午後は、滋賀県から来た人達の散歩の案内です。きちんとした案内人がいるにもかかわらず、あえて「いつきさんがいい」という物好きな人に頼まれてしまいました。なんでだろう…。まぁいいけど…。
まぁそれでも自分が知っている知識を総動員して一緒に2時間ほど散歩をしました。雪もあがって天気は晴れ。とても気持ちのいい午後を過ごしました。散歩のしめくくりは山本マンボでブランチ(笑)。いつもの通り、姉ちゃん扱いされてよかったよかった。みなさんにも楽しんでいただけたようです。
その後、みなさんと別れて、夜の用事の場所まで散歩を続行。
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京都の部落史連続講座(第4回)
今回のテーマは「伊東茂光と崇仁小の教員たち」というテーマ。前回に引き続いて、「個人」という観点から部落史というか、部落解放史をみつめてみようという試みです。今回の講師は八箇さんというかた。河合塾の教育文化研究所だったっけ。なんかそういうところで研究・実践をしておられるようです。ふぅむ、きちんとした予備校はやっぱり違うなぁと。ま、それはおいといて…。
崇仁小学校って、崇仁教育で有名ということです。で、もちろん戦前のことですから「融和教育」なんですけど、いわゆる「融和教育」という言葉から連想されるものとはまったく違うもののようです。つまり一般的には「融和」というものはその名からわかるように、「部落と非部落の垣根をなくして仲良くしましょう」という感じです。ところが、崇仁教育のめざしたしたものは「奥歯をギリギリとかみしめながら『糞ッ』」みたいな感じだったみたいです。他にも、ものすごく「鍛錬」をいう感じのことがあった。
一方、部落外の人々に部落の持つ文化*1をさらけだして、「お前ら、部落のことを知らないのに、部落を差別しているやろう」とアピールする。この典型が「すき焼きの会*2」で、簡単に言うとホルモンのすき焼きを学校を訪れてきた人たちに食べさせていたそうです。まぁ、他にもいろいろおもしろいことをやっていたそうな…。
では、なぜ崇仁小学校ではこのようなことができたのか。
これは、ムラの子の在籍率の問題と絡まっているんじゃないかと思うんです。在籍率の極めて高いところでは、部落問題を、「自らの被差別の問題」ととらえて教育活動をすることができる。これは大きなメリットですよね。ブレがない。でもね、在籍率が高ければ、ムラの子がマジョリティなわけで、そんな社会って実は虚構だと思うんですけどね。たしかに、ムラの子は元気になりますけど。
ところが、在籍率の低いところでは、「関係の問題」ととらえないと活動ができない。「関係の問題」ってブレだらけだし、きわめて難しい。でも、この方が現実的だとは思うんですよね。
振り返ってみると、現在でもムラの子の在籍率の高いところでとりくまれている実践って、「まぁあそこやし…」みたいな感じですわ。だから、高校での実践例ってとっても少ないです。
まぁ、それはおいときます。
でも、伊東茂光はひとりでこんなことができたんじゃないって八箇さんはおっしゃいます。伊東のまわりには、伊東の人柄を慕って、あるいは伊東のやろうとしていることを慕ってたくさんの人たちが来た。その人たちが「適材適所」に自らをおくことで、その力は何倍にもなったということなんです。伊東も、崇仁小学校の教員を信頼していたんでしょうね。ほとんどまかせていたそうな。
でも、そんな伊東の「思想」っていうのを読み解くのはとても難しいようです。戦争の問題や天皇をめぐる問題、さらには天皇の戦争責任の問題をめぐって、伊東の思想の評価はさまざまにわかれているそうです。なるほど、伊東茂光の交友範囲は水平社左派から軍部までものすごい広がりを持っています。こんなもん、そう簡単に評価はできませんわな。
でも、講演のあと、崇仁小学校出身の方からこんな発言がありました。「伊東先生の思想はそんなに難しくない。単に『清濁併せ飲む』なんです」。いや、これも一言で言うと語弊があるんじゃないかとは思うのですが、でも、これもまた大切な指摘かなぁと思いました。
わたしが受講した3回。とてもおもしろかったし、「いま」につながる話もたくさんあったなぁと。来年もやるらしいです。楽しみ…。
てなことで、『京都の部落史』近代1・2・3を買ってしまいました。
ところでさ、伊東にしろ前回の喜田にしろ、パートナーさんはすごくたいへんだったそうな…。そのあたりほりさげると、これまた「いま」生きている「わたし」とメチャクチャつながりそうなんですけど(爆)
散歩
話の後、1時間ほど時間があったので、わたしを呼んで下さった人と一緒に、松阪の町を散歩。せっかく松阪に来たんだから、おいしいスジを買いたいなぁと思って肉屋を探したのですが、どうも表通りにはなさそうですね。そのかわりに、表通りには「和田金」なんかがあって、もう…。ちなみに、わたしを呼んで下さった人、「せっかくだからおみやげに」と、ここの「しぐれ煮」を買って下さいましたm<(_ _)>m。
その後、少し裏通りへ。とたんに「ええ感じの町並やぁ〜」。と、見覚えのある店「西むら」という店です。ここ、昔、在日のオモニが講演に来た時、鞄持ちで松阪まで連れてきてもらった時来たなぁ。ここのホルモンのしゃぶしゃぶは絶品でした。さすがは松阪牛の街、中でも食肉のムラやなぁ…。
全同教4日目・ご苦労様でした!
