伝えることはそれなのか?

何かがおかしい気がします。
いま、日本の状況は、それどころじゃないはずなのに…。
最も大切なことが伝えられず、伝わることは「カネがらみ」と「金がらみ」のことばかり。つっても、後者は「とれない」話なんですけどね。
ほんとうに伝えなくちゃならないこと、論議しなくちゃならないこと、あるいは、論議されていることが、伝わってこない。でも、「世間」はその情報に踊らされている。

その後

今日、米子の主催者の方からメールが来ました。

子どもと一緒に買い物に行ったら、◯ミリちゃんと偶然会って、子どもと「キャー◯ミリちゃん!」となりました。
不思議なものですね。金曜日なら気づかなかった人なのに、土曜日、いつきさんに紹介してもらったおかげで、また一人仲間が増えました。

うれしかった!
まさに、これこそ出会いなんだよなぁ。

「10年遅かった」の意味とか

考えてみると、大学生の頃から
「10年遅く生まれたよなぁ」
と、友だちとよく話をしていました。10年前なら学生運動もさかんだったし、まだまだ「混沌」という言葉があてはまる時代でした。
で、そんな学生運動をやっていた人たちが、自分の生産点で活動をはじめる中で、みなさん当然のように部落解放運動とか在日朝鮮人の問題とかにとりくむわけです。で、さまざまな実践を手探りの中からつくっていかれた。
で、わたしはその「学生運動」が埋め火のようになっている時が大学時代なんですよね。学生運動の経験をもたないままに、在日の子たちとか部落の子たちとかかわるようになっていきます。でも、その時すでに先達達ははるかに先を行っておられるわけです。まぁ言ってみると、ひたすらその後を追いかける感じ?
で、いまや10年年上の人たちは退職の時代になります。しかも、みなさん早期退職をしていかれる。
身体も無茶ができなくなってきたし、なによりも、この閉塞した状況の中で「もう、希望はない」と言われます。
それはよくわかります。
最近「フリーハンド」で絵が描けなくなってきています。
曰く「自由に絵を描いていいけど、道具はこれとこれとこれとこれを使いなさい」みたいな。さらに言うと「テーマはこれだから自由に絵を描いてね」みたいな」。それって、自由じゃない(笑)。
先輩達はフリーハンドで絵を描いてきたからこそさまざまなとりくみができた「あの頃」を知っているがゆえに、今の時代はとても窮屈なんだと思います。それは、わたしも同じです。もっとも、「フリーハンドの時代」の最後をちょこっと知っているだけですがね。
でもね。
今の状況がほんとうにきついのは百の承知です。でも、だからこそ、その中でもやらないといけないとも思っています。状況は「フリーハンド」の時代よりも、ある意味悪化しています。だからこそ、やらなきゃならないことがある。そう、10年下のわたしは思うわけです。
今朝携帯を開くと、外川さんからメールが入っていました。
なんでも体調を少し崩されていて、休まなきゃならないとのこと。昨日控え室で「無理せんと休んで下さい」と言ってはいたのですが…。
でも、実は休んでいる外川さんは外川さんらしくないんですよね(笑)。なので、返事は定番のこれでした。

こんなこといつまでも
長くは続かない
いい加減明日のこと、
考えた方がいい。
どうしたんだ!ヘヘーベェベー
お前までそんなこと言うの
いつものように決めて
ぶっ飛ばそうぜ!

この歌を自分にも向けつつね。

落ちる季節

今日一日かけて、なんかゆるやかに落ち込んできました。
なんでだろう…。
ひとつは、自分ではどうにもならないイライラ感ですね。なにがどうにもならないかというと、「落ちそうな生徒がそれでも勉強しない」という、いつものヤツです。
「4月〜3月までの涙」と「3月の涙」は、持っている意味あいが全然違います。そのことをわかってほしいんだけど、ほんとうにせっぱ詰まらないとわからないヤツがいます。というか、結果が出ないとわからないヤツもいたりして…。これはストレスだわ…。
もうひとつは、あるメールです。
こいつのほうは、いろいろ考えさせられました。でもねぇ…。いろいろ考えて、なんとなく「メールを出した人、すごくしんどいんだろうなぁ」と思いました。まじめな人なんですよね。そのまじめさが、時として相手への「刃」になることもある。

