「そんなことのために」と思ったけど…

この4月からJASEの原稿を担当される編集の方が変わります。なので、今日は、昨年に引き続きわざわざ京都まで来られて呑み引き継ぎです。
昨年も思ったのですが、なんでこんなことのために来られるのかなぁと思ったのですが、もしかしたらかつてはそれが当たり前だったのかもしれません。
通信手段が発達する前は、基本的には「直接会う」のがもっとも確実な手段だった。それが、電話になり、ファックスになり、メールでことがすむようになっています。でも、それでコミュニケーションがとれているのかというと、きっとぜんぜんとれていないんじゃないかなぁ。単発の原稿だったらいざ知らず、1年間継続してとなると、やはりお互いに顔と顔をつきあわせて、どんな人なのかをわずかながらでも知ることが大切なんでしょうね。そんなことを、前の担当の方がおっしゃられていました。
確かに一見ムダかもしれない。でも、その「ムダ」の中に、とても大切なものが含まれているような気がしてなりません。

そうそう、昨日の夜、某国営放送の方が来られてちょっと話をしていました。
「これほどネットが普及している状態で、トランスの子って、やっぱりみんな「ひとり」なんですか?けっこうみんな交流しているんじゃないんですか?」
という質問。
で、わたしの答え。
「ネットは「会うこと」と「会うこと」の間を埋めるツールでしかないと思います。実際に会ったことのない人同士が、ネットだけで連絡をとっても、それはつながることにはならないと思います」
これ、いろんな大切な友だちたちのことを頭に描きながらの答えなんです。
本当に会いたくて会いたくてしかたがないけど、時間や距離の関係でどうしても会えない。でも、また必ず会えると信じながら、その「次」までの隙間を埋めるために、つまらないメールや、ちょっと深刻なメールを出しあうんですよね。
やっぱり、会ってしゃべって呑むのが一番ですよ。

あ、てことで、ほんとうに一年間お世話になりました。これからもよろしくお願いします。>M瀬さん

原点となる日

今日は進級判定会議です。
「今年はやつらは進級しているかな」。いつもドキドキします。
そういえば、わたしがほんとうに教員として何をしなくちゃならないかわかった日は、1991年のこの日だったのかもしれません。その日、うちのクラスで卒業不可が確定した子がいました。その子にそのことを告げに家庭訪問をしました。
あの日を境目に、わたしの考えが変わったなぁ。うん、あのときの気持ちだけは忘れないでおきましょう。

伝えたいことは?

今日は下の子どもの小学校最後の授業参観。行かない手はないです。
てことで、行ってきました。
しかも、授業内容は「エイズ学習」。もう、wktkですよ(笑)。
まぁ流れとしては、
「基礎知識」→「ジョナサンくんの話」
という、それだけの展開です。
でも、45分の中で何をどう伝えるか、ずいぶんと悩まれたんでしょうねぇ。いや、わたしも15年ぐらい前に、はじめてエイズ学習にとりくんだ時、同じ流れでしたから。
でもねぇ…。子どもたちの感想を聞いていて、「なんだかなぁ」という気になりました。担任さんには悪いけど…。
子どもたちの感想は
エイズは怖い。ジョナサンえらい」
なんですね。はたしてこんな感想を求めていたのかな?きっと違うはずなんですよね。たぶん…。
知識っていったいなんのために学ぶんだろうと思いました。
当事者にとっては、まさに自分が何であるかを知り、生き延びるために必要不可欠なものだと思います。
では、非当事者にとっては?きっと、「病気にかからない」ためじゃなくて「ともに生きるため」に必要なんだと思うのです。
当事者がいくら
「日常生活ではHIVは感染しない」「だから安全なんだよ」
と言っても、まわりがそれを知らず、あるいは認めなかったらその当事者は「安全である」とはみなされない。社会において「安全」とみなすのは、本人からの訴え(申告)ではなく、まわりの受容(知識)に依拠するんじゃないかと思います。
っていうの、いずれも一緒のことだよなぁ…。

差別の諸相

まぁ「諸相」なんていう難しいことじゃないんですけど。
今日は、人権教育関係の会議の日です。で、情報交換とか研修とかの意味で、ちょいちょい視聴覚教材を見たりするのですが、今回は「ルーツを見つめる 〜大阪・若者たちの肖像写真〜」というNHKの番組を見ました。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090806130030174/
これ、何回かブログでも書いた「対岸の肖像」に出た若者たちの中の3人を追いかけたドキュメントです。
なんでこの番組を見ることになったかというと、
「今の若い部落の人たちは、どんなことを考えているのだろう」
という疑問を出した人がいたからです。
で、見終わって…。
やっぱり涙が出るなぁ。