考えてみると、全同教の閉会全体会って、出るのは初めてなんです。なので、どんなんかなぁと思いながら出てみました。さすがに開会全体会よりは全然少ないのですが、それでも体育館にいっぱい。どれくらいの人がいたんだろう。
それぞれの分科会の報告や大会総括、次年度開催地の挨拶などが続いて、あっというまに閉会。長かった3日間の大会が済みました。きっと、実行委員の皆さんもホッとされたことだろうなぁと思います。ご苦労様でした。
でも、事務方ってこれで終わらないのが悲しいんですよね。ここからおそらく延々と事後処理が続くんじゃないかと思います。
全同教2日目・同窓会ですな
いよいよ今年も全同教がはじまりました。
まずは全体会場へ。受付をしようとした時、向こうから「柔道系」が歩いてきました。「おぉ!」「久しぶり!」。東京都同教の友だちでした。それにしもて、そら1年に1回しか会わんのやから久しぶりやわな(笑)。でも、2万人の参加者の中からきっちり会うわけやからたいしたもんです。で、しばらく歩くと、「うわぁ〜!」「久しぶり〜!」。今度は熊本の友だちでした。この間用事でメールのやりとりはしたんだけど、ここでも会うかなぁ。で、その友だちとしばらく歩いていると「おっ!」「おう」「ハーイ!」「あぁ!」みたいな感じで次から次へと知りあいが歩いてきます。まぁこんなもんです。
で、全体会会場にはいると、広い体育館が満席。まぁ、いつものことなんで、通路出たって話を聞いていました。すると、向こうから人影が…。うちの子どもが前に通っていた小学校の教員でした。さらにしばらく話を聞いていると、うしろから「いつきさんですか?」「はい?」「Hです」「あぁ〜!」宮崎に来た時必ずと言っていいほど行く料理屋さんのお子さんです。今回は無理っぽかったので、「残念〜」と思っていたのですが、思いがけず会えたので、さっそく明日の晩の予約を入れてしまいました。
しかしこの広い会場なのに、互いが互いを呼びあうように人が集まってくる。「縁」を感じます。
全同教1日目・「死のロード」へ出発
午前中は、ちょこちょこと仕事。2年生が研修旅行に行っているので、本当に静かです。午後は、一コマ授業。おそらく組合せの問題の中でも生徒にとって最も理解心くいであろう「組みわけ*1」の問題。やり方さえマスターすれば*2、それなりに簡単なんですけどね。でも、「しくみ」を理解するのがたいへんみたい。なぜ2!で割るのかというところですね。これをとりあえずやっつけて、続いて「同じものを含む順列*3」へ。こちらは一見ややこしそうだけど、「なーんだ」という感じの問題です*4。まぁ「並べるやから…」と言うと「P!」と答が返ってくる反応のよさは、本当に心地いいですね。それがな、ちゃうねん。C使うねん」と説明を開始。まぁまぁかな。「マンホールを工事していて通れない問題」なんかを宿題にして終了。
で、速攻学校を出て伊丹空港へ。いよいよ宮崎での「ロード」がはじまります。
待ち合わせ場所は、伊丹空港の団体案内◯番カウンター。ところが集合時間を30分すぎても誰も来ません。しかも、携帯電話に電話をかけても受けてくれない。どないなってんにゃろうと重い、何度か電話をかけけるとようやく出てくれました。「いまどこ?」「◯番カウンターの前にいますよ」「わたしもいるんやけど…」話をしながら向こうの方を見渡すと…、いました。搭乗手続き◯番カウンターの前に。いきなり不安やなぁ…。
会議…
まぁ、いまごろどこかでは去年までやっていたことをやっているんでしょうけど、な〜んも連絡がないっていうのはいいことです。なので、別件の会議に参加。
ここ、ジェンダーバランスがいいんですよね。というか、常に気を使っている。なので、出てくる意見もとてもいい感じなんです。で、一人一人の発言をきちんと保障し、みんなが聞きあうという感じ。まぁ、わたしが一番マッチョかもしれません。そんなつもりはないですけどね。
てことで、マッコリ*1とか、真露とかを飲み、チヂミとかキムチをつまみながら、また〜りと会議。でも、3時間であっさり終了。いいことです。
会議のあとは、東九条フィールドワーク→飲み会です。
*1:普通のとニンジンエキス入りかな?
