午前は中国帰国生徒にかかわる京都の中学校のレポート。いいとりくみです。身びいきじゃないです。
そうそう、レポートの前にレポーターに「がんばってください」と声をかけにいったら、「きのうの統一応募用紙のレポート(の「言わない、聞かない、提出しない」という話)、なんかわからなかったんですけど、いつきさんの意見を聞いてやっとわかりました。わたしたちのレポートにつながる話をしてもらってありがとうございます」って言われてしまいました。いや、逆ですよ。あなたのレポートがあるからこそ、そういう発言ができるんですよ。
2本目は、埼玉のレポート。不登校の子にかかわる話ですが、これまたていねいにやっておられます。字面だけを追ったら「なんじゃこりゃ?」なんですけど、そこの地域の抱える問題なんかをていねいに聞いていくと、ほんとうにていねいなとりくみをされているなぁと思いました。しかし、全同教のレポートもいろんなものが出てくるようになったなぁ…。
総括討論では、いろいろあったけど、ついわたしも発言。
実は、埼玉のレポート中に、急速に仲良くなった2人の女の子同士のことを「まぁ、女の子同士だから恋愛っていうわけじゃ」と笑いながら話していたのが気になっていたので、そのあと「レズビアンを排除する発言があった」ということを指摘したんです。ところが、それを聞いた会場から少し笑い声が聞こえた。それに「カチン」と来ていたので、
「先ほど笑い声が出ていたけど、わたしは笑えない。人数比を考えると、ここにも同性愛者がいて当たり前だ。でも、あの笑い声を聞いたら、その人はきっとこの全同教という場所を「あぁ、ここは言えない場所なんだ」と思うだろう」
と真っ向勝負をしてしまいました。
あと、「つながり」という言葉が分科会の最中にたくさん出てきたので、昨日感じた話もしました。
「セクマイは親から子へ・子から孫へというつながりはありえない。そのつながりをつくるために、関西で「トランスジェンダー生徒交流会」をはじめた。集まってくれた高校生は5人。圧倒的多数は、そこにたどりつくことすらできない。最も少数のものは目立たず無視されがちだが、もっとも「つながり」「出会い」を求めているのは実はその子たちだ。その子たちをつないでいくのは、教員にしかできない」
とこれまた真っ向勝負。
まぁええか…。
全同教・1日目・夜
夜は魑魅魍魎が跋扈する交流会。今年は200人を超える人数が集まり、ひたすら自己紹介に終始するという、もう、わけのわからない交流会でした(笑)。
でも、とくに若い部落の子が自分の今の状況を話したり、ものすごく熱い交流会になりました。
交流会が終わって2次会に行く途中、K口くんと一緒になったので「あの「部落の人間として生きることを選んだ」っていうの、すごくよかった!」ってほめたら「なに言うてんの、あんたやあんた」って言われました。やっぱりそうか…。で、わたしはわたしで「あれを教えてくれたのな、U佐の…」って言ったら「あぁ、M野さん!」って。まぁそういうことで、まわりまわっていくわけです。
K口くんのそのあとの話に大爆笑。「そのあと、「ちょっぴり誇りに思える」って言ったやんかぁ。あれね、「ちょっぴり」がミソやねん。オレ、電車の中で解放新聞拡げて読めへんもん。いろいろ気ぃつかってんねん」。
ええ感じや…。
2次会では、なんだかいろいろ説教臭いことも話していたような気がして、思い出すと落ち込んでしまいそう。やれやれ…。ホテルで3次会「カフェいつき」をやろうかという話もあったのですが、みんなすでにダウン寸前だったみたいで、そのまま終了。みんな年とったよね(笑)。
全同教1日目・午後(その2)
ということで(笑)、2本目のレポートは、大阪の「情緒障害短期治療施設」に併設された小学校の分校からのレポート。まぁ、すごいです。相も変わらず大阪は。それにしても、大阪っていろんな学校があるなぁと思います。それだけきめ細やかな対応が可能になるっていうことですね。たぶん、ニーズは他府県にもあるんだろうけど、そのニーズにこたえきれていないというか、切り捨てているんでしょうね。
その後、討論の時間。
わたしは統一応募用紙について、軽く意見表明と問題提起。
ひとつは、統一応募用紙の性別記載欄のことについて。高校生だと特例法の最初の要件にひっかかるので、性別変更はできません。となると、性別記載欄に書いてある性別と、名前なり姿なりとの食い違いが激しく、望まないカミングアウトを強いられてしまいます。統一応募用紙の精神からいうならば、性別記載欄も削除すべきではないかということを、まず提起しました。
でも、その一方で、「いつまで隠すねん。どこまで隠すねん」ということ。トランスの人間にとって、性別へのこだわりは、自分という人間を形成していく上でとても大切な要素になります。つまり、「性別」は自分自身の「能力・適性」と密接な関係があるわけです。だからこそ、「それを言いたい」というのは「あり」だろうと思うのです。あるいは、K口くんも特別報告の中で「選んだ」と言っているわけで*1、そういう生き方丸ごとを認めていく社会にしていかないといけないと思うのです。
