読書感想文

3日の宴会(笑)の時にお借りした『太郎が恋をする頃までには』を、今日ようやく読み終えました。
今日も同じ場所で宴会があったので(笑)、「ちょうどいいから返そう」と持っていったら「早かったね」と言われてしまいました。
まぁ、もともと本を読むのは早いんです。そのかわり、「じっくり鑑賞」ではたぶんないです。そうそう、大学の頃、吉本隆明とか読みはじめた時、異様に読む速度が遅くて「あぁ、オレはダメになったorz」と落ち込んだことがありました。で、普通の小説を読んだらやっぱり今まで通りの速さだったので、「むずかしい本を読むとスピードが落ちるんだ」と理解したという…。まぁ、どうでもいいですが。
で、『太郎』をお借りした時に、「感想聞かせてね」と言われていたので、とりあえず感想を言うことを留意しながら読んでいました。
で、感想ね。
一言で言うならば、「共依存関係に裏打ちされたDVのストーリー*1」ですね。ネタバレになりそうなんだけど、基本的に主人公の「転機」は、「太郎」の激しい感情の爆発がきっかけになっているんですね。で、主人公はその「爆発」を「被差別の歴史ゆえ」と解釈し、そこに「哀しみ」や「やさしさ」を感じとるという。
で、こういう関係って、まぁ言ってみれば「アサーティブ」とは対極の関係にあるわけです。最後の「オチ」もかなり唐突かなぁ。AERAの記事を読んで「オチ」は知っていたし、記事を読んで「なるほど」と思っていたけど、やっぱりちょっとしっくりこなかったです。まぁ、これは作者の意図をわたしがきちんと理解できていないだけだとは思いますけどね。
で、一番読んでいてしんどかったのは、「当事者至上主義」みたいなものが感じられたということ。「間違っている」と思っても、「当事者」ゆえにそういう結論が出されたんだと解釈し、「当事者の決定」を「理解」し、それに従う。言うならば、共依存関係のおおもとがここにあるということになるでしょうか。
この関係、実は「さまざまな当事者」をめぐる運動や言説の中でよく見られることのように思います。
かつてわたしは、この主人公のように「太郎*2」との共依存関係に、疑問や違和感さらには嫌悪感すら持ちながらも、それを言う勇気もなく、どっぷりと浸かり込んでいました。いや、いまもそこにいないわけではない。でも、「これって共依存だよね」ということが言える「友だち」が、少なくとも何人かできたことで、そういう関係にいる自分のことを、ある程度客観視することができるようになった気がします。これは、わたしにとってすごく大きなことです。

翻って、わたしが、なにやら「当事者」というレッテルをはられる立場になったとたん、わたしもまた共依存の対象にされる可能性がすごくあるわけです。
共依存の対象という位置に自分をおくと、これが実に心地よい(笑)。だって、自分はある意味「持ち上げられる」存在になるし、自分の「発言」「行動」に、まわりの人は過剰なまでの意味を見いだしてくれながら、それが通っていきます。
しかし、その関係は、そこから一歩下がるとすごく異様な風景です。
では、どうすればその関係から自分を救い出すことができるのか。それは、逃げ続けること。そして、まわりのわたしへの言説から、わたし自身を常に少しだけずらし続けること。常に「実践」に足場を置きつづけること。そしてなにより、誰もがその人自身の人生の当事者であると心に刻みながら対話をし続けること。

他にもあるんですけどね。「オチ」の最後の結末が「それかい!」みたいな*3。そこへ至る経路の中に、やはり結婚・出産・家みたいなものがアプリオリなものとして底辺に流れている。まぁ、だからこそ、この本のテーマがなりたつんですけどね。でも、少なくとも「セクマイ」とは無縁な話だなぁ…。
っていうのは意地が悪すぎますか…。

*1:あぁ、これは前に樹村さんが「GO」について言っておられたなぁ…

*2:に代表される「当事者」たち

*3:結局最後は、「血」の問題かい!って感じ

てことで…

定時に仕事を切り上げて大急ぎでお家へ。
服を着替えたら速攻電車に飛び乗って、なんとか待ちあわせの時間に間に合いました。で、百万遍角あたりで謀議。向こう2年ほど自分の首を絞めることになりそうな悪寒…。

日程闘争再び!

