ストレスのありようについての一考察

朝、お弁当をつくりながらパートナーと話。
結局、わたしが常時金銭的に厳しい気がしているのは、
「必要と思っている金額」=「その時に使う金額」+「潜在的に「貯めなければいけない」と思っている金額」
なんですね。
例えば1万円使おうと思った時、わたしが「必要だ」と考えてしまう金額は201万円*1で、現在自分が使える金額がそれより少ないわけです。となると、常に「不足している」となってしまう。そうなると、先にとりあえず200万円*2使ってしまった方が、もしかしたら金銭的なストレスが減るんじゃないだろうかと。そのことが、たのことについての余裕を引き出す可能性を考えてみると、「著しいQOLの向上(笑)」をみる可能性もあるなと。
そんな話をしていたのですが…。
で、もしかしたら、そのあたりの「QOLの向上(笑)」が見られる可能性が出てくるかもしれないなという、今日の会話でした(謎)。

*1:200万円の根拠は不明(笑)

*2:200万円の根拠は不明(笑)

一人であることは一人でないこと

今年度、うちの職場のあるセクション(A)がなくなり、そのセクション(A)は別のセクション(B)に「身請け」に出されました。で、わたしはその「身請け」に出されたポジションにいるわけです。
かつては4人もいたセクション(A)ですが、ここ数年は2人だけになり、いまは一人きり。
でも、最近なんか知らないけど元気です。なぜなら、セクション(B)には一緒に働く仲間がいるからです。いや、それだけじゃありません。複数いた時は
「自分たちでやる」
と思っていたんですが、今は一人です。だから
「ひとりじゃできない」→「みんなにやってもらおう」→「そのためには何をしたらいいのか?」
と気持ちを切り換えることができました。
そう考えた時に、わたしにはたくさんの「一緒に働く仲間」がいるということに気づきました。

うん。今までとは違う、新しいやり方をやってみよう。なんか、ファイトがわくなぁ(笑)

変わること、変わらないこと

今日、久しぶりに、出張でわたしの「第2の故郷」に行ってきました。
いわゆる「地対財特法」が失効してから8年。
この間、同和教育はもちろん、ムラをめぐる状況も大きく変わりました。わたしもその「波」の中にいます。

でも、出張先の会議で話しあわれるさまざまな内容は、時が流れても基本的には同じです。厳しいムラの状況の中で、厳しい状態におかれている子どもたちの姿を聞き、「なんも変わらへんやん」と思いました。と同時に、ムラを含めた子どもたち全体への教員・保育士のみなさんの優しい眼差しもまた、「なんも変わらへんやん」と思いました。
結局、同和教育ってそういうことなんですよね。
ムラの子を焦点化することで、わたしたちが気づくことがある。わかることがある。そして、ムラの子に焦点化したとりくみは、あたかも「ムラの子だけ」と思われがちなんですけど、実は全体に波及していくんだと思います。
これ、ムラの子だけじゃないでしょうね。
例えば、在日外国人であっても、肢体障害や精神障碍、あるいはいわゆる「特別支援を必要とする」とされる子、さらには「女性」も含めて、どこかに焦点化することが全体に波及するという意味では、きっと同じことなんだと思います。

なくなってはじめてわかるし、だからこそ、同じ轍を踏みたくないなぁ。

子どもに武器を持たせると…

久しぶりに^^;;新聞を読んでいたら、空港関係をめぐっていろいろあるそうな。で、その中のひとりが
「自分の言うこと聞かなきゃ、オレはやめる。お前がやめるかオレがやめるかだ!」
とか言っているそうな。
自分の進退を賭けるというのは、ほんとうにここぞという時だけに使う手法で、のべつまくなしに
「言うこと聞かなきゃやめる!」
というのは違うと思うのですが…。
まぁいみじくも、他の人が
「幼稚園児じゃあるまいし」
と言ってたとか。
子どもに武器を持たすとろくなことがないと思うんだけど、その武器を持っている姿を頼もしく思う人々がいるんだろうなぁというのがなんとも…。

「そんなことのために」と思ったけど…

この4月からJASEの原稿を担当される編集の方が変わります。なので、今日は、昨年に引き続きわざわざ京都まで来られて呑み引き継ぎです。
昨年も思ったのですが、なんでこんなことのために来られるのかなぁと思ったのですが、もしかしたらかつてはそれが当たり前だったのかもしれません。
通信手段が発達する前は、基本的には「直接会う」のがもっとも確実な手段だった。それが、電話になり、ファックスになり、メールでことがすむようになっています。でも、それでコミュニケーションがとれているのかというと、きっとぜんぜんとれていないんじゃないかなぁ。単発の原稿だったらいざ知らず、1年間継続してとなると、やはりお互いに顔と顔をつきあわせて、どんな人なのかをわずかながらでも知ることが大切なんでしょうね。そんなことを、前の担当の方がおっしゃられていました。
確かに一見ムダかもしれない。でも、その「ムダ」の中に、とても大切なものが含まれているような気がしてなりません。