復活はいつかなぁ…。

やっぱり受けとられ方はさまざまだなぁ…

たまぁに自分の名前でググってみたりするんですが、けっこうおもしろいですね。大半はまぁなんということもない内容なんですが、たまに話を聞かれた感想だとか番組を見られた感想だとか、そんなのが出てきます。特に話の感想についてはけっこう考えさせられたりします。
「へぇ〜、そんなふうに受けとられたんだ」
とか感じる時は、やっぱり
「何があかんかったのかなぁ…」
というふうに思います。
例えば、

わたしたちは誰もが冷たい氷の中に閉ざされている。その氷を溶かす方法はふたつある。ひとつは外からの熱で溶かす方法。もうひとつは自らが動き、氷との摩擦熱で内側から溶かしていく方法。わたしは後者を選ぶ。

というフレーズ。これについて感想が書いてあるブログがあって、
「そうきたか…」
と思わず考えてしまいました。
この方、
「どっちも大事だから両方やればいいじゃん」
というふうに書いておられたんですが…。これ、無理です。「後者」の実践のためにえらい時間と労力と肝臓(笑)を使っていますんで…。これにプラスロビーイング活動なんてぜったいに無理です。
ついでに言うと、わたしは
「わたしは後者を選ぶ」
と言っているだけで、
「前者はダメ」
と言っているわけではないんですよね。というより、
「前者しかダメ」と言っている人がおられまして

性的マイノリティが生きやすい社会をつくるためには何が為されるべきなのか。O氏は、政治で解決するしかない、ときっぱり言う。

これへのカウンターなんですけどね。
まぁええか…。

どこまでがサポートの範囲だろう…

Anno Job Logにあった「性同一性障害患者の生活支援」のニュースなんですが…。
昼休みの時間帯(笑)に友だちからメールがありました。

化粧のしかたとかボイストレーニングはわかるんですけど、下着や洋服の選び方って好みの問題じゃないんですかね?FTMの場合、誰かに聞くとしたら、小さいサイズの靴を売ってる店くらいなんですけど(笑)。

で、わたしの返事は

ブラのサイズとかむずかしいかも。で、女性は店員さんに聞けるけど、MtFはきついんちゃうかなぁ。

まぁ原文そのままじゃないですけどね(笑)。
で、友だちからの返事

あぁぁ乳隠し!
店員さんに聞けないのはFTMもですねぇ。◯◯もスーツ買う時すんげぇ困った。けど、それって、ホルとかしてパス度あげるしか解決方法ないですよねぇ。

まぁこれも原文そのままじゃないですけどね(笑)。
でも、ホルとかしてパス度をあげるしか方法はないんでしょうかねぇ。少なくとも、諸先輩達の時代はそんなサポート体制なんてなかったし、わたしの時代ですら手探りでやってきたし*1
本当に大切なのは、わからなければわかる人を探し、あるいは聞くことができる社会性をどう身につけていくかということなんだと、わたしは個人的には思っているのですが…。でもまぁ、そういうテクニックを身につけないと、社会性を身につける機会を奪われてしまうのかなぁ…。

*1:除く化粧(笑)

「仕事」とは何か?

