朝起きてパートナーと会話。
「今日、どうする」
「日本海は遠いなぁ」
「琵琶湖…」
「お金ないしなぁ」
「近場にしようか」
「そうやね」
「家にあるものでやろうか」
「そうやね」
ってことで、とりあえずおにぎりを握って、鶏肉と豚肉にタレをまぶして、近くのキャンプ場へ。昼前に着いたら、当然のことながら「いい場所」はとられてます。でも、「いい場所」って、アクセスがよくて使いやすい場所なんですよね。必然的にそのあたりは混むし騒がしい。で、パートナーはそういう場所を「いい場所」とは言わないマニアです。慎重かつ大胆に場所を選んだ結果
「あそこ」
とか言ったのは、「普通、そこ、行かんやろ」というところです。でも、そんなところが案外居心地がいいです。
川の流れる音を聞きながら、焼肉・ビール・いつきの三位一体が今日も繰り広げられます。
しばらく食べたら、子どもたちは川遊び。パートナーは蔓でリースをつくりはじめます。で、わたしは当然のことながら昼寝。
あぁ、いい宴会ですo(^^)o
いつでもどこでも宴会場
今日は友だちとピクニック。でもカバンの中に入っているのはクーラーバッグのみ^^;;。
で、合流してお買い物。もちろんクーラーバッグの中には350をMAXの6本つめて山登りです。
てっぺんについたら見晴らし最高。
さてと、宴会開始です。まずは○ビスをプシッ。コンビニで買い込んだ昼ごはんをもぐもぐ。
さて、一本飲んだら次は何を…。友だちはワインを持参です。そのまま飲むのはちょっと恥ずかしいので、中の見えないボトルに入れ替えてぐびぐび。
あんまり暑くない天気も幸いして、連休中の昼下がりの宴会は続きます。
まぁ、どこに行っても宴会はできる。というより、「どこにいっても宴会になる」が正しいか^^;;。
久しぶりのサシ呑み
いや、サシで飲むことはよくあるのですが…。
一緒にトランスジェンダー生徒交流会の世話人しているCさんとの呑みは、ほんと久しぶりなんですよね。この人、かつて交流会の紹介をひとことで言わなくちゃならなかった時に「簡単に言えば朝文研です」と、見事に言い切った人でして(笑)。まぁそれがわかるような「教員としての育ち」をした人で、そんな人が交流会の黎明期からずっと交流会にかかわってくださってるってのは、やっぱりうれしいです。
てことで、京橋で合流して、そのへんの呑み屋へ。
交流会の一期生の話や、最近出会った生徒の話や、なんだかんだ。なんだろ…。わたしなんて足元にも及ばない、ほんとに、生徒に広く深く入っていく人なんですよね。話をしていると楽しいし、「あ!もっともっとできることがある!」って思えたり。元気がもらえるんですよね。
てことで、4時間ばっか呑んで、小腹が減ったのでラーメン屋へ。ここでもラーメンすすりながら、近況報告の続きです。
結局終わったのは6時すぎ。
さぁ、晩御飯の時間が近づいてきた^^;;。
やっと…。
ほんとにほんとに久しぶりの朝練。
よかった、楽しめた!
なんだか眠いんだ^^;;
とにかく眠いです。
たぶん、この間の三連休の過ごし方が悪かったんです。特に、中日の過ごし方が…。そう言えば、前にムチャクチャやった時もI成さんがいたな^^;;。。
まぁ、たまたまですか(笑)。
朝の通勤途中の電車の中でウトウトしましたが、一年ちょいの中ではじめてかも。
授業では
「今日はお前ら寝るなよ。メッチャうらやましいし」
と宣言。もちろん子どもたちは
「センセ、寝てええで」
とお約束の答え(笑)。
帰りの電車でもウトウトしたり。
よほど眠いんやなぁ。
で、2か月に1回、定例の髪の毛カット。
ここでもウトウト。
でも、仕上がりを見て、「よしよし」(^^)
あぁ、さっぱりとしたo(^^)o!
淡々と…
いろんなことを考えた翌日は、淡々と仕事をします。
慌ただし差の中で置いてきぼりにしていた雑務は、それなりにあります。そんなあれこれを少しずつこなしていきます。
で、そろそろMAXになって
「もうやだ(T_T)」
となるわけで。で、逃避がてらメールチェックをするわけで。そしたら、仕事が来てるわけで…(T_T)。
もうやだ…。
で、飲み会
おべんきょのあとは、おべんきょ仲間との飲み会。
職場の飲み会とはまた違います。もしかしたら、こちらが「似た分」を持つ集まりなのかな。そうあればいいな。
まだまだ自分の「分」を見つけていないわたしです。だから謙虚にならなきゃならないんですが、ついつい飲み会ではコーディネートしてあちこちに話を振ってしまうんですよね…。まぁ、もしかしたら、それがわたしの「分」かもしれんなと思いつつ^^;;。
矜と謙・「分」はあるのか
矜…「高慢」な態度、自己を押し出したり肥大化させるあり方
謙…自己を控える態度、忍ぶ、こらえる、つつしむなど
だそうです。でもどうやら原典にあたると矜=ほこりについて、「ほこれば、自ら是として人に求めず。かくのごとくなれば、悪にうつる事きはまりなし」とあります。に対して、謙の根拠となるのは原典ではないのですが「自己の中に自律性の根拠を設定しない」「天地によって生み出されかつ「愛育覆載」され、天地のうちにその一分節としてつながることによって生かされている卑小な存在と自覚された自己の意識にもとづく」とあります。たしかに「自ら是」の対極です。
で、おそらくは「天地のうちにその一分節としてつながる」という発想は「分をわきまえる」というところにつながるのかなと。そんなことを思うのです。
ところで、「分」に「身」がつくと、まさに「身分」であり、近世社会のあり方です。
まぁ、人権の立場からすると「身分制打破!」とか「近代は身分制から解放された社会」となるわけですが…。
でも、最近、なんとなく「そうなんだろうか」と思うところもあるのです。それは「才能」ってヤツにかかわっています。
人は生まれた瞬間、すべての才能を備えて生まれてくるのか、それとも天賦の才能を与えられて生まれてくるのかと、最近なんとなく思っています。
こう書くと、「才能がないヤツははじめからあきらめるしかないのか」となるのですが、ちょいと違います。
才能には「役に立つ/立たない」とか「貴重/どうでもいい」みたいな感覚はありません。すべての「才能」は、価値としてフラットです。そして、「天賦」ですから、親からもらうものではない。つまり「世襲」ではないってことです。
それぞれの独立した個人が、天から与えられたとてもステキな「才能」を持って生まれてくる。
で、その「天賦の才能」を見つけ、磨き、社会に還元する。大切なのは自分のために使わないということ。なぜなら、その才能は「天から与えられたもの」だからです。天から与えられたものは、天のために使い、天に返す。
そして、その自分が与えられた才能を見つけ、磨き、社会に還元することを「分をわきまえる」という。そんな気がするのです。
でも、「分をわきまえる」ことは従順であることとは違います。なぜなら、その「分」を侵されそうになった時、「分」を護るためには闘わなくちゃならないからです。そのために、天賦の才能を研ぎ続けるのです。
ちなみに、他者の「分を侵す」ことを、もしかしたら「矜」というのかな。だからこそ「謙」である。
スタティックな「謙」ではなく、ダイナミックでアクティブな「謙」。
そんなことを、ふと考えます。