結局、統一応募用紙の精神って、「単なる労働力としてのみ評価しろ」ということで、そこに人間性って欠如しているように思えるんですよね。確かに、統一応募用紙ができた当初は必要だったとりくみだろうけど、いま、それを越えるとりくみが必要になっているはずなんですよね。もしもそれができていないとするならば、それは、わたしたちが怠慢をしてきたということにつながるかと思うのです。
てことで、「ふたつの思いの中でジレンマがあります」と、かわいらしくまとめてみました(笑)。
そんな発言をしたら、東京の企業の方が続いて発言されました。「わたしたち企業の側も、いつまでも統一応募用紙に甘えていてはいけないと思います。もちろん、選考にあたって差別をなくすのは当たり前のことだけど、「話したい」と思う人が話せる企業をつくっていかないといけない」。
すごいよ!この人!
分科会が終わって、その人、ツツッとやってこられてこう言われました。「いつきさん、高野山で一緒に呑みましたよね。わたし、東京の東ジュンさんなんかとも知りあいで、いつも「一緒にのみに行こう」って誘われているんですよ」。なるほど…。東ジュンさんの手は、こっちにもまわっていましたか…(笑)。世間は狭いなぁ(笑)。
てか、きちんと覚えてなくてすみませんでした。あの時、実は半分寝ていたんです。
*1:これ、今回本当によく使わせていただきました。ありがとう!
全同教1日目・午後
午後は分科会。「進路・学力保障」の分科会に参加したのですが、会場が遠い!全同教にとって、「自主活動」と「進路・学力保障」は命だろうと、わたしは勝手に思っているのですが*1、えらい冷遇されているなぁという感じです。おかげさまで、参加者も少ないのなんのって。それでも150人ぐらいはいたらしいですけどね。
1本目は、熊本の高校のレポート。「言わない・聞かない・提出しない」という「統一応募用紙の精神」にかかわった進路保障のレポートだったのですが、なんだかよくわかりませんでした。ただ、その後の質疑応答なんかの中で、少しわかってきて、まぁよかったのですが…。
気になったのは、県の部落解放高校生集会の代表を部落外の子がやっていることにかかわる、教員側の評価です。わたしは、ぜんぜんかまわないと思うのですが、どうもレポーターは「被差別経験がないものなんだけど…」みたいな評価をしているように思えてなりませんでした。でもね、部落外の子が、そういうふうになるってすごいことだよなと思うのです。「自分の経験に依拠してしか隊列に加われない人」よりも、「自らの生き方として選択的に隊列に加わった人」のほうがよほどすごいと、わたしなんかは思ってしまいます。
その子、集会で寝ていた部落の子に「部落の人たちが出しあったお金で今ここに来ている。その思いに答えるためにも、寝たらあかんやんか」みたいな注意をするわけです。それに対する部落の子の答が「確かに寝ていたけど、ひとつでも持って帰ろうとしていたんだからええやんか」というもので、これって、完全な開き直りですよ。なぜこういう会話で、それでも成り立つかというと、部落の子が「部落」という立場に依拠しているからだと思います。これ、反対の立場だったらこういう「返し」はあり得ないと思います。
外部からの指摘を真摯に受けとめる姿勢がないから、この間のうわこらなにをすr
「つなぐ」ということ
でも、宇和島の人たちの話を聞きながら、「うらやましい」と思ってしまったのは、やっぱり「伝える」「つなぐ」ということについてなんですよね。「親から子へ、子から孫へ」というのがよく言われるのですが、セクマイのギョーカイではあり得ないことです。でも、そうした「つながり」から学ぶことはたくさんあります。
セクマイのギョーカイでは、そうした「つながり」を、血縁や地縁、あるいは民族とは別に、自覚的につくりだしていく必要があります。
部落や在日の場合、世代間で価値観の対立があったとしても、それを越える別の「つながり」というものをまだしもつくりやすいのかもしれないけど、セクマイの場合はそうはいかない。そこの対立は、決定的な対立になってしまいます。しかも、「前の世代を越える」という形だったらまだしも、「前の世代を否定」という形での対立になると、「つながり」というものがまったくなくなってしまう*1。
でも、誰かが誰かとつなぐ役割を担わないといけないと思うのですよ。もしもその一端を担うことができるなら、やはりやらなきゃならんかなぁと思ってしまう今日この頃です…。
そうそう、特別報告のトリを努めたK口くんの話の最後の一文。「自分は部落民として生きることを「選んだ」。こんな自分をちょっぴり誇れる気がします」っていうの、すごくよかった!
