、なんかそこここで聞かれがちなんですが、その、「問いと答の間」こそが手続きであり、それが「問い」であり、そこに「現実」がある。
ってことらしいです。

いやぁ、おもしろい!

*1:「ノイラートの船」らしい

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