かつて、「スケジュール闘争」のことを、「日帝闘争」をもじって「日程闘争」とか言っていましたよ。と言っても、完全にお祭左翼なわけで、きちんとやっている人たちからすると「お前、なにやってんねん」と怒られるか、はたまたあきれられるかみたいなわたし(たち)だったんですけどね。
でも、1月中旬〜2月中旬を見ると、「出没情報」に載っていない私的な呑み会(?)も含めると、10回ではきかないわけで…。これはもう、「日程闘争」の範囲を超えている気もするわけです。
実は、この火曜日・水曜日はそんな中、久しぶりに家族と一緒に晩ご飯*1を食べることができた日なんです。
で、今日から再び日程闘争がはじまるわけで…。はたして大丈夫だろうか…。風邪も引いているし…。まぁ、マスクとのどヌールスプレーとヘパリーゼで乗り切ることにしましょう(笑)。

*1:正確には昨日の夜は職場から帰ってきてしばらくバイクいじりをしていたら、晩ご飯に遅れてしまった^^;;

慣れっておそろしい(笑)

毎朝「何を着ていこう」というのがけっこう問題です。
なにせ、行きは下手するとマイナスの気温の中を疾走します。で、昼間は最近は10℃オーバー。
あと、まぁ「着たいもの」と「着られるもの」のギャップなんかもないわけではないわけで。

てことで、今朝は、この冬に買ったユニクロのニットのワンピースをチョイス。下はスキニーのジーンズです。さて、どうなることやら…。

で、職場を歩いていたのですが、反応はほぼゼロ。
唯一、1年生の子が「それ、スカートやん」と、極めて正しい指摘。「うん、かわいいやろ」でおしまい。
まぁそんなものか…。

皮肉やなぁ…

家に帰って新聞を開いたら、「性同一性障害の写真展は不適切? 立命大と学生対立」というタイトルがありました。
http://www.asahi.com/national/update/0203/OSK200902030027.html
なんちゅーか。本人達はこのタイトルとか中身*1をどう考えるのかな?

まぁ、自分がいくら「違う」といっても、しょせんはこういうふうにしか表現してもらえないわけで。そこから逃走するのにどれだけのスピードが必要だったことか(笑)。

*1:「女性の体で生まれ、性同一性障害と診断された」という表現

つながること

よく「違いを豊かさに」とか「ちがうことこそすばらしい」というフレーズが出てきます。
たしかに、それそのものは極めて正しいわけですが、それが「暴力」の前にさらされた時、いかに無力であるかということを、昨日思い知ったわけです。
「でも」と思います。
その違いを、その分断を、そのままに放置していくのか。あるいは、「わたしたち3人」の側が、互いの違いを根拠に、その分断をさらに広げていくのか。
少なくとも、わたしはそうでありたくはありません。そのためには「対話」を途切れさせないいとなみが必要なんだと思います。
ともすれば「違いを攻撃に」してしまいがちです。とりわけ圧倒的な「暴力」の前で、その矛先が「なかま」に向いてしまう。昨日経験したそこからの回復の回路は、やはり「対話」なんだと思います。
「対話」の根本は「信頼」にあると思います。その信頼関係は、権力関係からは生まれてきません。女性と男性の間で、上司と部下の間で、シスジェンダートランスジェンダーの間で、ストレートとLGBAの間で、「被差別」とされているものと「随伴者」とされているものの間で、権力を持つものがその権力を放棄し、互いに向きあうところから対話がはじまると思います。そして、それが「つながる」といういとなみをつくるひとつの方法なんだと思います。
そんなことができる「仕掛け」=「場」をつくっていきたいなぁ…。

