帰りのバイクの上でもずっと考えています。
と、なんとなくわかってきました。
結局、「テーマ」がはっきりして、「教材」がはっきりすると、かえって「なんのためにやるのか」ということを忘れてしまうんですね。テクニックに走ってしまうというか…。
そうだ、なんのためにこのテーマをするのか、なんのためにこの教材を使うのか。なんのために人権学習をするのか。そこに立ち返って考えれば、おのずとなにをしなくちゃならないかがわかってくるはずんですね。
少し光が見えた。
カテゴリー: 考え
方向がわからん
もういい加減人権学習の教材を提示しなくちゃならないのですが、なんか方向が定まらないんですね。
見せようと思っているビデオはある。ビデオのテーマもわかっている。補足しなくちゃならないことが何かもわかっている。でも、翌週の講演につながらない。
隙間を埋めるために、何をしたらいいんだろう…。
カテゴリ
ちなみにセクシュアリティについての話ですが…。
一緒に呑んだ方に
「性自認ってどうやったらわかるんですか?」
とか聞かれたので、
「そんなんわかるわけないですよ」
と、いつもながら適当な答えを発してしまいました。まぁそれはそれでいいのですが、セクシュアルオリエンテーションの話になって
「わたし、MTFレズビアンでネコです」
という話をすると、大うけ。
「え〜、わたしタチですよ〜」
「それは珍しい。わたしのまわりはネコばっかりでねぇ」
「え〜、すごい!わたしのまわり、タチばっかりなんです!」
どうやら、ネコのまわりにはネコが集まり、タチのまわりにはタチが集まるらしいです。で、結論は
「合コンしましょう!」
って、どんな会話やねん(笑)。
てな大切な会話もあったわけですが、そのうち
「自分自身のセクシュアリティがよくわからない」
みたいな話になるわけで。
でも、わからなくて当たり前なんじゃないかと思うんですよね。いや、わかる人ももちろんいるんだろうけど…。
自分のセクシュアリティと向かいあって、それについて考えれば考えるほど、自分をある特定のカテゴリにあてはめるのが難しくなるんじゃないかと思うのです。そもそもカテゴリ・ラベルっていうのは、物事を単純化した上で、それに「えいや!」と貼るものなんじゃないかなぁと思います。で、そこに自分をあてはめようとすると、単純化した「器」には入りきらないところが当然出てくる。すると、「このカテゴリには入らない」となり、別のカテゴリを探す。でも、そこでも同じことが起こる。こうして、カテゴリ探しの旅は永遠に続いてしまう。
逆なんだと思うのです。自分の中には「こういうカテゴリとこういうカテゴリとこういうカテゴリがあって、それぞれがこれこれこういうふうに絡みあっていて…」みたいな感じなんじゃないかなぁと思うのです。
例えば、わたしは、基本的には女性に性的指向が向くけど、まったく男性にむかないかというと、そういうわけではない。じゃぁバイセクシュアルかというと、それも違う。おそらくは、バイセクシュアルというよりは、「レズビアン、ごくたまぁにヘテロ」みたいな感じ?
カテゴリとカテゴリは、概念としては排他的かもしれないけど、実際にはそれらをオーバーラップしながらわたしたちは生きていると考えてもいいんじゃないかなぁと思うのですが…。
歴史は繰り返す
前にも「閉鎖」があったし。その後なんとか「承認制」で復活して、さらにその後現在のところに移行しました。で、幾多の試練を乗りこえてこられたんだけど、またなんかイヤぁな感じになっているし…。
コメント欄を設けないという方向があることを、別の人が示しているんだけど、その方向をとらないということにどういう思いがあるのかということを、やっぱり考えないといけないと思うのですがねぇ…。
でも、できればふんばってほしいなぁ…。
必須事項
今日は職場の健康診断です。
最近の問診票って、マジで「大きなお世話!」と言いたくなるようなことがいっぱい書いてあります。そんなののひとつが、喫煙歴。で、正直に書きました。
喫煙歴はありますか→はい
※以下は、喫煙歴があると答えた人のみ
何本吸っていますか(吸いましたか)→3本
一日何本を何年続けましたか→0本を30年
で、担当の方との会話。
担「あの〜、3本座れていたんですね」
い「はい、30年ほど前に」
担「毎日ですか?」
い「一日です」
担「あぁ、お試しだったんですね」
い「はい、体質的にあわないとわかったので、それ以来吸っていません」
担「わかりました」
…
い「てか、30年前って未成年じゃん」
担「プッ。まぁ、正直な方もおられるということで…」
今年も細かいウケがとれました(笑)。
就任会見
