落ちた

朝、とある事情があって落ちました。
そのまま職場に行って、そのまま授業。
もちろん授業の最初に
「今日、落ちてるし。刺激しんといてな」
と宣言することは忘れません。でも、うちの子どもたちのうちの数人にはその意味がわからないみたい。刺激するヤツがいるんだな。となると、当然こちらも感情的になってしまうわけで。
だから、それをさせるなというために、あらかじめ宣言しておいたのに…。
結局ケンカだわ。
職員室での会話。
い「「落ちてるから刺激するな」って言ったのに、なんで刺激するかなぁ」
T「「機嫌悪いからって、態度を変えていいの?!」とか言う生徒がいるけど、あれはおかしいよなぁ。機嫌が悪い時もあるよなぁ」
い「うん。てか、教員の顔色見て、「今日はあかんわ」とか「今日は行ける」とかいうのも、ひとつの社会性やと思うねん」
T「そうそう」

夕方ちょっと復活。でも、それは「とある事情」の部分です。そこから復活したら「なんで生徒とケンカしてしもたんやろ」と、別の落ち込みがはじまります。
あぁ、やっかいな性格や…。

テープおこし

現在、直接職場とは関係なさげだけど、やっぱりいちおう仕事という「資料集づくり」をしています。なかでも一番たいへんなのは、講演の校正。
で、4本の講演の校正をやって版組をしているのですが…。
いちおうテープおこしをしてくださるのは、「常任委員」と言われる役割をしている人々です。このテープおこしがくせものです。必ずしもきちんと起きているとは限らない!
今回なにがきつかったかというと、もともとの講演と語尾が全然違うのがひとつ。もうひとつは、なんだかえらい短い気がしたのがひとつ。
そりゃぁ、はじめにそのあたりに配慮してくれといえばよかったんですがね。
「なんか違和感あるなぁ」
と思って、あらためてテープを聴いてみると、語尾が違うから、ぜんぜん雰囲気が変わっています。
「ありゃ?講師の校正で「?」がついているところがある」
と思って、あらためてテープを聴いてみると、自分で解釈して、文章をズバズバ切っている。なので、意味が通らないところが出てきているのです。そこのところをよく聞いたら、ぜんぜん違うことを講師は話しておられる。
もうね、今回はさすがにまいりました。

講演録って、その雰囲気を出しながら、でも「読める形」にしなくちゃなりません。このあたりのさじ加減が難しい。講演ならではのざらつき感は大切だし、途中で挿入されるエピソードとか無駄話が、案外大切なんですよね。だからこそ、最初のテープおこしは、話の内容をそのまま起こしてもらわないと、あとの料理ができない。
たいへんなのはわかるんですがねぇ…。

言葉

メールって難しい。
ふとした言葉で、簡単に相手を傷つけたり相手に傷つけられたり。思いを伝えようとすると、なおさら意図に反してしまうこともある。
傷を回復するためには、ほんとうは会うことが一番。でも、それができなければ、せめて声を聞くこと。
会ったり声を聞いて癒された心には、メールの言葉は今度は優しく響きます。

ドツキ漫才

なんか知らないけど、夕方から大阪へ。気がついたら呑んでました。集まったのは人権関係の人。相手にとって不足はないです。
しばらく話をしていると、中には部落の人もいれば在日の人もいる。なんかこう、うれしくなってしまいます。
ところで、その人たちに「ガチで話、してますの」と尋ねると、なかなかそうはなっていないとのこと。そりゃそうでしょうね。いくら人権担当とはいえ、なかなかそういくものでゃありません。
でも、「がち」で話をしないとわからないことが多々ある地王のはTーマスとかBんちゃんが教えてくれたことです。ここは京都名物ドツキ漫才を伝えなくちゃなりませんよね。
てことで、へたれなわたしは軽くジャブを打つ程度でしたが、いままで見てきたドツキ漫才のことを話してみました。すると、「ドツキ漫才歓迎」とのこと。
いいなあ。おそらくこういうところから新しい世界がはじまるんやろな。
かなり充実した飲み会でした。

このタイミングか

教育基本条例の違法性について、いろいろな人が発言をしていたんだけどなぁ。選挙が終わってからの指摘。そのタイミングに割り切れないものを感じてしまう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111207-00000137-san-pol

