こんなところで…

ところで、たまたま常連さんとリフトに乗った時の会話。
常「あ、ところで、テレビ見ました」
い「は?」
常「いや、嫁さんが「あ、先生出てる」って言ったので」
い「へ?」
常「なんか、本を読むとかなんとか」
い「あ〜あれですか…」
常「ふだんはあの番組見ないんですけどねぇ」
い「ですよね〜。でも、みんなたまたま見ちゃうんですよね〜」
みんなたまたま見ちゃうんですよ(笑)。

「2学期になにがあったんだ?」

11月19日にも書いたんですが、あるクラスが「異様な雰囲気」の中で授業が進んでいます。で、当然試験の平均点もいい点を取ってきます。というか、1学期の2倍の点を取ってくる子もいるし、あかんかった子もそれなりに納得してくるし。
で、みんなに
「2学期になにがあったんだ?」
というアンケートをとってみました。
で、わかったことがいくつか。

  • 数学の授業は一回抜けるとわからなくなるから聞かないといけない

ふむふむ。で、休むヤツとか寝るヤツがいなくなったんや。

  • 赤点とりそうでやばいから勉強した

そりゃそうだな。

  • 中間試験で「やったらできる」ってわかった

それは大きいやろなぁ…

  • 人に教えられるようになった

すごい!

  • みんなやってるし、自分も「やらな」って思った

結局、これが一番大きいんやろなぁ…。

ほんとうによくわかったよ。みんな、ありがとう!

何気ない会話

電車の中のサラリーマン(先輩のAくんと後輩のBくん)の会話。
A「あのなぁ、◯◯の受付の女の人、ひとりカワイイ人いるよなぁ」
B「あ、そうですか?」
A「あれ?見てへんの?」
B「あぁ、見てなかったです」
A「見といて。てか、ヒマやし見てるやろ」
B「たしかにヒマですねぇ」
A「まぁきれいというより癒される感じなんやけどね」
B「あ、あぁ、そうですか。ところで、◯◯の件ですけどね」
A「あぁあの件ね」
Bくん、なかなかうまく話をはぐらかしたな(笑)。

サンドバッグ

今年から生徒指導関係のセクションに移った関係で、いろんなことがあります。なかでも嫌なのが「クレーム処理」です。
いや、生徒からのクレームだったらいいんですが、地域住民からさまざまな苦情が来るわけで。
まぁ怒りの気持ちはわかるのですが、その矛先がなぜか学校に来ます。てか、教員に来ます。ちなみに、この手の電話は必ずわたしたちのセクションに来るわけで…。

まぁ、いまどきの学校なんてサンドバッグなんでしょうねぇ。ふぅ…。

trans teacher's networkの立ち上げか?

当然終わってからは懇親会。どこに座ろうかと思ったけど、話をしている最中ずっと笑顔で聞いてくださっていた方のところにいってみました。すると、そこにおられた3人、全員が同業者。いやぁうれしいです!
それぞれが職場でどんな感じなのかとか、いつ頃吹っ切れたかとか、そんな話をしみじみと話します。
在職トランスって、もちろん他の職場であってもわたしたちのギョーカイでも、その困難さは同じです。ですから、話題としては共有できるところはたくさんあります。でも一方、わたしたちのギョーカイならではの「やりやすさ」もあるし「困難さ」もあります。それは、他の職場であっても、それぞれの「違い」があるのと同様の話です。なので、在職トランス同士で話をしても、やはり同じギョーカイであれば、やはり重なるところが多いのは当たり前なわけです。そんな意味で、すごく共感を持てたんですよね。
で、思わず、
トランスジェンダーの教職員同士でゆるやかなネットワークをつくりませんか?」
と提案してしまいました。
ひとつは、トランスジェンダー教職員の課題の共有って大切な気がするし、もうひとつはトランスジェンダー生徒のサポートのためにも、そういうネットワークって大切な気がするんですよね。
といっても、まぁできることって、MLでダラダラしゃべったり、なにかの機会があったらオフ会をやる程度のことなんですけどね。

てことで、そんなことを考えているので、たまたまここを読んでいて、興味を持たれて、「ええなぁ」と思われた学校関係者の方がおられたら連絡ください。あと、3月のGID学会に参加されたりしていたら、声をかけていただけたらうれしいなぁと。

声かけの方法

今年から生徒に注意をしなくちゃならないセクションに入った関係で、まぁいろんなことがあるわけですが…。
基本的に、よく言われるのが、「頭ごなしに怒らない」みたいな話でして。まぁ、生徒にもいろいろ事情があるわけで、そのあたりをすくい出すことができるような「声かけ」が必要になるという話です。
まぁわたしは昔から
「なにがあったんや?」
と聞くことにしています。で、
「なんもない…」
とかいう返事が返ってくることがほとんどなんですが、なにもなかったらなにかが起こることはないので、それは言うのがめんどくさいか、あるいは隠しているだけのことなんですよね。そこからが、まぁいろいろと駆け引きがあっておもしろいんですよね。
ところで、今日、校門の立ち番の時におもしろい注意のしかたをするヤツがいまして。
「君なぁ、それ、ちょっと、あれやで」
と注意するそうな。これで通じるんですね。
子ども達は、自分がなにを注意されているかわかっているんです。で、例えば髪の毛を触ったら
「わかってるやん」
でいけるという…。
まぁいろんな声かけがあるわけですわ。