なにせ、朝刊を読むのが夜。最終的に前日夜〜その日にあった情報が入るのが午後10時くらいという生活をしているので、「昨日」のことを書くことになってしまいます。
てことで、鳩山の就任会見ね。
せっかくだから、前文をコピペ。
【冒頭発言】
このたび、衆議院、参議院両院におきまして、総理に選出をいただきましたその瞬間に、日本の歴史が変わるという身震いするような感激と、さらに一方では、大変重い責任を負ったという、この国を本当の意味での国民主権の世の中に変えていかなければならない、そのための先頭を切って仕事をさせていただく、その強い責任も併せて感じたところでございます。社民党さん、国民新党さんとともに、民主党、中心的な役割を果たしながら、連立政権の中で、国民の皆さま方の期待に応える仕事を何としてもしていかなければならない。強い使命感を持って仕事にあたりたいと感じているところでございます。
言うまでもありません。この選挙、民主党、あるいは友党は大きな戦いに勝利しました。しかし、この勝利は民主党の勝利ではありません。国民の皆様方が期待感をもって民主党などに対して1票を投じていただいた結果であります。
まだ歴史は本当の意味では変わっていません。本当の意味で変わるのは、これからの私たちの仕事いかんだと、そのように感じております。私たちは、今回の選挙、国民の皆さまの様々なお怒り、ご不満、悲しみ、全国各地でこのようなものをたくさんちょうだいしてきました。何でこんな日本にしてしまったんだ、こんなふるさとにしてしまったんだ、その思いを私たちはしっかりと受け止めていかなければなりません。そして、そこに答えをしっかりと出さなければならない。大きな役割を私たちは担わなければなりません。
すなわち、今回の選挙の勝利者は国民の皆さん方でございまして、その国民の皆さまの勝利というものを本物にさせていただくためには、とことん、国民の皆さまのための政治というものを作り出していく。そのためには、いわゆる脱官僚依存の政治というものを今こそ世の中に問うて、実践していかなければいけません。
私たちはさまざまな仕組みの中で脱官僚依存、すなわち官僚の皆さんに頼らないで、政治家が主導権を握りながら、官僚の皆さんの優秀な頭脳を使わせていただく、そういう政治を送り出していきたい。その先には、言うまでもありません、国民の皆さんと心を接しているのは政治家である。その気概を持って、国民の皆さん方の様々の思い、政治を変える、何のために変えてもらいたいのか、その思いを受け止めて、私たちが大きな船出をしっかりとしていきたい。そのように感じているところでございます。
そのためには、今までのように、国民の皆さんもただ1票を投じればいいんだという発想ではなく、ぜひ政権に様々ものを言っていただきたい。政権の中に参画していただきたい。私たちが皆様方のお気持ちを、いかにしっかりと政策の中に打ち出していけるか否かは、国民の皆さまの参加次第にかかっているとも申し上げていいと思います。
私たちはそんな中で、今までマニフェストというものを作り上げてまいりました。子ども手当の問題にしろ、ぼろぼろになった年金を何とか正していくというテーマにしても、そのための財源をどうするのか、その思いの中で無駄遣いを一掃しなきゃならん、まずは無駄遣いを一掃するべきだ、その発想の中で行政刷新会議を作り上げてまいりました。そして、国家戦略室というものも作り上げていきたい。
そこによって国民の皆様方に必ず国家的な大きな役割、指針を見いだしながら、国民の期待に応えてまいりたい。そのように感じているところでございます。多分、いろんな試行錯誤の中で失敗することもあろうかと思います。ぜひ国民の皆さんにも、ご寛容を願いたいと思っております。
何せまだ、ある意味で未知との遭遇、経験のない世界に飛び込んでまいります。政治主導、国民主権、真の意味での地域主権のために、様々な試行実験を行っていかなくてはなりません。したがって、国民の皆様方も、辛抱強く新しい政権をお育て願えたら、大変幸いに思っております。そのような思いの中で、連立政権を樹立をする決意を固めた次第でございます。
あくまでも国民の皆様のご期待に応えるような新しい政治を作りたい。その思い一つで連立政権を樹立いたした、その思いをみんなでかみしめながらスタートしたいと思っておりますので、国民の皆さんにもご辛抱の中で、ご支援ご指導をいただきたいことを祈念いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
「国民」という言葉が乱発されていることに、どうしてもぬぐい去れない違和感を持ちながらも、全体的なトーンとしては、ちょっとワクワク感があったりしてしまいます。なんというか、やたら難しいプラモデルの箱を開けた時の感じ(笑)?