かつて部落差別を語る時は「貧困」とか「劣悪な環境」とか、あるいは「就職差別」「結婚差別」というような形で話をしてきたんですけど、そういうものは、明らかに「マシ」になってきています。じゃぁ「部落差別はなくなった」のか。それは違うと思っています。
その答えのうちのひとつが、この番組にあると、わたしは思っています。
ここに登場する若者たちは、例えば「自分が自分であるためにルーツと出会い直す」わけです。あるいは、「自分のことを語るか語らないかという葛藤の中で生きる」わけです。そういう若者たちの姿の中に、わたしは現在の部落差別を感じます。
ところで、こういう話にたいして「わかりにくい」という反応が返ってくることがあります。でも、わたしはそうは思わない。
ようやく部落差別が「貧困」とか「環境」とかいう表層的な問題の奥にあるところに触れるところまで来たんだと思っています。そして、そこまできたからこそ、他の被差別者とつながれるところまで来たんじゃないかとも思っています。
自分のことを語るか語らないかという葛藤を持つのは、別に部落の人間だけじゃない。「ルーツと出会い直すところから今を生きなおす」のも、別に部落の人間だけじゃない。
そういう意味では、「個別の問題」「特殊な問題」から「普遍的な問題」へと、ようやく変化してきたんだろうなぁと思います。そして、普遍的だからこそ共感も呼べる。そんなことを感じながら、ビデオを見ていたんですがね…。

なんかまとまらないorz

伝えることはそれなのか?

何かがおかしい気がします。
いま、日本の状況は、それどころじゃないはずなのに…。
最も大切なことが伝えられず、伝わることは「カネがらみ」と「金がらみ」のことばかり。つっても、後者は「とれない」話なんですけどね。
ほんとうに伝えなくちゃならないこと、論議しなくちゃならないこと、あるいは、論議されていることが、伝わってこない。でも、「世間」はその情報に踊らされている。

その後

今日、米子の主催者の方からメールが来ました。

子どもと一緒に買い物に行ったら、◯ミリちゃんと偶然会って、子どもと「キャー◯ミリちゃん!」となりました。
不思議なものですね。金曜日なら気づかなかった人なのに、土曜日、いつきさんに紹介してもらったおかげで、また一人仲間が増えました。

うれしかった!
まさに、これこそ出会いなんだよなぁ。

「10年遅かった」の意味とか

考えてみると、大学生の頃から
「10年遅く生まれたよなぁ」
と、友だちとよく話をしていました。10年前なら学生運動もさかんだったし、まだまだ「混沌」という言葉があてはまる時代でした。
で、そんな学生運動をやっていた人たちが、自分の生産点で活動をはじめる中で、みなさん当然のように部落解放運動とか在日朝鮮人の問題とかにとりくむわけです。で、さまざまな実践を手探りの中からつくっていかれた。
で、わたしはその「学生運動」が埋め火のようになっている時が大学時代なんですよね。学生運動の経験をもたないままに、在日の子たちとか部落の子たちとかかわるようになっていきます。でも、その時すでに先達達ははるかに先を行っておられるわけです。まぁ言ってみると、ひたすらその後を追いかける感じ?
で、いまや10年年上の人たちは退職の時代になります。しかも、みなさん早期退職をしていかれる。
身体も無茶ができなくなってきたし、なによりも、この閉塞した状況の中で「もう、希望はない」と言われます。
それはよくわかります。
最近「フリーハンド」で絵が描けなくなってきています。
曰く「自由に絵を描いていいけど、道具はこれとこれとこれとこれを使いなさい」みたいな。さらに言うと「テーマはこれだから自由に絵を描いてね」みたいな」。それって、自由じゃない(笑)。
先輩達はフリーハンドで絵を描いてきたからこそさまざまなとりくみができた「あの頃」を知っているがゆえに、今の時代はとても窮屈なんだと思います。それは、わたしも同じです。もっとも、「フリーハンドの時代」の最後をちょこっと知っているだけですがね。
でもね。
今の状況がほんとうにきついのは百の承知です。でも、だからこそ、その中でもやらないといけないとも思っています。状況は「フリーハンド」の時代よりも、ある意味悪化しています。だからこそ、やらなきゃならないことがある。そう、10年下のわたしは思うわけです。
今朝携帯を開くと、外川さんからメールが入っていました。
なんでも体調を少し崩されていて、休まなきゃならないとのこと。昨日控え室で「無理せんと休んで下さい」と言ってはいたのですが…。
でも、実は休んでいる外川さんは外川さんらしくないんですよね(笑)。なので、返事は定番のこれでした。

こんなこといつまでも
長くは続かない
いい加減明日のこと、
考えた方がいい。
どうしたんだ!ヘヘーベェベー
お前までそんなこと言うの
いつものように決めて
ぶっ飛ばそうぜ!

この歌を自分にも向けつつね。

落ちる季節

今日一日かけて、なんかゆるやかに落ち込んできました。
なんでだろう…。
ひとつは、自分ではどうにもならないイライラ感ですね。なにがどうにもならないかというと、「落ちそうな生徒がそれでも勉強しない」という、いつものヤツです。
「4月〜3月までの涙」と「3月の涙」は、持っている意味あいが全然違います。そのことをわかってほしいんだけど、ほんとうにせっぱ詰まらないとわからないヤツがいます。というか、結果が出ないとわからないヤツもいたりして…。これはストレスだわ…。
もうひとつは、あるメールです。
こいつのほうは、いろいろ考えさせられました。でもねぇ…。いろいろ考えて、なんとなく「メールを出した人、すごくしんどいんだろうなぁ」と思いました。まじめな人なんですよね。そのまじめさが、時として相手への「刃」になることもある。

復活はいつかなぁ…。