散歩

質問が終わって学生さんが返ったあと、1時間ほど時間があったので、大学の近くを散歩することにしました。
大学は大和川のすぐ北側にあります。この川、知る人ぞ知る銀座通り*1のような川なんですよね。で、大学の近くにもA香というムラがありますここ、まちづくりでも有名ですし、なんと言っても、やっている活動がおもしろいんです。なので、そこを散歩したいなぁと思ったわけです。いっしょに行きたいという学生さんがいたので、ふたりでいろんな話をしながらぶらぶらと歩きました。
実は数年前に散歩したことがあるんですが、今回歩いてみて、前には建っていなかった新しい住宅が建っていたりして、やっぱり変化していました。なにせ、昔からの家なんて、ここいはほとんど残っていませんから。というか、もともとのムラは大和川に張り出すように建っていて、1軒の家に1階がふたつあったとか*2。で、川で金魚を飼っていてそれが生業だったという話を聞いたことがあります。なので、昔からの家はすべて撤去されているわけです。でも、なんかなぁ…。そんな中、前に来た時にも建っていた家が一軒だけ残っていました。3年ほど前まで住んでいた家とちょっと似た感じなんで、「なつかしいなぁ」と。
ムラの端っこにはムラ墓があります。そこに入ってみると、旧日本軍で戦死した人たちのお墓がいっぱい建っていました。みんなすごく立派なお墓です。このお墓、どんな思いで建てたのかなぁなどと思いながら*3、あちこち見てまわりました。
このムラでは、長い間まわりの社会と隔絶されてきた*4歴史を変えていくために自分たちの設計した広い公園や立派な温泉*5があります。温泉は、ともすれば分断されがちなコミュニティをつなぎなおすものですし、公園もまた、そういうものです。その隣には、障害者施設や老人福祉センターがあります。まさに、「福祉の街」という感じです。ただ、なんとなく「それでいいのかな?」という気がしないでもないです。というのは、こういう街づくりが、新たな「隔離」を生み出してしまいはしないかということなんです。もちろん、買い物や仕事や学校の関係でムラの中に閉じこもりきりということはないとは思います。でも、その気になれば、一生をムラの中で過ごすことも可能なのではないか。ある意味わからないわけでもないけど、少なくとも子どもたちにとってそれがいいかどうかは、かなり論議の余地があるんじゃないかと思います。
なんていうことを学生さんと話しながら約1時間の散歩も終了。

*1:ってあるのか?

*2:河川敷側と堤防側ね。しかも、それぞれ住んでいる人が別の家もあったとか。

*3:いや、「どんな思いだったか」は、ほんとうにわからないんです…。

*4:地下鉄の操車場や川や大学なんかで、ほんとうに地理的に隔絶されていたんです。

*5:共同浴場

今日はゆっくりしたい…

今日はパートナーは用事で実家へ。わたしは、あちこちにおいてきた鍋とかの回収です。これで午前中終了。
パートナーが帰ってくるのは1時頃。てことは、昼ご飯はわたしだな。きのう家族に食べさせてあげられなかったチヂミでもつくろうか。てことで、チヂミのタネづくり。
どうやら、チヂミのタネって、焼く前にしばらく時間をあけた方がふっくらするみたいです。なので、ちょっと早めにつくっておきました。まぁ、好評だったかな。
昼のビールを飲んでこたつにもぐるとそのまま爆睡。ふと気づくと4時でした。
パートナーは2階で子ども部屋の片づけをしているもよう。てことは、晩ご飯もわたしだな。まぁ、きのうちょっと家用におかずをへつってあったし、すじ肉を少しミソで炊いて、あとはドリア風のものでもつくればOKです。ちょこちょこっとつくって、とりあえずお風呂へ。
あがってきて思い出しました。下の子どもが「カレンダーをつくりたい」って言ってたんだ。てことで、ソフトをダウンロードしてきて作成開始。といっても、子どもはpaintでお絵かきをして*1、それを貼りつけるだけです。でも、なかなか様になったかな。
てきとうなところで、晩ご飯を食べて、あとは子ども達といっしょにテレビを見てさんざん笑って、そしてふとんの中へ。
あしたは仕事かorz

