どうして鬱にならないんだろう

今日は久々にま゛さんと呑み。まぁ2人だけの新年会というところでしょうか。
まずはもつ鍋屋さんに行って、ひたすらしゃべりながらもつ鍋をつつきます。なかなかうまい!なので、今度の玖伊屋のメニューはもつ鍋に決定です(笑)。
続いて、お友だち*1のやっているカフェへ。こちらはええ感じの店です。店内で映し出されている映像でちょうど「ヨイトマケの唄」が流れていて、「おぉ」とか思ってしまいます。
で、「中の人」といろいろ話。
わたしは自分がなぜ「落ちない」のかということについて、「楽観主義とバランス感覚」と言ってたんですが、「中の人」はまた別の観点を話してくれました。そうかぁ、なるほどなぁ。「落ちる人」は「愛されることを期待」するんだ。
考えてみると、そのあたりについては、わたしはすごく「あきらめ」がある。というか、期待なんてハナからしていない。となると、「楽観主義とバランス感覚とあきらめ」が、わたしが落ちない理由なのかなぁ。

*1:とあえて書いてしまおう(笑)

6 thoughts on “どうして鬱にならないんだろう

  1. > 「落ちる人」は「愛されることを期待」する

     私、鬱るけど、愛されることなんか期待しませんよ。むしろ愛情嫌悪症だと思う。恋愛感情はもちろん、親の愛も神の愛も大嫌い。神なんか実在してたら、きっと殺しちゃう。いっこないから殺せないけど。

     なので、その分析は間違いだと思います。

  2. 全然業界は違いますが、何らかの「欲求の実現」に対して、人(マイノリティ・マジョリティ)・社会の3フィールド間に有形無形のバリアがあって「困難」に出会うと、圧倒的な現実に思い描いてた理想とのギャップで「落ちる」ことありますねぇ。

    でも近年の自分はどちらかというと、「落ちない」ほうなんです。まだ過渡期でしょうけど。w

    渇愛は激しくあるんですが、心の柔らかい部分をコントロールする理性の方が上回ってる感強いです。w 可能性というか’若さ’を踏まえて、周囲に「諦めていない」という希望がこの理性を支えてるところはあります^^

  3. > 樹村さん
    そうでした!樹村さんの存在を失念していました。
    逆ですね。
    「愛されることを期待する人」は「落ちる人」になりやすい。
    ですね。

    > はるひさん
    「若いっていいわね」と、とりあえず言ってしまうおばはんです^^;;
    座右の銘に
    「英知においては悲観主義者、だが、意思においては楽観主義者たれ」(浅田彰が引用した(笑)グラムシの言葉)
    というのがありまして…。

  4. > 「愛されることを期待する人」は「落ちる人」になりやすい

     それでも、やや変だと思います。鬱を、何か自分から遠い、縁遠い、特別なモノだと思いこもうとしているのが感じられます。差別感情と紙一重で、危険な思想では。ちょっと村上○樹みたいな… あ脱線。

     鬱なんか、脳内セロトニンが何らかのきっかけで減れば、誰だってなります。陽気な人、ポジティブなヒト、愛云々に関係なく自立した人、その他色々、誰でもなり得る。

     なので、どうしても傾向を言いたいのだったら。
      「運の悪い人」は「落ちる人」になりやすい。
    これくらい?

  5. そうかぁ。そう言えば、「鬱」ってある意味単なる病気(誰もがかかる可能性のあるという意味)でしたね。確かに。

  6.  この手の「こういう人が鬱になりやすい」という言説の多くが、患者を弁護するための、善意に基づくモノだというのは理解出来るんです。「真面目な人がなるんだ」「几帳面な人がなるんだ」「気配りの細やかな人が…」etc.

     でも、得心の行く説明って見たこと無いですねー。私自身や、私の周囲のメンヘラーを見ると、ナットクデキナイものばかり。なので、「鬱病患者の自責の念や、理解のない他人の目を和らげるために、テキトーに作った話なんじゃないの?」と邪推しています。

     いや、善意は有り難いんですけど。事実に基づかない説明・分析は、また別の差別や偏見をもたらしそうで怖いです。「脳の内分泌の病。ココロとはカンケー無い」という説明じゃダメかしら。

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