ってことが「カフェ」につながるわけで(笑)。

今日も今日とて

朝、体調は絶不調です。とにかく、遅刻するすれすれの時間までふとんにくるまっています。で、スタート!なにせ、1時間目に授業があるし(;_;)
なんとか一日の仕事をこなして、ようやくお家へ。とりあえずお風呂に入って、ふたたび外出です(笑)。
向かったのは、A久◯さんの家(爆)。これで3日連続です*1。到着すると、家の中から手を振って出てこられたのが、K本さん(笑)。飛び石でお会いしています(爆)。
家の中に入ると、お酒はあるものの、コップの中にはお茶が入っています。なんでやねん!あたりを見回すと、いろんな資料があります。どうやら、おふたりガチで真面目な話をしておられたようです。でも、わたしが中に入ると、とたんにグダグダになるわけで。宴会の開始です。
いや、なんでわたしが今日ここにいるのか、実は今ひとつわかっていないのですが、どうもおふたりはわたしに相談事があるような。で、わたしとしては、相談事はともかく「呑みましょう」だったりするわけで(笑)。
でも、なんだかんだといろいろしゃべりましたよ。
例えば、パートナー間の呼称とか…。
「あの人はわたしのパートナーです」という言い方と「わたしはあの人のパートナーです」という言い方。これが、上下関係があったらどうなるかとか。
あるいは、集団との距離のとり方とか。
あるいは、「自分撮り」の秘策とか(笑)。
そんな中で、昨日の「事件」のことにも触れたわけです。ま、それは次のエントリーで。
で、とってもおいしいベトナム春巻きとかカレーとかをいただきながら、とってもおいしいお酒と、とってもおいしいおしゃべりを堪能して、結局帰ったのは終電でしたorz。

*1:てか、この3日間で一番長い時間会ってしゃべったのは、実は阿K◯さんってことに気づきましたよ(笑)

「分断」はどこからくるのか

「事件」というのは、簡単に言えば、店のお客さんからセクハラにあったということです。
他のお客さんがそのことに気づいて、トイレに行くフリをしながらセクハラ発言を繰り返している人のところに行って「ええ加減にしときや」と言って下さったあたりから、話は急激に「しんどく」なってきました。
お店の人たちも「やめときいや」と言って下さるし、隣に座っておられたお友だちも「やめときいや」と言って下さる。でも、「意地でもやめない」と言いながら、セクハラ発言を繰り返されます。
さて、こういう時ってどうなるんだろう。
もちろん、わたしもいずみちゃんも「防衛」にまわるわけです。
ただ、繰り返されるセクハラ発言に対して、その処し方をめぐって意見の対立が起きてくるんですね。
直接被害に遭っている人は、ある意味「あぁまたか…」となる。悲しい「慣れ」があるのかなぁ(;_;)。そして、そこをやり過ごす方策として「自分がいるからこういうことが起こる」→「自分が帰ればいい」となる。
でも、それははっきりと間違っているわけです。なので、わたしやいずみちゃんは「違う」となる。わたしに至っては、「ここに居続けることが闘うことなんだ」と言ってしまうわけでm(__)m*1
セクハラ被害者って、原理原則としては「加害者が悪い」ということがわかっているんだけど、繰り返される行為に対して、もっとも簡単な方策は「自分を責めること」だということを、だんだんと身につけて行かれるんでしょうね。
こうやって、「処し方」の対立は、わたしたち3人を分断しはじめます。なぜなら、その対立は、互いの立場性や生い立ち・体験の違いからスタートしているし、それを肌身に感じて理解することは、少なくとも「その瞬間・その場」においてはほとんど不可能に近いからです。
これ、悲しいよなぁと思います。
本来ならば、わたしたち3人が結束をしてセクハラに立ち向かっていかなければならないのに、逆にセクハラを受けるということを通して、互いの違いを思い知らされ、わたしたちが分断されていく。

