このタイミングか

教育基本条例の違法性について、いろいろな人が発言をしていたんだけどなぁ。選挙が終わってからの指摘。そのタイミングに割り切れないものを感じてしまう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111207-00000137-san-pol

松井府知事、教育基本条例案修正に言及 文科省の違法性指摘受け
産経新聞 12月7日(水)15時6分配信
 地域政党大阪維新の会」(維新)が大阪府議会に提出した教育基本条例案について、文部科学省から事実上、地方教育行政法に抵触するとの回答が府に寄せられ、松井一郎知事は7日、「条例が法に抵触するのはルール上良くない。抵触することがはっきりすれば変えなければいけない」と述べた。2月府議会で改めて知事提案する方針は変えないものの、府市統合本部で条例案の根幹部分を修正することも視野に、検討する姿勢を示した。

 7日午前、府咲洲(さきしま)庁舎で記者団に対して明らかにした。条例案をめぐっては、文科省が5日、一般論としながらも「教育委員会の職務権限について、知事が目標を設定することは地方教育行政法上おかしい」と口頭で府教委に回答。

 「知事の権限の外にある目標を実現できなかったからといって、教育委員を罷免する理由にはできない」とも指摘し、事実上、教育基本条例案の根幹部分について法律違反の可能性があるとする見解をまとめた。

 一方、7日の府議会教育常任委員会では、条例案に反発する府教育委員からの意見聴取が行われ、民間から選ばれた府教育委員5人のうち、生野照子委員長や立命館大教授の陰山英男氏ら4人が出席。

 条例案が可決した場合、教育委員は総辞職する方針を示しているが、各委員は「責任がある間は辞めない」などと質問に答え、「教育行政が崩壊する」「法令違反にあたる」などと条例案を批判。維新側から求められている対案の提出についても、「現行法令が対案」と突っぱねた。

 陰山氏は、知事が学校の目標を定めるとしている条例案について、教育への政治的関与にあたることから、法令に触れる可能性を指摘。成立した場合の訴訟リスクにも言及した。また校長の公募についても、過去に他県で民間人校長が自殺した例を取り上げて「よほど優れた能力がないと難しい」と疑問を呈した。

 これに対し、維新府議からは、委員が総辞職する意向を示したことについて「教育委員という立場を利用して、府民を扇動したといっても過言ではない」と批判の声が上がったが、教育委員側は「私たちは間接的にせよ民意を得ており、府民に私たちの意見を伝える義務、責任がある」(生野氏)などと反論した。

どこにいるんだろう

今日は午後から特別支援学校で会議。会議に先立って、校内の見学をさせてもらいました。
この学校、通学ができる子どもたちのコースと、入院中の子どもたちが通うコースと、重度の子どもたちのコースの3つがあります。まぁそれぞれ特徴はあるのですが、やっぱり重度の子どもたちのコースは「ほぇ〜…」という感じです。いや、何がどうというわけじゃなくて、ふだんつきあっている子らとぜんぜん様子が違うわけで…。でも、あとで聞いたら知的障害を持っている子と交通事故かなにかで身体がマヒしている子を同じコースに入れているとか。う〜ん…。
それにしても、わたしが知っている「骨形成不全」の子とか「脳性マヒ」の子とか「小児マヒ」の子とかはいったいどこにいるんだろう。まぁ、ごく少数この学校にも在籍しているみたいですが、そんな数ではとうていあわない気がします。
別の支援学校なんだろうか…。あるいは一般校に行っているんだろうか。それにしてはあまり見ないしなぁ。
わからん…。

「誰かのせい」史観

なんか、最近「悪者探し」みたいなのが横行しているなぁと。あ、最近でもないですね。かなり前からですよね。
そんなことを考えながら出勤していたのですが…。
そういえば、生徒たちと人権について話をしていると
「結局誰が悪いねん」
「政府が悪いんか?」
「政治を変えたらええんや」
「大人が悪い」
といった意見が出てくることがよくあります。そのたびに
「う〜ん、そういうわけではないんだけどね…」
と言うのですが、なかなかわかりにくいみたい。
でも、考えてみたら、わたしたちもかつて
江戸幕府は厳しい身分制度をつくり、その最底辺に被差別身分を置いた」
みたいな話をしてきたので、「誰かのせい」にしていたなぁと。いや、部落差別だけじゃなくて、なんとなく歴史を「原因と結果」みたいなとらえ方をしてきた気もします。でも、こういう「因果関係」だけでとらえてしまうと、結果には原因があって、「悪者がいる」というふうになってしまう。でも、たぶんそんな簡単なものではないんでしょうね。で、言われるわけです。
「わかりにくい!」
「もっとわかりやすく!」
でも、わかりにくいものはわかりにくいものなんです。それをわかりやすく説明した時、どこかに「ズレ*1が混じってしまう。それが、実はすごくこわいところ。
やっぱり、「わかりやすさ」を求めず、わかりにくいことをわかりにくいまま、それでもていねいに話をする以外、方法はないんだろうなぁ。