松井府知事、教育基本条例案修正に言及 文科省の違法性指摘受け
産経新聞 12月7日(水)15時6分配信
 地域政党大阪維新の会」(維新)が大阪府議会に提出した教育基本条例案について、文部科学省から事実上、地方教育行政法に抵触するとの回答が府に寄せられ、松井一郎知事は7日、「条例が法に抵触するのはルール上良くない。抵触することがはっきりすれば変えなければいけない」と述べた。2月府議会で改めて知事提案する方針は変えないものの、府市統合本部で条例案の根幹部分を修正することも視野に、検討する姿勢を示した。

 7日午前、府咲洲(さきしま)庁舎で記者団に対して明らかにした。条例案をめぐっては、文科省が5日、一般論としながらも「教育委員会の職務権限について、知事が目標を設定することは地方教育行政法上おかしい」と口頭で府教委に回答。

 「知事の権限の外にある目標を実現できなかったからといって、教育委員を罷免する理由にはできない」とも指摘し、事実上、教育基本条例案の根幹部分について法律違反の可能性があるとする見解をまとめた。

 一方、7日の府議会教育常任委員会では、条例案に反発する府教育委員からの意見聴取が行われ、民間から選ばれた府教育委員5人のうち、生野照子委員長や立命館大教授の陰山英男氏ら4人が出席。

 条例案が可決した場合、教育委員は総辞職する方針を示しているが、各委員は「責任がある間は辞めない」などと質問に答え、「教育行政が崩壊する」「法令違反にあたる」などと条例案を批判。維新側から求められている対案の提出についても、「現行法令が対案」と突っぱねた。

 陰山氏は、知事が学校の目標を定めるとしている条例案について、教育への政治的関与にあたることから、法令に触れる可能性を指摘。成立した場合の訴訟リスクにも言及した。また校長の公募についても、過去に他県で民間人校長が自殺した例を取り上げて「よほど優れた能力がないと難しい」と疑問を呈した。

 これに対し、維新府議からは、委員が総辞職する意向を示したことについて「教育委員という立場を利用して、府民を扇動したといっても過言ではない」と批判の声が上がったが、教育委員側は「私たちは間接的にせよ民意を得ており、府民に私たちの意見を伝える義務、責任がある」(生野氏)などと反論した。

どこにいるんだろう

今日は午後から特別支援学校で会議。会議に先立って、校内の見学をさせてもらいました。
この学校、通学ができる子どもたちのコースと、入院中の子どもたちが通うコースと、重度の子どもたちのコースの3つがあります。まぁそれぞれ特徴はあるのですが、やっぱり重度の子どもたちのコースは「ほぇ〜…」という感じです。いや、何がどうというわけじゃなくて、ふだんつきあっている子らとぜんぜん様子が違うわけで…。でも、あとで聞いたら知的障害を持っている子と交通事故かなにかで身体がマヒしている子を同じコースに入れているとか。う〜ん…。
それにしても、わたしが知っている「骨形成不全」の子とか「脳性マヒ」の子とか「小児マヒ」の子とかはいったいどこにいるんだろう。まぁ、ごく少数この学校にも在籍しているみたいですが、そんな数ではとうていあわない気がします。
別の支援学校なんだろうか…。あるいは一般校に行っているんだろうか。それにしてはあまり見ないしなぁ。
わからん…。

「誰かのせい」史観

なんか、最近「悪者探し」みたいなのが横行しているなぁと。あ、最近でもないですね。かなり前からですよね。
そんなことを考えながら出勤していたのですが…。
そういえば、生徒たちと人権について話をしていると
「結局誰が悪いねん」
「政府が悪いんか?」
「政治を変えたらええんや」
「大人が悪い」
といった意見が出てくることがよくあります。そのたびに
「う〜ん、そういうわけではないんだけどね…」
と言うのですが、なかなかわかりにくいみたい。
でも、考えてみたら、わたしたちもかつて
江戸幕府は厳しい身分制度をつくり、その最底辺に被差別身分を置いた」
みたいな話をしてきたので、「誰かのせい」にしていたなぁと。いや、部落差別だけじゃなくて、なんとなく歴史を「原因と結果」みたいなとらえ方をしてきた気もします。でも、こういう「因果関係」だけでとらえてしまうと、結果には原因があって、「悪者がいる」というふうになってしまう。でも、たぶんそんな簡単なものではないんでしょうね。で、言われるわけです。
「わかりにくい!」
「もっとわかりやすく!」
でも、わかりにくいものはわかりにくいものなんです。それをわかりやすく説明した時、どこかに「ズレ*1が混じってしまう。それが、実はすごくこわいところ。
やっぱり、「わかりやすさ」を求めず、わかりにくいことをわかりにくいまま、それでもていねいに話をする以外、方法はないんだろうなぁ。