なかでも個人的に好感が持てたのが
多分、いろんな試行錯誤の中で失敗することもあろうかと思います。ぜひ国民の皆さんにも、ご寛容を願いたいと思っております。
のくだり。初々しさを感じながらも、こういう謙虚?なメッセージって、久しぶりに聞いた気がします。いまままでは、結局「オレにまかせておけ!」だったわけで…。
にしても、カジは急激には切れません。
直前まで自民党政治がやってきたものを引きずりながらしか「変革」のしようがありません。予算のことや人事のことなど、「既に決まったこと」を、そうかんたんに「ホイッ!」と変えるわけにはいきませんからねぇ。
もしも民主党政権に「急な舵取り」を期待するならば、それは失望にしか終わらないと思います。てか、急な舵取りって、そもそも誰かに依存するものじゃないんだと思います。だって、それは「革命」ですからね。
とにかく、しばらくは見続けましょうか。
「ちょっとはマシ」がどの程度実現できるのか。でも、「少しでもマシ」になり続けたら、やがて方向は大きく変わっていくはずですから。
いい番組だと思う
今日の人権教育関係の会議で、みんなに見てもらった番組、けっこういい番組だと思うのですが…。
江戸川大学の放送コンテストで2005年度の最優秀賞を受賞した「君にニーハオ」という番組です。広島の国泰寺高校の制作です。
別ウィンドウでひらくことにしましょう。
でも、なぜかあまり反響がなかった。まぁ使い方が難しいのかもしれないですけどね…。
主役は誰?
「場所」はどこにある?
http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20090911-OYT1T00603.htm
女子800優勝の南ア選手は両性具有…豪紙
【シドニー=岡崎哲】8月にベルリンで行われた陸上の世界選手権女子800メートルで優勝した南アフリカのキャスター・セメンヤ選手(18)について国際陸連が性別を調査している問題で、オーストラリア紙シドニー・モーニング・ヘラルド(電子版)は11日、セメンヤ選手が医学検査の結果、男女両方の生殖器を持つ両性具有だと判明したと伝えた。
同紙によると、血液や染色体、婦人科の検査を行った結果判明したもので、セメンヤ選手には卵巣がなく、男性ホルモンのテストステロンを大量分泌する精巣が体内にあることが分かったという。セメンヤ選手は出生証明書では女性ながら、幼少時から男性的な身体能力があると指摘されてきた。
国際陸連は医学検査結果をもとに対応を検討するが、同紙は、セメンヤ選手の金メダルは剥奪(はくだつ)せず、2位だったケニアのジェネス・ジェプコスゲイ選手にも金メダルを与える可能性を指摘している。
(2009年9月11日13時39分 読売新聞)
疑問が一つ。「男女両方の生殖器を持つ両性具有」ですか。ほんまに?
というのはおいといて…。
う〜ん。2位の選手にも金メダルを与える可能性?じゃぁ、セメンヤ選手の金メダルの意味はいったいなに?
http://www.afpbb.com/article/sports/sports-others/athletics/2640101/4565236
過去に事例のある両性具有の4選手に対しては「キャリアを終えるよう要請した」と発表している。
スポーツ、あるいはもっと言うならば「競技スポーツ」っていったいなんなんだろうと思います。スポーツにおいて大切なことは、もっと他にあるんじゃないかなぁ…。
あれから8年か
あの日、ニュースを驚きとともに見ました。あの映像とともに、その瞬間「キター」と思ったことは忘れられないし、忘れてはならないと思います。そして、あの時を境に「世界」は確かに変容しました。
君たちが自分のまわりの細かなことのみに気をとられている間にも、君たちはまるでベルトコンベアーに乗せられたかのように、流され続けている。
将来、「こんなはずじゃなかった」と思わないために、自分のまわりだけじゃなく、世界を見つづけることが必要なんだ。
これが今日の授業の最初の言葉でした。
たとえ数が少なくても、それでも聞いてくれる子に伝えよう。くじけそうになるけど、あきらめないと、あの日に決めたんですよ。