全同教1日目・午前
午前は全体会。
開会行事ではいろんな人があいさつをするんですが、今回感じたことは、「教育基本法改悪って分水嶺だなぁ」ということでした。なんらかの形で教基法に触れる人と、まったく触れない人がいます。なかでもいいあいさつだったのは、松山市長と自由同和会の上田藤兵衛さんの話。「すごい!」と思いました。で、一番触れていないのが、全同教の基調報告。あかんやろう…。
その後、特別報告。一昨年行かせてもらった宇和島の人たちの3代にわたる部落解放への思いが切々と伝わってきました。わたしは、気がついたら、どういうわけかその宇和島の人たちが聞いているのと同じ場所に座って聞いていました。最初に話された80前のおばあちゃんが、話し終わったらいつのまにかそこにおられたりといったこともあって、すごく「生」の空気が伝わってきました。いや、ほんとうにそこで聞けてよかったと思いました。
愛媛へ・全同教0日目
午前中、サクッと授業をこなして、昼にスタート。目指すは松山です。
松山では、明日・あさってと「全国人権・同和教育研究集会」が開催されます。明日は午前中からなので、今日は前泊になります。
近年、出張旅費の削減と「法切れ」のために、なかなか出張でこの手の集会に行くことができなくなってきたのですが、正直言って、「免許の更新制」みたいなことに膨大な時間とお金をかけるよりも、この手の出張を見つめていった方が、はるかに安あがりだし効果が高いと思いますがねぇ。
で、出張で行けない人もいるということで、今回の交通手段は車。出すのは当然わたし。まぁ、長時間の運転はさほど苦にならないタイプですから、ぜんぜんかまわないのですがね。てことで、5時間ほど頑張ったら、あっという間に松山です。
ホテルに着いて、一息ついたところで、現地で待ちあわせをしている人と連絡。とりあえず合流をすることにしました。と、そこへ別の人からも連絡。しばらくたつと、またまた連絡。一緒に行った京都の人から「どんだけ知りあいがいるねん」とあきれられてしまいました。いや、わたしもあきれています。というか、みんな呑むのが好きやなぁ…。
結局、はじめのうちは5〜6人で呑むという話だったのが、フタを開けてみると、12人になっていました。地域も、宮崎・熊本・佐賀・大分・大阪・京都という、普段は絶対に会うことができない人たちが結集。これもまた、全同教ならではの風景です。こういう出会いの中で、互いに自分たちの実践を話したり、他地域のとりくみに学んだりするわけです。
なんだかんだで、7時頃から飲み始めて11時頃まで飲んでいましたか。その間、焼酎のボトルが何本開いたことか…。みんなよー飲むわ。
ホテルに帰ったら、そのまま倒れ込むように寝てしまいました。
外と中
中にいたら外のことがわからないことがたくさんあります。もちろん逆のこともまた言えるわけで。
例えば、それは学校。中のことは外からはわからないし、外のことも中からはわかりにくい。
例えば、それはギョーカイ*1。々
例えば、それは議会。たぶん、国会議事堂でのやりとりも同じなんだろうなぁ。国会をヒューマンチェーンで取り巻いても、その声は国会の中には届かない。国会の中で通用するのは、まわりを取り巻いている人たちにはわからない価値観とか力関係とか論理とかなんでしょうね。そして、どんどん数の横暴とそこへの妥協をする人たちによって勝手にことが決められていく。
1年ちょっと前の衆議院選挙の時の予感が、ほんとうにいま現実のことになっていく。
*1:なんの業界かはここでは言いませんけどね・笑
何軒あんねん!