京都の部落史連続講座(第3回)
といっても、わたしにとっては2回目ですけどね*1…。
今回は、奈良県同和問題研究史料センターの吉田栄治郎さんのお話で「喜田貞吉と部落問題〜京都を中心に〜」というテーマでした。
「部落史の見直し」が言われてずいぶんになるのですが、いままでわたしが触れることができた内容は、「地域史」の掘り起こしから多様な被差別民の姿を浮き彫りにしていくという感じでした。そのなかで、それぞれの地域の被差別民の成り立ちや地域の成り立ちを読み解いていくということになりましょうか。ですから、あくまでも対象は「被差別民」であり「それをとりまく人たち」であり「地域」だったわけです。言い換えるならば、「ある時」を読み解くために、「その時」を対象にする問いことになりましょうか。
ところが、今回の内容は、喜田貞吉という部落史研究をした人を対象にすることで、喜田の生きた時代の差別意識を読み解くと同時に、そこからさらに部落の成り立ちを読み解こうという手法だったのかなというふうに考えました。これ、すごくスリリングな試みだなぁと思いました。
もちろん、わたしはそもそも歴史が苦手な人間で、そこで話されている「自明」とされている内容がさっぱりわからなかったという情けない状況でした。でも、それをおいても、そこでなにをしようとしているかということが伝わってくる。これは、語り手であった吉田さんの存在に負うところが大きかったんだろうなぁと思いました。
それにしても、吉田さんの豊富で深い知識というのを、本当に実感しました。いままで、人前で部落の歴史について話したことがないわけではないのですが、まぁ恥ずかしい限りです。つっても、「素人だからこそ」みたいなところで逃げていたんですけどね(笑)。
吉田さんの話が終わってからがまたビックリ。「喜田貞吉と会ったことがある」という崇仁小学校の元教員の人、さらにその人が教員をやっていた当時、崇仁小学校に通っていたという人の話が出てきて、「あぁ、ここに部落史が生きているんだなぁ」と実感しました。
いや、おもしろかったです。
次回は、12月2日。崇仁小学校の教員たちの話の予定です。これまた、大期待…。
*1:1回目はバイク事故の衆の金曜日だったので、さすがに行けませんでした。
近代の公衆衛生と部落問題
10月から、京都部落問題研究資料センターが昨年に引き続き「部落史連続講座―近代京都の被差別部落 Part2―」というのをやっています。第1回は10月21日にあったのですが、事故の直後の金曜日ということで、泣く泣く参加を断念しました。で、今日が第2回「近代の公衆衛生と部落問題」というテーマで小林丈広さんが話されました。
と書いていますが、朝まで「あしただ」と思っていました。というのは、友だちに「明日行く?」とメール打ったら「何時から?」と聞いてきたので、時間を調べてみたらついでに香だということがわかったという次第です。
で、話の内容。
今回の話は、明治の中期までのコレラの発生とそれへの対処の中から、いかにして近代の「部落」が形成されてきたかということを、メインテーマにされました。
いや、メッチャクチャおもしろかったです。ていうか、うちのめされました。なので、質問すらできませんでした。久しぶりです、こんなの。
明治期には5年に一度くらいコレラが大流行します。ところが、コレラにかかった人たちの居住地を見ると、部落であるかないかはあまり関係ないんですね。どちらかというと、部落内は少ないくらい。
ところが、「コレラ騒動」が京都で最も激しかったのが、京都府内にある部落であった。ここには、「情報の少なさ」や「コレラ感染者を管理する人たち*1が部落の人々にとってよそ者であった」ことなんかが関係しているという指摘がされました。こんななかで、「部落はやっぱり遅れている」「部落の人間はこわい」などの風評がたちはじめます。
一方、行政としては、コレラの発生源となるであろうところを見込みで「衛生化」をしていきます。ではどういうところが発生源とされたかというと、木賃宿に代表される「生活困窮者の集住地域」です。実は、明治初期にはこれは必ずしも部落とは一致しません。ところが、こうした集住地域を行政が転々と移転させる*2なかで、最終的には「京都市外*3」へ追い出していきます。そして、市内と市外の境界にある部落の周辺に追い出された人たちが入り込んでいき、やがて、部落を中心とした「生活困難層の集住地域」としての部落が形成されていきます。