*1:お茶犬カレンダーだそうで、一生懸命お茶犬を書いていました

後半はひたすら飲み

チヂミを焼いてしまったら、あとは片づけまでは、やることもありません。なので、ダラダラと飲み。もう、体力は限界に近いし、食べ物をつまむのもめんどくさいです。かといって、ビールを飲むのは飽きたので、あとは焼酎か…。
しばらく飲んでいたら、すぐに交流会は終了。その後片づけをして、2次会の場所に移動。京都市西部にある主催者の家です。ここで、交流会の残りのものを再び飲み食べしているうちに、完全にダウン。パートナーに電話をしたら「行ってあげるよ」というありがたいお言葉。
家に着いたらお腹がぺこぺこなのに気づいて、卵ご飯をかきこんで、そのままダウン。

中盤はひたすら焼き

さて、会場のお寺に料理を持っていってセッティング。ここでようやく一息です。お寺の庭を見ながら寝っ転がっていると、少し離れたところからライブの音が聞こえてきます。すごくまたーりとしていい時間が過ごせました。やがて、ライブの終了の予感。そろそろ作業再開です。
ここからはひたすらチヂミを焼きます。もう、体中ごま油だらけ。でも、友だちの名言「イタリア人のオリーブオイル、韓国人のごま油、ソウルフードです」を心に、ひたすら焼きます。1時間半ほどで、小麦粉1kg分のチヂミを焼き切りました。

前半はひたすら労働

きのうの晩、家に帰ったのが9時。そこから晩ご飯を食べて、労働開始。
実は、今日の午後、京都市東部の某所にて、朴保のライブがあります。で、わたしはそのライブの後の交流会の「女将」役です。なので、お総菜を山のようにつくらなくちゃなりません。
きのうの晩は、「ひじき」「切り干し大根」「スジのこごり」「小芋のたいたん」あたりまではつくっておきました。
で、テーマとしては「日本食と韓国料理のコラボレーション」ですから*1、今日はもっぱら朝鮮料理をつくろう、と。
で、まずはチャプチェづくり。続いて、ナムルづくり。そして、チヂミのタネづくり。あとは日本食の残りである「糸こんにゃくの炒めたん」と「うまい菜の炒め煮」です。
考えてみると、肉はほとんど使っていません。なので、コストはすごく安いです。でも、手間はものすごくかかります。朝6時半頃からつくりはじめたのですが、さすがに2時ぐらいには完全にやる気がなくなっていました。でも、その頃には終わっていましたけどね。

