ホーム

現在、わたしたちが集まりをやっている場所がなくなるかもしれないという事態が進行しつつあるようです。先日、「「場所」を確保するための話しあいがあるので来てほしい」という連絡があり、今日がその日でした。でも、パートナーの調子が調子なので、わたしが行くことについては断念せざるをえませんでした。で、代わりに行ってくれる人を探したのですが、若い衆がひとり「行きますよ」と言ってくれたので、行ってもらうことにしました。
その若い衆に趣旨説明をするにあたって、どう言おうかと思ったのですが、最終的にはひとことだけでした。
「あの場所がなくなったら困るやろ?」
それに対する答は「はい、困ります」だけ。これだけで、たぶん通じてしまうんだろうなぁ。
その若い衆、さらに若い衆を2人引き連れて話しあいの席に行ったそうです。その話しあいの席には行政関係者と運動体の他には一般利用者としてはわたしたちだけだったみたいです。そこで、3人はブイブイいわせたそうな*1
でも、あとでわたしに連絡をしてきた人から「ありがとう。ほんとうにいい話を聞かせてもらった。わたしたちも学ばせてもらった」という電話をいただきました。

その「場所」、長い闘いの中で先輩達が勝ち取ってこられた場所です。そこを今わたしたちも使わせていただいている。なぜいま、わたしたちが使わせてもらえるか。それは、勝ち取ってこられた先輩達は、わたしたちをより理解したい。そして、ともに歩みたいと思ってくださっているからです。そんな人たちと一緒の場だからこそ「集まり」ができる。
「場所」は「場所」であっても、単なる「場所」ではないんです。おそらくは、わたしたちにとっての「ホーム」になりつつあるところなんです。

考えてみると、わたしたちって「ホーム」がないんですよね。集まって住んでいるわけでもないし、生まれながらに持っているわけでもない。下手をすると、「親・きょうだい」こそがもっとも「ホーム」から遠い場合もあります。だからこそ、「ホーム」がほしいと思ったら、自分でつくりだしていかなくちゃならない。

いま、ようやく手にしようとしているかもしれない「ホーム」を奪われそうな事態になった時、若い衆が声をあげたのは、ある意味必然だったかもしれないです。そして、実はそれは、かつて「先輩」たちがやってきたこととある意味同じなんじゃないかとも思います。「集まって住んでいるからホーム」ではない。「生まれながらに一緒に住んでいるからホーム」ではない。「ホーム」はつくりだすものなんじゃないだろうか。
んなことを、ふと考えました。

*1:死語

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