こうした状況が、「コレラ騒動」の話と相まって部落をコレラの発生源としてみなす行政の動きとなっていきます。
このようにして、さまざまな符丁がピッタリとあうように、部落は生活困難層の集住地域として成立すると同時に、まわりから卑賤視される地域として成立していきます。
いままで、経済の面から部落の形成史をとらえていましたが、うすうすわかってはいたものの「衛生観念」から形成される過程を細かく聞いたのははじめてだったので、ものすごい刺激になりました。
次回は「喜田貞吉と部落問題―京都を中心に」と題して吉田栄治郎さんが話されます。これまたすごい期待されますね。楽しみだわ〜。
東九条マダン
今日は、恒例の東九条マダンの日です。で、これまたわたしにとっては恒例の「京都・在日外国人生徒交流会」の焼肉屋開店の日でもあります。なにしろ、この間手づくりしたタレとキムチを使って、一日に30kgの肉を焼いて売るという。でも、この売り上げが交流会の一年間の活動資金になりますから、けっこうみんな必死です。
8時に家を出発。何人かのメンバーをピックアップしながら、会場へ。さっそく準備です。30kgということですから、普通のバーベキューコンロでは間にあいません。使うのは200リットルのドラム缶を半分に切ったものを使ってつくった*1コンロです。炭は12kg用意してあります。ちなみに、つけあわせのキャベツは10個。
ひたすら、キャベセンづくりとか米を炊いたり肉を焼いたりしていると、あっという間にお昼頃です。しばらくすると、だんだんと人が増えてきます。もちろん中学生や高校生もそうですが、京都の交流会の卒業生や他府県の交流会の卒業生も来てくれます。みんな、久しぶりの再会のひとときを楽しんでくれていました。
なんといっても、「これ」なんです。毎年毎年10年間出店を出しつづけてきました。時として、高校生が誰も参加せず、教員だけでやったこともあります。でも、出しつづけた意味は、「マダンにいけば出会う場がある」とみんなが思ってくれるところにあるんです。「今年はやっているんだろうか」ではない、なんというか「安心感」が大切なんじゃないかと思うのです。そして、そうやって集まってきた人たち同士が出会える場でもあります。もちろん、わたしにとっての新しい出会いの場であることもうれしいのですが、「マダン」を介して人と人が「つながる」瞬間に立ち会うことが、とてもうれしいんですよね。なので、ついつい人を紹介してしまうという…。
てな感じで、「マダン」を満喫しているうちに、あっという間に夕方です。あとは、一番しんどい片づけです。でも、集まってきた生徒たちがテキパキ動いてくれて、あっという間に片づけ終了。でもそのころには、あたりは真っ暗。生徒たちは打ち上げ第1弾のカラオケ。教員は片づけの最終チェックです。
で、7時過ぎ。今度は生徒たちと合流して、マダンの打ち上げです。
マダンの打ち上げはすごいです。みんな大きなことをやりきった充実感でものすごくテンションがあがっています。飲み放題のアルコールがビールとチューハイだけなのは、たぶんえらいことになるのを防ぐためなんでしょうね。で、1時間半ほど盛りあがったところで、いよいよマダンをしめくくる打ち上げのエンディングです。東九条のサムルノリのメンバーがサムルをたたきはじめると、いつのまにかみんなが輪になって踊りはじめます。と、そこへ、「叩きにおいでよ」とわたしの腕を引っ張ってくれる人がいました。実は、「打ち上げの時、プクをたたきたい」と言っていたんで、たたかせてくれると言うんです。めっちゃうれしいです。プクを貸してもらって、あとは乱打です。あまりにも乱打しすぎて、チェ*2でこめかみを打ってしまったのはご愛敬です(笑)。
こうして、今年のマダンも無事終わりました。家に帰った時は、ボロ雑巾になっていました。ちょうど、パートナーが下の子どもを寝かしつけているところだったので、添い寝をしたら、わたしのほうがすぐに寝てしまいました。