*1:会場はお寺

勉強(その2)・部落史連続講座

夜は、部落史の連続講座です。
今日はその第1回目。村上紀夫さん(大阪人権博物館)による「中世の被差別民と芸能」でした。
近年(でもないか…)、「部落史の見直し」の中で、歴史の中で生きてきた「被差別民衆」の姿がいきいきと描かれるようになってきました。でも、その多くは、いわゆる「カワタ」の人たちであることが多かったのではないかと思います。「被差別民衆」の中には、「カワタ」以外にさまざまな生業や役目を担う人々がいたことも明らかになってきています。しかし、そうした人々の姿にかかわる研究もすすんでいるのでしょうが、わたしの知るところでは、まだまだ「わたしたちの知る範囲」までは来ていないような気がします。そんな中で、今回の連続講座は「芸能」にスポットをあてていこうという試みのようです。
今回のテーマは「万歳(まんざい)」。
中世の「非人」と言われる人たちの中で、「散所」といわれる場所に住む人たちが、やがてその住んでいる場所の名前である「散所」という被差別民として扱われるようになります。この人たちの中で門付け芸をする人たちが出現し、そのうちの一つとして「万歳」があります[1] … Continue reading)。
ちなみに、「散所」と言われる人たちとその周囲の人たちの関係って、とっても微妙です。というのは、日常のさまざまな集まりに関してはわけへだてなく行われます。ところが、結婚の祝いについては別です。呼ばれない。呼ばれないということは、おそらくは通婚もなかったのではないかと類推されます。また、争議の調停の文書などを見ると「散所は餌取みたいなもの」みたいな記述があり、このあたりに差別意識の本質みたいなものが隠されているのかなぁと思いました。ちなみに、村上さんは、「日常は「ぜんぜん差別なんてしてないよ」と言っているし、本人たちもそう信じ切っている。ところが、いざという時になると、蛇の鎌首のようにもたげてくる意識がある」と表現しておられました。なるほどなぁ…。
ところで…。
この「万歳」の人たちは、正月から数ヶ月かけて、あちこちを訪れながら「お祝い」を述べながら旅を続けます((といっても、けっして「放浪」をしているのではなく、ひとつのルールに従って、あちこちを訪れていたとのことです。なので、迎える人たちも「あぁ、もうすぐ万歳が来るなぁ」とわかるんだったとか。こういうの、けっこうありますよね。

*2:現在資料として残っているのは、京都の万歳のようですが、もしかしたら、あちこちに「万歳」と言われる人たちがいた可能性もあります。

*3:「だいどこ万歳」というそうな。つまり、座敷ではなく玄関から入った土間(台所の前)で万歳をすることからきているとのことです。

*4:暦をつくるとか、占いをするとかという特殊な技能を持っていますので。

*5:実際には、「尾張」のみのピュアなものではなく、さまざまな系統が交じりあってできているだろうけど、方向としてはということです。

footnotes

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1 といっても、けっして「放浪」をしているのではなく、ひとつのルールに従って、あちこちを訪れていたとのことです。なので、迎える人たちも「あぁ、もうすぐ万歳が来るなぁ」とわかるんだったとか。こういうの、けっこうありますよね。">*1
やがて、秀吉の頃、京都の万歳は*2尾張強制移住させられ、京都における「万歳」の歴史は終わりを告げます。
一方、「万歳」そのものはこのころにはあちこちにいたことが資料としてあきらかになっています。その中でも有名なのが「三河万歳」と「尾張万歳」です。特に、「三河万歳」はその後徳川の出身地ということもあって、一つのブランドとして発展をしていきます。
通常、被差別民は虐げられ貧しかったと思われがちですが、三河万歳が万歳をするのは、座敷の上、しかも「上座」です。また、2本差しの万歳もいたとか。このあたりはすごく興味深いものがあります。
ところで、万歳という芸能も、かならずしも「万歳」とよばれる人が独占できていたわけではなく、かたや「うちのシマに入ってくるのか」と地元の人間に脅かされたり、かたや、バチモンの万歳*3が出てきたりと、けっして安泰ではありませんでした。その中で、公家と結託して自分たちの権威づけをしたりするというようなこともあったそうです。
江戸時代が終わりしばらくすると、宗教は国家神道のもと、一元管理されるようになります。すると、万歳のようなぁゃιぃもの*4は弾圧をされていきます。でも、万歳の人たちも延命をはかります。
三河万歳」は、「神道の伝道をしている」という立ち位置をとりながら延命をはかります。一方、「尾張万歳」は、雑種芸能としての方向を模索しながら延命をはかります。そして、この「尾張万歳」のひとつの道筋に、純粋にしゃべりに特化した「しゃべくり漫才」がある*5ということです。
実は、ここ数日寝不足が重なっていて、きちんと聞き切れていなかったり間違って聞いていた気もするのですが、概略こんな感じだったと思います。

で、感想ね。ひとこと「おもしろかった!」です。あと2回の講座も大期待をしています。

*1:実は、自信がない(;_;