*1:というよりも「ウソ」

イライラ

と思ったけど…。
大阪なぁ…。
みんなイライラしているんやろうなぁ。でも、その選択があれか…。自分の首を絞めるだけだというのに…。でも、もしかしたら、「選択」をした人は自分の首が絞まっても、それは自分の選択のせいとは考えず、だれかのせいにするのかな。

流儀の違い・全同教2日目

朝起きると軽く頭痛。これはきっと風邪の影響がまだ残っているのでしょう。とりあえず朝食を食べたら、それでもけっこう体調は回復。
てことで、分科会へ。
今日も思わず発言しまくりです。もっとも、わたしよりもっと発言している人はおられましたが…。

ところで、それぞれの地域の置かれた状況で、子どもへのかかわり方の「手法*1」はそれぞれ違うと思います。すごくシステマチックにやるところもあれば、ベタベタのかかわり*2をするところもあります。また、高校なんかだと、校内のポジションによっても全然違います。たとえば担任だとクラス運営をしながら子どもたちにかかわるだろうし、それ以外の分掌だと、ピンポイントで課題のある子にかかわることになります。そんなことを考えながらも、やはり「流儀の違い」みたいなものが気になったりします。
ちなみにわたしは…。
おそらくいくつかの「時代」があったように思います。
まずは「ベタベタのかかわり」をしていた頃。あの頃は、担任を持たせてもらえず、教科でしか子どもとかかわれなくて、それでも一生懸命子どもと「話」をしていたなぁ。
続いて担任をはじめた頃。あの頃は、おそらくすごく熱いかかわりをしていたんじゃないかなぁ。「非行は宝」と心に刻んで、「謹慎上等!」みたいな感じでした。家庭訪問の件数は学校の中でずば抜けて多かった頃ですねぇ。
そして担任末期。この時が大きな転換点でした。「子どもを変えるのは子ども」ということがわかった。それを教えてくれたのはMという生徒をはじめとするクラスの子どもたちでした。わたしがやったことは、子どもたちのネットワークをどうつなぐかということ。子どもたちがどう動くか。その動きをじゃましないようにしながら、その動きを側面からサポートする。どのことどの子をつないだらどうなるかということを意識していたし、どのことどの子がつながっているか、その関係が変化しているかを、常に見ていました。そうして、子どもたち同士がつながっていった。
現在は…。とてもではないけどシステマチックにできるような状況ではありません。そこへ持ってきて、担任をしていないから、自分の「実験場」も持っていません。とりあえず、それでも自分が「実験」できる場としての授業から、子どもたちのネットワークづくりをどうしていくかということかなぁ。そんな中で、しんどい生活をかかえている子や、ともすれば脱落しそうな自分を叱咤激励しながら疲れてしまった子や、学力をつけてこられなかった子や、あんな子やこんな子が、それでも自分なりに学べる空間をどうつくるかということ。そこに、「学び」をコーディネートする人間として存在したいなぁと思っています。そうとう難しいですけどね。
そしてもうひとつは、学校の外に「場」をつくること。「場」と「場」の出会いをコーディネートすること。子どもたち同士が話せればいいんですよね。わたしはそこにいるだけで、たぶんいいんです。「わたし」はいるけど、「わたし」はいない。そんな感じ。
どんどん存在は引いていっているけど、仕掛けは前より増えたんじゃないかなぁ。

*1:作法?