その回路から立ち直っていくために何が必要かということについては、明日の日記に書くことにしましょう。

*1:まぁ、お酒が入っていたこともあるんですけどね

玖伊屋のあけた日

目が覚めると9時過ぎ。久しぶりの寝坊です。でも、寝たのが5時頃だったらしいので、睡眠不足もいいところです。まぁなんとかなるか。
まずは参鶏湯で使った残りのもち米を使っておかゆづくり。たっぷりの水でグツグツ煮て、だし・塩・玉ねぎを入れて味付け。さらに、しあげにごま油をひとたらし。溶き卵を入れてふんわり混ぜたらできあがりです。
あとはいつもの通り、ダラダラと片づけて、今回の玖伊屋も終了。

で、いつもの場所へ移動。もちろん、約1時間の散歩つきです。今回は人数が多いので、途中電話で「行きます」と予約を入れておきました。
昼前に到着。すでにMりあさんとMすみさんが店の前で待っておられます。すみません、遅くなって。
で、まずはビールでカムパーイ→速やかにバクダンに移行→「おばちゃんおたふくスペシャル濃いめ」へ突入といういつものパターンがはじまります。
と、「こんにちは」と顔を出されたのが◯久Zさん。
もう、あとは飲んだくれモード全開です。M木ちゃんはストーブの上に座って「うふふ」と笑いはじめるは、S水委員長は「ごちゃ*1」を一口食べて「いままで食べた中でいちばんおいしい!」と力強く言い切られるわ。
時間が2時をまわったあたりから、ひとり、またひとりと帰りはじめられます。が、断固としてうごかない3人*2がいます(笑)。
途中、事件が起こって、それをめぐって、涙あり告白あり和解ありの激しい会話が続きます。
そうこうするうちに、カラオケタイムがはじまります。ってことは、7時やんか!でも、3人は動きません。どころか、歌い始めます。
そうそう、A◯澤さんがタガログ語で「ANAK」を歌っておられたんですが、あれ、もともとフィリピンの曲だったんですね。知らなかった。せっかくですから、わたしは日本語で*3
てなことやっているうちに、8時前。さすがにここらで解散です。

家に帰ったら、突然こみあげてくるものがあります(笑)。パートナーが「もう!あんたはここに寝とき!」と敷いてくれたふとんに倒れ込むように寝て、長い一日が終了です。

*1:ホルモン煮

*2:いずみちゃん・阿K◯さん・わたし

*3:杉田二郎ですよ

玖伊屋

今日は玖伊屋の日。
今回は、事前にこんな人とかこんな人から「行くよ」という連絡をもらっていました。また、東京方面からも、ここの委員長さんが来られるとか、A◯澤さんからも「友だちもいっぱい連れて行くね!」と言われていたので、これはもう、気合いが入ります。
さて、メニューをどうしようかと思ったのですが、今回はコリアン料理で攻めることにしました。
まずは、チヂミ・イカフェ・チャプチェですね。そしてメインディッシュの参鶏湯です。あとはまぁ、出たとこ勝負ということで。
準備の関係上ちょっと早めに阿K◯さんたちと待ちあわせ。ぁゃιぃ7人で東九条の街をブラブラ歩いて会場へ。7人の中には、なんでもバザールカフェで料理をつくっておられる方もおられるそうな。なので、せっかくですから一品つくってもらうことにしました。それが、これですね。
それにしても、なんかもう…。わけがわからない状態でしたね、今回は。なにせ、日本語とタガログ語と英語がごちゃ混ぜになっていて、話題もトランスネタから人権関係ネタ、メンタル系のネタまで、これまたごちゃ混ぜです。でも、このごった煮状態が玖伊屋なんだと思います。やっぱり、ふだんしゃべれないことを、ここでならしゃべれる。そういう空気をつくらなくちゃならないなぁと、つくづく思います。

さて、今回は珍しくわたしはほぼ最終まで起きていました。なんでだろう…。
和室に移動すると、すでにみなさん寝ておられます。隙間を探したのですが、1人分しかスペースがありません。てことで、いずみちゃんと仲よく添い寝ですわ(笑)。