*1:というよりも「ウソ」

イライラ

と思ったけど…。
大阪なぁ…。
みんなイライラしているんやろうなぁ。でも、その選択があれか…。自分の首を絞めるだけだというのに…。でも、もしかしたら、「選択」をした人は自分の首が絞まっても、それは自分の選択のせいとは考えず、だれかのせいにするのかな。

流儀の違い・全同教2日目

朝起きると軽く頭痛。これはきっと風邪の影響がまだ残っているのでしょう。とりあえず朝食を食べたら、それでもけっこう体調は回復。
てことで、分科会へ。
今日も思わず発言しまくりです。もっとも、わたしよりもっと発言している人はおられましたが…。

ところで、それぞれの地域の置かれた状況で、子どもへのかかわり方の「手法*1」はそれぞれ違うと思います。すごくシステマチックにやるところもあれば、ベタベタのかかわり*2をするところもあります。また、高校なんかだと、校内のポジションによっても全然違います。たとえば担任だとクラス運営をしながら子どもたちにかかわるだろうし、それ以外の分掌だと、ピンポイントで課題のある子にかかわることになります。そんなことを考えながらも、やはり「流儀の違い」みたいなものが気になったりします。
ちなみにわたしは…。
おそらくいくつかの「時代」があったように思います。
まずは「ベタベタのかかわり」をしていた頃。あの頃は、担任を持たせてもらえず、教科でしか子どもとかかわれなくて、それでも一生懸命子どもと「話」をしていたなぁ。
続いて担任をはじめた頃。あの頃は、おそらくすごく熱いかかわりをしていたんじゃないかなぁ。「非行は宝」と心に刻んで、「謹慎上等!」みたいな感じでした。家庭訪問の件数は学校の中でずば抜けて多かった頃ですねぇ。
そして担任末期。この時が大きな転換点でした。「子どもを変えるのは子ども」ということがわかった。それを教えてくれたのはMという生徒をはじめとするクラスの子どもたちでした。わたしがやったことは、子どもたちのネットワークをどうつなぐかということ。子どもたちがどう動くか。その動きをじゃましないようにしながら、その動きを側面からサポートする。どのことどの子をつないだらどうなるかということを意識していたし、どのことどの子がつながっているか、その関係が変化しているかを、常に見ていました。そうして、子どもたち同士がつながっていった。
現在は…。とてもではないけどシステマチックにできるような状況ではありません。そこへ持ってきて、担任をしていないから、自分の「実験場」も持っていません。とりあえず、それでも自分が「実験」できる場としての授業から、子どもたちのネットワークづくりをどうしていくかということかなぁ。そんな中で、しんどい生活をかかえている子や、ともすれば脱落しそうな自分を叱咤激励しながら疲れてしまった子や、学力をつけてこられなかった子や、あんな子やこんな子が、それでも自分なりに学べる空間をどうつくるかということ。そこに、「学び」をコーディネートする人間として存在したいなぁと思っています。そうとう難しいですけどね。
そしてもうひとつは、学校の外に「場」をつくること。「場」と「場」の出会いをコーディネートすること。子どもたち同士が話せればいいんですよね。わたしはそこにいるだけで、たぶんいいんです。「わたし」はいるけど、「わたし」はいない。そんな感じ。
どんどん存在は引いていっているけど、仕掛けは前より増えたんじゃないかなぁ。

*1:作法?

*2:これはもちろんほめ言葉

金魚の気持ち

うちにかれこれ3〜4年飼っている金魚がいます。うち一匹が、ここ数日水槽の底で横になっています。いよいよ最期の時が近いのかな。
ところが、けっこう長生きしてくれています。
パートナー曰く。
「横になってるの、メスやねん。で、オスがな、一生懸命かまってやってるねん」
そうなんや。確かに横に行って一生懸命つついたり、起こそうとして下に潜ったり。ヤツはヤツなりに一生懸命なんですね。
でも、そんな姿を見て、「死」というものを妙に身近に感じてしまいました。