*2:これはもちろんほめ言葉

金魚の気持ち

うちにかれこれ3〜4年飼っている金魚がいます。うち一匹が、ここ数日水槽の底で横になっています。いよいよ最期の時が近いのかな。
ところが、けっこう長生きしてくれています。
パートナー曰く。
「横になってるの、メスやねん。で、オスがな、一生懸命かまってやってるねん」
そうなんや。確かに横に行って一生懸命つついたり、起こそうとして下に潜ったり。ヤツはヤツなりに一生懸命なんですね。
でも、そんな姿を見て、「死」というものを妙に身近に感じてしまいました。

やっぱり電車が楽

今日は午後から出張。で、夜は呑み。少し考えたけど、今日の出張は電車で行くことにしましょう。
で、実際に行くと。
楽ですね。ほんとうに。車だとのんびりできないし、バイクだともっと集中していないといけません。でも、電車だったらぼーっとしていてもいいし、他のことを考えていてもいい。あたりまえのことだけど、あらためて感じます。そうそう、駅から歩くというのも、これまたいいかも。
マジで、ライフスタイル変えてみたい気がしてしまいます。まぁ、無理だろうけどね。

子どもたちが聞く話

今日は保健関係の講演がありまして、わたしは例のごとくセッティング。まぁそれはそれでいいのですが。
せっかくの話を生徒たちはぜんぜん聞いていない。大切な話をしてくださっているのになぁ。それにしても、人権学習の講演とはまったく違います。なんでなんだろう…。
たぶん、子どもたちのなかで、話には二種類しかないのかな。「いい話」と「おもしろくない話」。で、「いい話」は、たいてい当事者性をおびた具体的な経験談。たとえ「大切な話」であっても、「おもしろくない話」であったら聞かない。
でも、「大切なこと」って普遍的な部分があって、必ずしも当事者でないと話せないとは思わないし、逆に当事者だと体験の強烈さにマスクされて伝わりにくい側面すらあると思うんやけどなぁ*1」。
まぁ、「大衆操作したい人」にとっては、すごくやりやすいだろうけど、それはまずいだろうと。
で、そういうふうになってしまう原因のひとつに、「子どもたちに聞かせよう」として、当事者に話をしてもらってきた「わたし(たち)」のやり方がある。やっぱり一度そういうのを聞いちゃうとねぇ。
あぁ、ジレンマ。 

*1:あと、「なんで当事者がしゃべらなあかんねん!」てのもあるんだけど、それはここではおいといて…

ほんまにようがんばってはる

今日は午後から学力向上の指定を受けた中学校の研究発表会に行って来ました。
この中学校、いまから15年ぐらい前に、そこの教員が「うちの学校は、京都府で一番学力が低い学校です」と胸を張っていっていた学校です。いまはどうだろう…。最下位かどうかはわからないけど、まぁそこそこのところで闘っているんじゃないでしょうか。
ここ、かつては「就学保障」のとりくみに重点を置いていたと言います。まさに「今日も机にあの子がいない」をどうするかというとりくみですね。その後「進路保障」にとりくみの重点は移っていきます。「高校進学率を全国並みに」という感じでしょうか。で、現在は「学力保障」です。つまり、「高校に進学しても、その後の進路はどうなっているか」ということなんでしょうか。
でも、学力保障って、一口に言えるほど簡単なことじゃないです。なぜなら、現場の教員がどれだけがんばっても、実はそう簡単につくものじゃないからです。で、どうするか。この中学校の場合、中学校区全体のとりくみとしてさまざまな連携をはかっています。というか、中学校ひとつの問題じゃなくて、その街全体の課題として学力保障のとりくみをしています。だから、教育委員会はもちろん、保育園・小学校・地域、そして卒業後の高校も含めて、どうやって子どもたちに学力をつけていけばいいのかを、15年ぐらい前からずっととりくんでいる。その通過点としての発表会でした。
授業はとても楽しくわかりやすい。でも、そこで話をされている内容を聞いて、やっぱり愕然とします。まぁ、うちの子どもたちと同じとも言えますが(笑)。
研究発表会を聞いて、もう、すごいていねいなとりくみをしておられるのがよくわかります。というか、発表会を聞くまでもなく、保・小・中のとりくみは日々知っていますから。でも、その時に子どもたちの教室での話を思いだして、やっぱり「あぁ…」と思ってしまいます。
なにをどうすればいいんだろう…。

いつきの取り柄

  • 笑い

ただし、すべることが多々ある。

  • 深く考えない

ただし、右往左往してしまうことが多々ある。

  • 酔うと寝る

ただし、大切な話を聞き逃したり、いらんところで降りたり、必要なところで降り過ごしたりすることが多々ある。

まぁ、これくらいか…。3つもあったら上出来としよう。