追悼礼拝

某所に案内文(笑)考察(批判文)が載っている追悼礼拝に「遺族」として行ってきました。
まぁもちろんいろいろあるんだけど…。
基本的には、葬儀式は「身内だけで」というスタンスを打ち出していたので*1、そうではない「場」をつくる必要があったんですよね。それを、今日やった、ということなんです。
で、「遺族」としての私のスタンスは、基本的には「感謝」です。ほんとうに。
ひとつには、母親がいろんな人々と会う機会が得られたこと。やっぱ、そういう「場」は必要なんだと思うのです。
もうひとつは、今回の「礼拝」のおかげで、いろんな人が実家に来る必要がなくなるということ(笑)。なにせ、「身内だけ」とやると、「「ごあいさつ」に行かなくちゃ」という人が出てくる。それもけっこうな数になるかも。なので、その人たちの「ガス抜き」の場所をつくる必要があったということです*2
で、最後のひとつは「発言の機会が与えられた」ということです。
ある意味、母親の話は強烈なものを持っていたんじゃないかと思います。

もしも僕が窮地に立った時、君は助けてくれるか?

というのが、父親のプロポーズ前の言葉だったとか。その時母親は「はい」と答えたそうな。で、「その「窮地」が「今」である」というメッセージは、やはり残されたもののうちの1人のわたしにとっては強烈でした。
もちろん、「あくまでも助ける側」として「女性」をとらえているという批判は成り立ちますし、それは極めて正しい批判点でもあると思います。大切なのは、そうした「限界点」を持ちながらも、それと向きあいながら生きることなんだと思います。
で、わたしの話は…。

父親は、ほんとうにこわい人でした。
起こっている表情をあらわすのに「目を三角にする」という言葉がありますが、まさにその言葉の通り、怒ると目が三角になる人でした。とにかく「こいつはやばい」と思う子どもの頃でした。
そんなわたしも、高校くらいになると、うちにやってくる学生のマネをして、論議をふっかけてみようと思うこともありました。父にこんなことを聞いたことがあります。
「歴史とは何か?」
すると、父はこう答えました。
「歴史とは、右往左往するものである」
なんだこりゃ?と思いました。
あるいは、こんなことも聞きました。
「尊敬する人物は誰だ?」
父はこう答えました。
「田中正造」
マニアックなヤツだと思いました。
やがて大学生になりました。
わたしは、とにかくほんとうに語学が苦手でした。父親に聞きました。
「60点で合格するのか、1年落としてもいいから80点で合格するのか、どちらがいい?」
父親は即座に言いました。
「どちらもダメ」
とりあえず、こんなヤツと同じ道を歩んだらとんでもないとおもったので、高校の数学の教員になりました。教員になって、わたしは自然と部落の子や在日の子とかかわることになりました。
これも、おそらくは両親の影響だったと思います。わたしの小さい頃の思い出の中に「両親に手を引かれて青空の下を歩いている」という風景があります。これ、どう考えても、京都の繁華街なんです。でも、繁華街にはアーケードがあって、青空はありません。たぶん、あれはベ平連のデモでした。そんな両親でしたから、わたしが自然とそういう方向に行ってもしかたがなかったんだと思います。
ただ、そういう活動をしていると、当然父親のことを知る人と会うこともあります。そんな人々から
「土肥昭夫のお子さんですね?」
と言われたことがあります。わたしは即座に訂正をしていました。
「いえ、わたしの父親が土肥昭夫です」
まぁ、目一杯張りあおうと思っていた時代でした。でも、校区のムラ中に移り住んで、子どもたちとゆっくりとかかわるようになって、だんだんと自分なりのことができてきたなぁと思いはじめたのが、いまから10年ほど前のことです。このころ、ようやく
「土肥昭夫のお子さんですね?」
と言われて、
「そうです」
と答えられるようになりました。
ちょうどその頃、「部落史の見直し」というのが知られるようになりました。
一般的には「近世政治起源説」から「中世に起源がある」というふうに移行していったととらえられがちです。でも、わたしはこのとらえ方は、表面的であると考えています。おそらくは、これは網野善彦さんたちがされた「日本史の見直し」の文脈の中でとらえる必要があるんだと思っています。すなわち、政治史として日本史をとらえるのではなく、ひとつひとつの部落の歴史を丹念に掘り起こし、そこから歴史を記述していくという、歴史のとらえ方の根本的な考え方の違いであると考えています。
そして、そこで出会ったことがふたつあります。
ひとつは、「なぜ今までの運動の中でも部落差別がなくならかったのか?」ということへの答え。もうひとつは、「部落差別をなくすとりくみは、どこかの運動体がやるというものだけではなく、さまざまな人々がそれぞれの時代の中でやってきたことである」ということ。それは、例えば中世の「又四郎」であるわけです。
そうした中で、教材化された内容の中に「ふたりの庄屋の話」というものがありました。
ひとりは、木下尚江の『懺悔』の中に出てくる非常に差別的な庄屋の姿でした。そして、もう一人が田中正造でした。「正造はえたを愛す」と題されたそのエピソードはこんなものでした。
「正造はえたと一緒に田畑を耕した。休む時には同じ瓶から水を飲んだ。夜になると、一緒にごはんを食べお酒を酌み交わした。そんな正造に向かって、まわりの人々は「やめておけ」と言った。でも、正造は「一緒に働いているんだから」とやめなかった。やがて、まわりの人々は正造も避けるようになった」
そして、このエピソードは
「正造、不便すること多かりき」
とむすばれます。
この話に触れた時、「やられた!」と思いました。そして、自分の生き方が決まったような気がしました。
父親が「尊敬する」と話した「田中正造」は、足尾鉱毒事件なんかで有名な「田中正造」ではなく、こうした日々の淡々とした暮らしの中で差別と闘う(向きあう)田中正造だったんだと、その時思いました。そして、父親がやってきた仕事は、そうした光を浴びることなく、日々の淡々とした暮らしの中で闘い続けてきた人々に光をあてることだったんだと、ようやくわかりました。
わたしは、大学を出る時、父とは「違う道」を選びました。ですから、わたしは「光をあてる側」ではなく、光はあたらずとも、日々の淡々とした暮らしの中で、地道に子どもたちとかかわっていきたいと思います。
ありがとうございました。