いま、左腕の状態が状態なんで、あまり厚着ができません。なので、一着で暖かい服がほしいなと思い、Uニクロのダウンジャケットを買おうかなぁと思い立ちました。ここで、フェアトレードとか出てこないのが、自分的には「なんだか」なんですけどね。
ところで、せっかく買うんだから、自分の気に入った色とデザイン、そして自分にあうサイズがほしくなります。で、ベージュのL寸ということで、昨日探したんですが…。
昨日、まずは宇治店に行きました。サイズがないっす。あるのはMかXL。断念。
続いて、アバンティ店。サイズも減っています。Mのみ。断念。
さらに、高野店。そもそも、ベージュがないです。断念。どないなってんねん。
で、本日。まずは、竹田店。ベージュ発見。Mのみです。断念。
次に上鳥羽店。これまたMのみです。断念。
さらに、中立売店。ハケーン!ベージュのL。しかも、焦げ茶のLもあります。焦げ茶にいたっては、店6つまわってもほとんど見ることすらできていませんでした。
結局、焦げ茶のLを買ったのですが…。
しかし、職場から家までのルートを2本考えたら、それぞれのルート上に3軒ずつある*1Uニクロって、いったい…。
*1:実際には片方のルート上には6軒ありますが、駐車できるのが3軒なんです。
結局タニンゴトだよなぁ…
教育再生会議*1がいじめへの8項目の緊急提言をまとめたそうな。
曰く「いじめた側の子どもに対して、指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる」とか、「傍観する行為をも許さない」とか、「過程や地域と一体となって解決にとりくむ」とか。
こんなん「いまさら」な話ばっかりですわ。いままでこんなことはさんざん言ってきたことです。てか、「いじめ」を「差別」に置き換えたら、言われる前にとりくんできました。こんなことを、いまさら「緊急提言」とか言われてもなぁ。
それと思ったこと。
なぜイジメが起こるかという根本的なところは放置して、表面上をなぞって「起きたことへの対応策」を強化することによって対応しようとしている。簡単に言えば「罰則規定」を強化して防止しようとしているということ。こんなことやっても、ひずみはどこかに出てきます。
なぜこんな提言が出てきたんだろう。
結局、みなさん直接かかわっていない人なんですよね。なので、傍観者的なわけです。
簡単に言うと、こういう感じ。
Aさん「いじめなんて、いじめるヤツが悪いんやんけ!」
Bさん「そやそや!」
Cさん「ほな、いじめたヤツには厳しい罰を与えたらええんとちゃうか?」
Bさん「そやそや!」
解決
Aさん「端で見ているヤツも同罪やで!」
Bさん「そやそや!」
Cさん「ほな、「端で見てたらアカン」て指導ささんとアカンで!」
Bさん「そやそや!」
解決
Aさん「だいたい、教師が悪い!放置するとか助長するなんてもってのほかや!」
全 員「そやそや!そんなヤツは処分したらええ!」
解決
Aさん「あとは、家庭や。もっと家庭がしっかりせんとあかん!」
全 員「そやそや!ほなそれも言うとこ!」
解決
まぁこんな感じじゃないですか?
イジメの構造が重層的だったり、立場が流動的だったりするなんていうことについての考察はどうやらなさそうです。誰かのせいにしたり、強制力を働かせたらそれで解決するわけで、その対象として唯一教師だけが「処分の対象」となります。また、こんなとき例えば「共働き」をすぐに問題にするんですが*2、共働きをしないと教育費はおろか、日々の暮らしもままならない経済の状況には言及せずに、簡単に「家庭の教育力」を求めます。そして、「いじめ←→いじめらる」という関係が、実は経済とか権力関係という形で、大人の社会にも存在し、自分たちもその網の目の中で生きているという観点。ましてや、自分たちが「いじめる側にいる(かもしれない)」という自分自身への洞察が決定的に欠如しているように思われてなりません。
常に「自分は足を踏んでいるかもしれない」という想像力を働かせるところからしか、実はイジメの克服・加差別の克服はないと、わたしは思っているんだけどなぁ。自分たちは永遠に「正義」で、まわりを「評価」しているようにしか思えない提言では、結局イジメを増長することにしかならないんだと思うんだけどなぁ。
まぁ、「美しい日本」っていうのは、そういう「正しさ」のまかり通る国なんだろうとは思いますけどね。こうやって「教育を再生」しようとしているのかと思うと、マジ、書いていてイヤになってきた。