そうそう、昨日の夜、某国営放送の方が来られてちょっと話をしていました。
「これほどネットが普及している状態で、トランスの子って、やっぱりみんな「ひとり」なんですか?けっこうみんな交流しているんじゃないんですか?」
という質問。
で、わたしの答え。
「ネットは「会うこと」と「会うこと」の間を埋めるツールでしかないと思います。実際に会ったことのない人同士が、ネットだけで連絡をとっても、それはつながることにはならないと思います」
これ、いろんな大切な友だちたちのことを頭に描きながらの答えなんです。
本当に会いたくて会いたくてしかたがないけど、時間や距離の関係でどうしても会えない。でも、また必ず会えると信じながら、その「次」までの隙間を埋めるために、つまらないメールや、ちょっと深刻なメールを出しあうんですよね。
やっぱり、会ってしゃべって呑むのが一番ですよ。

あ、てことで、ほんとうに一年間お世話になりました。これからもよろしくお願いします。>M瀬さん

原点となる日

今日は進級判定会議です。
「今年はやつらは進級しているかな」。いつもドキドキします。
そういえば、わたしがほんとうに教員として何をしなくちゃならないかわかった日は、1991年のこの日だったのかもしれません。その日、うちのクラスで卒業不可が確定した子がいました。その子にそのことを告げに家庭訪問をしました。
あの日を境目に、わたしの考えが変わったなぁ。うん、あのときの気持ちだけは忘れないでおきましょう。

伝えたいことは?

今日は下の子どもの小学校最後の授業参観。行かない手はないです。
てことで、行ってきました。
しかも、授業内容は「エイズ学習」。もう、wktkですよ(笑)。
まぁ流れとしては、
「基礎知識」→「ジョナサンくんの話」
という、それだけの展開です。
でも、45分の中で何をどう伝えるか、ずいぶんと悩まれたんでしょうねぇ。いや、わたしも15年ぐらい前に、はじめてエイズ学習にとりくんだ時、同じ流れでしたから。
でもねぇ…。子どもたちの感想を聞いていて、「なんだかなぁ」という気になりました。担任さんには悪いけど…。
子どもたちの感想は
エイズは怖い。ジョナサンえらい」
なんですね。はたしてこんな感想を求めていたのかな?きっと違うはずなんですよね。たぶん…。
知識っていったいなんのために学ぶんだろうと思いました。
当事者にとっては、まさに自分が何であるかを知り、生き延びるために必要不可欠なものだと思います。
では、非当事者にとっては?きっと、「病気にかからない」ためじゃなくて「ともに生きるため」に必要なんだと思うのです。
当事者がいくら
「日常生活ではHIVは感染しない」「だから安全なんだよ」
と言っても、まわりがそれを知らず、あるいは認めなかったらその当事者は「安全である」とはみなされない。社会において「安全」とみなすのは、本人からの訴え(申告)ではなく、まわりの受容(知識)に依拠するんじゃないかと思います。
っていうの、いずれも一緒のことだよなぁ…。

差別の諸相

まぁ「諸相」なんていう難しいことじゃないんですけど。
今日は、人権教育関係の会議の日です。で、情報交換とか研修とかの意味で、ちょいちょい視聴覚教材を見たりするのですが、今回は「ルーツを見つめる 〜大阪・若者たちの肖像写真〜」というNHKの番組を見ました。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090806130030174/
これ、何回かブログでも書いた「対岸の肖像」に出た若者たちの中の3人を追いかけたドキュメントです。
なんでこの番組を見ることになったかというと、
「今の若い部落の人たちは、どんなことを考えているのだろう」
という疑問を出した人がいたからです。
で、見終わって…。
やっぱり涙が出るなぁ。

かつて部落差別を語る時は「貧困」とか「劣悪な環境」とか、あるいは「就職差別」「結婚差別」というような形で話をしてきたんですけど、そういうものは、明らかに「マシ」になってきています。じゃぁ「部落差別はなくなった」のか。それは違うと思っています。
その答えのうちのひとつが、この番組にあると、わたしは思っています。
ここに登場する若者たちは、例えば「自分が自分であるためにルーツと出会い直す」わけです。あるいは、「自分のことを語るか語らないかという葛藤の中で生きる」わけです。そういう若者たちの姿の中に、わたしは現在の部落差別を感じます。
ところで、こういう話にたいして「わかりにくい」という反応が返ってくることがあります。でも、わたしはそうは思わない。
ようやく部落差別が「貧困」とか「環境」とかいう表層的な問題の奥にあるところに触れるところまで来たんだと思っています。そして、そこまできたからこそ、他の被差別者とつながれるところまで来たんじゃないかとも思っています。
自分のことを語るか語らないかという葛藤を持つのは、別に部落の人間だけじゃない。「ルーツと出会い直すところから今を生きなおす」のも、別に部落の人間だけじゃない。
そういう意味では、「個別の問題」「特殊な問題」から「普遍的な問題」へと、ようやく変化してきたんだろうなぁと思います。そして、普遍的だからこそ共感も呼べる。そんなことを感じながら、ビデオを見ていたんですがね…。

なんかまとまらないorz