まぁ、途中「ん?」と思うところもありますがね…。特に最後のあたりが。わたしのことを知っている人たちは「うぷぷ」と笑っていましたけどね。

*1:実際にはそうではないことは、もちろんいいわけなんですが…

*2:もちろん、id:Yu-uさんとかのように気心の知れた人たちには「ぜひ来てほしい」わけで(笑)

追悼礼拝” に6件のコメントがあります

  1. いろいろな側面があったのですよね。すみません。
    失礼いたしました。
    itukiさんのお話をあの場で聞けたこと、嬉しかったです。感動したし。まじで。
    そして、ちょっとだけだったけれど、ゆっくりお話できて、嬉しかったです。
    ”かみあわなかった話”については、またいずれ!

  2. 早っっっっっ!
    それぞれの人が、それぞれなりの形で意味を考え、総括していくことが大切なんだと思います。そういう意味で、Yu-uさんの総括はとても「えぐられながら」読みました。てか、わたしも「さまざまな限界」の中にいてるし…。

  3.  お疲れさまでした。実は、「田中正造、部落史」の話、この土曜日のうちに聞きましたよ。(私が友人宅に遊びに行くと、18時ごろ帰宅したご家族が話してくれた。それが某ブログにコメントされたAIさん。) 
     「○○のお子さんですね?(by基督教界の人々)」から逃げ回り、「違う道」を選んだ自分をなんとか肯定しようともがいていた20代のことを思い出して、勝手に感慨だす。「そうです。」と(まだ親が生きているうちに)答えられるようになったitukiさんがちょっとだけうらやましいです。

  4. あぁ、AIさんって!
    そういえば、ここもたまに読んで下さっているとか^^;;

  5. 私はitukiさんのスピーチが再び「田中正造」にたどり着いたときには安堵の胸をなでおろしたよ。Yu-uさんが「歴史とは右往左往するもの」について自分のblogで言及されてるけど、私もあれは、いかにも土肥昭夫語録だと思いました。私も呑みにつきあいたいところでしたが、土曜はやっぱりあかんかった。また今度ね。

  6. 「どこ行くねん!」とハラハラさせるのがわたしの常套手段(笑)。
    にしても、後ろの方で「ゆっくり!」とか「いつまでその話!」とか反応してくれていたの、よくわかりましたですm(__)m

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