タイトルのような、そんなたいそうなものじゃないんですけどね。でも、これ、「おんなたちの新年会」で出てきた話題の中のひとつなんです。
まぁ「高校教員」なんて仕事をしていると、もう、どこからどこまでが仕事で、どこからが「趣味」なのかがわからなくなります。例えば、生徒と放課後ダラダラと話をするのは、ある意味仕事ですが、ある意味「好きでやってる」ところがあります。在日外国人生徒交流会なんて、もっとそれがきつい。まぁ線引きをしようとすると、うちの生徒をつれていったら「引率・出張」なので仕事になりますが、つれていかなかったら出張じゃないので、仕事じゃないことになります。でも、それはあくまでも制度上の話であって、「気持ち」の問題としてはそういう線引きは、実はとてもむずかしい。
これが「大学教員」になるともっと厳しいみたいです。そりゃそうですわ。勤務時間が特にあるわけでもなく、研究と教育と趣味が渾然一体となっていますからねぇ。で、その中で「成果」をあげることを要求され、「実績」がないと予算がカットされる。ノルマとしても論文を書かなきゃならない。そんな話を聞いていると「しんどそうやなぁ」と思わざるを得ません。
で、わたしにとっての仕事の定義とは何かという話をしていたのですが、それは「エントリのつけかた」と、身もふたもない返しをしてしまいました。でも、あらためて自分のエントリのつけかたを考えた時、ほとんどが「趣味」だったりするわけです。
実は、「高校教員」として求められている「最低限の仕事」って、本当に少ないなぁと思います。授業と授業にまつわるさまざまな準備、そしてそれにまつわる評価。あと分掌の仕事。それ以外に教員として要求されている雑務。そんなものかな。在日外国人生徒交流会とかトランスジェンダー生徒交流会なんて、その中に入っているとは思えません。ましてや、某在日外国人教育関係の会議なんて、完全な「趣味」です。もっというならば、授業への工夫とか生徒との雑談とか、家庭訪問とか学級通信とか、なんだとかかんだとか、こういうのもある意味「趣味」です。「趣味」といって悪ければ「思いこみ」かな。
で、こう考えるとすごく楽なんですね。
ゼロベースはすごく低くて、そこに足していくのはすべて自分の選択。自分が「好きでやっている」と考える。
まぁ逆に考えないと、生きること=仕事になってしまいますからねぇ*1(笑)。

*1:引っ越す前はまさにそうだった

び、微妙やなぁ…

今日はわたしの勤務校の人権教育講演会。希少難病の方とその支援者の方々がスピーカーです。
当事者の方は、実はうちの学校の卒業生。さらに、わたしの2巡り目の担任の時の同学年の生徒です。もっとも、向こうは進学コースにいて、わたしは「それ以外コース」だったので、直接教えてはいなかったんですけどね。
というのはともかく…。
当事者の方の語り。すごくいいんです。いいんですけど…。
いや、自分が病気になる前の生活、病気と知らずに病気が進行している最中のこと、検査を受けている時の気持ち、告知を受けた時の話、さらにどんどん病状が進行していく中で感じたこと、そして今やろうとしていること。
ほんとうにいい話なんです。でも、何かが足りない。なんなんだろう…。
支援者の方の話。ちょっと乱暴だけど、なかなか「支援者とは何か」みたいなところで示唆に富む話でした。はじめは「うさんくさい系かな?*1」とか思っていたけど、そんなこともありませんでした。どころか、けっこうおもしろかったんだけど…。
やっぱり何かが足りない。なんなんだろう…。

いろいろ考えるんだけど、「伝えたいこと」があるんだろうなぁ。だから、逆に伝わらないんじゃないかなぁと…。「伝えたいオーラ」が、かえって自分の持つ「しんどさ」みたいなものを刺激してしまいます。ましてや、相手は「希少難病」。まぁ「自分のしんどさなんてとるにたりない」と考えざるを得ません。そうなると、やっぱりしんどくなる。
やっぱり、スピーカーの側こそ、相手のしんどさに自分のしんどさを重ねあわせて、相手に共感しながら語ることが大切なんじゃないかなぁ。難しいですけどね。

*1:「失礼!」って、こんなところ見てないよな←こればっか

変なヤツら

今朝、パートナーから聞いたところによると、これについての下の子どものコメントが

バーカ!バカバカバカ!バーカ!

だったそうです。
ちなみにこの間友だちが
「世の中には男と女しかいない」
と言ったら
「実際、お父さんは性同一性障害だから男でも女でもないんですが」
とか言っていたそうな。
さらに、下の子どもの友達は
性同一性障害って「障碍」じゃないよね」
みたいなことを言っていたそうな。
なんだ、こいつらわ(笑)。

デッドラインと言われる時間まで、あと11時間50分