考え続けるということ

3学期の人権学習で「デートDV」を扱います。
で、昨日ようやくその教案をつくったわけですが、担任さんの中にはとまどいの言葉もあったりします。で、なぜそういうふうになるのかなぁと思ったのですが…。
やっぱり「教案をつくる側」っていうのは、何ヶ月も前からずっとそのテーマが頭の片隅にあります。たぶん、いつも小骨が喉の奥に刺さったように、それを意識し続けているんですね。その蓄積があって、あるタイミングでそれが顕在化する。その瞬間に、「教案」という「形」になる気がします。まぁそのタイミングは、わたしの場合は「小ネタの神様」だし、ある牧師は「精霊が降りてくる」とか言っておられたし、まぁ人それぞれなんでしょうけどね。
ところが、「教案をもらう側」というのは、その蓄積がない。
すると、自ずとそこに意識の差が出てしまいます。
これが案外致命的な気がします。なんというか、自分が言っていることが伝わらなくなるんですよね。
ただ、もしもDVとかジェンダーとかを意識せざるを得ない人であれば、直接「デートDV」について意識し続けていなくても、案外通じたりもします。
さて、どうしたらいいんだろう…。
やっぱり、「話題にし続ける」ということかなぁ…。

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