共通項

そう言えば、2学期の人権学習のお二人の講師さん、けっこう似たようなメッセージを送っておられた気がします。
まずは中倉さん
「もしもあなたが困った時、すべての用事を放り出してきてくれる仲間はいますか?」
続いて具志さん
「100人のたいしたことない友だちと、1人のほんとうの友だちのどちらをとりますか?」
もしかしたら1学期の講師の谷川さんも同じようなことを言っておられた気がします。もしかしたら、現在の人権学習の講師さんの共通項かもしれません。
いや、「仲間づくり」は、昔から人権教育の大切なテーマでした。でも、それが前面に出ることは案外少なかったような気がします。というよりも、講師さんがそういうことを言うことって少なかったという感じかな。
もしかしたら、それが前面に出てきたということは、今、そのことが喫緊の課題となっているのかもしれないなぁなどと、ふと思いました。

伝え方

最近、日本語がまだ堪能でない中国人に、わけあって数学の勉強を教えるというほどのものでもないけど、数学の相手をしています。
で、確率の勉強をしていた時のこと。
いろいろ説明をしながら
「あ、自分が伝えやすい方法で伝えているんだなぁ」
と、ふと思いました。
どういうことかというと、それは必ずしも「相手に伝わりやすい方法」ではないということなんです。
今、わたしが職場で相手にしている子ども達は、とりあえず日本語をある程度理解してくれます。まぁ、「ある程度」っていうのが悲しい現状なんですけどね*1。なので、内容が伝わっていなくても、言葉そのものはわかった気持ちになれるので、あまり「わからない」という表情をしません。ところが、日本語が通じない人を相手にしていると、わからない時、きちんと反応をしてくれるので、「あ、わかっていないな」ということが伝わってきます。で、
Aという方法→わかっていない
Bという方法→わかっていない
Cという方法→わかったみたい
となった時、自分が選んだA→B→Cという「伝える方法の順番」は、きっと「相手に伝わりやすい順番」じゃなくて、「わたしがやりやすい順番」なんだろうなぁというふうに思ったわけです。
まぁ、はじめから相手にとって最適の方法なんて選択できるわけないので、それでいいっちゃぁいいんですけど、相手が「わからない」と感じた時に、「次の方法」をやっぱり準備しておかなくちゃならないし、それが相手にとって伝わりやすいかどうかを常に考えてないといけないよなぁと痛感しました。

*1:とは言え、大学時代のわたしに対して、10年年上の人たちは同じ感覚を持っていただろうなぁ(笑)

見方を変えるわけではない

午後から人権教育がらみの出張。
到着したら、すでにお目当ての発表は終わりかけ。残念です。
でも、総括討論には参加できるな。
ある人が
「ポジティブシンキングで行くのもいいけど、ネガティブであることも大切。そこからポジティブになっていくんだ」
みたいなことを発言されて…。それに対する司会者のまとめが
「ネガティブも、考え方を変えたらポジティブなわけで」
違うやろ…。かなり迷ったけど、つい発言。
「いや、そうと違ごて、ネガティブな自分を見つめ、折りあいをつけ、そういうところからポジティブへと変わっていくと発言されていたんだと思うんです。単に見方を変えるというわけではないと思います」
みたいな。
でも、やっぱり自己肯定には、その前段となる「葛藤」「屈託」「挫折」みたいなものがないとあかんと思うのですが…。

「できない」ところから可能性が広がるのかな?

10月は2学期の人権学習があります。いちおう担当として担任さんたちと相談をしながら学習をつくるわけで。でも、大筋は4月の段階で提示してあって、それに従って担任さんが実行するという感じです。
で、3年生の担任さんとの話。
3年生は「結婚差別」がテーマです。2時間担任さんがしゃべらなくちゃならないので、いちおうプランを提示します。導入部については「従来型パターン」と「イレギュラーパターン」の2種類を提示しました。
「従来型パターン」は、まぁ言ってみれば部落差別の中で語られる結婚差別から入っていくパターン。よくも悪くも従来型の導入方法です。それに対して「イレギュラーパターン」は結婚制度そのものを問うところから入っていくパターン。
結婚差別についての学習をやっていて、いつも思うのは、「結婚できればいいのか?」ということです。というか、結婚制度そのもの、あるいは戸籍制度そのものを問うことなく、「結婚」について語ることができるのかと、いつも思っていました。でもそれを「担当」として教材化することは、なかなか難しいんですね。というのは、あまりにもその問題意識が共有できていないからです。いや、仮に自分が担任であれば、おそらく10年ぐらい前にはやっていたと思うのですが、それが「担当」だとできないんです。で、今回あえてチャレンジをしてみたわけで。
ところが、担任さん達から出てきた解答は、
「「結婚差別」あるいは「結婚」そのものを扱うことが困難である」
というものでした。
理由は、
「いまや子ども達の間で「従来の」結婚というもののリアリティがどれくらいあるのか」
ということだったんですね。例えば両親のどちらか、あるいは両方がいない子どももいます。両親がいたとしても実質崩壊している場合もあります。子ども達の実態が、すでに「結婚できればいい」というところにはないということなんです。
かといって、だから
「何ならできるか?」
というわたしからの問いかけには答がありません。完全に行き詰まってしまいました。

で、職場からの帰り道、ずっと考えていました。ずっとずっとずっと考えて、やがて、小さなヒントの芽が出てきました。結局「結婚」以前の問題だったんだ。ちょっと時間がかかるかもしれないけど、やってみよう…。