で、講演の前に宮前さんと合流して、最初に聞いた話が「リバティおおさか補助金打ち切り」の話。人権博物館なのに「人権に偏りすぎ」として補助金を打ち切るって、もうあいた口がふさがらないというか、そもそも、家庭教育支援条例案の一件からもわかるように、「リバティおおさか、あなたがたこそ必要なんちゃうん」というツッコミすらできる気がするのですが…。
でも、なによりこわいのは、「維新の会だけでなく、それをよしとする善意の人々」の存在やなぁと。結局、ハンセン病への隔離政策と、内容こそ違えども、同じことが起こっている。
そもそも、リバティが補助金なしで運営できる世の中なら、リバティのような施設は存在意義がぜんぜん違うわけで、補助金が必要だからこそ存在意義があると思うのですが。
ついでに言うと、というか、「ついで」じゃダメな話なんですが、大阪はリバティみたいなのをつくってきたわけですが、例えば京都だと、「丹波マンガン記念館」にはまったく補助をしてこなかったわけで、打ち切り以前の話もあるかと。
いずれにしろ、存続の方策を模索中という話もあるので、またわかったらアナウンスしなくちゃなと。
カテゴリー: 考え
出る杭の覚悟
前にも書いた気がしますが…。今日、「のんびり」しながら、ふと授業で語ったこと。
頭髪指導なんかで「他の人もやってるやん、なんでわたしだけ」と言うヤツの多いこと。そんな時、わたしは「目立つしや」と言っちゃいます。「目立ったら、他の人より注意されるのはしゃーないやろ」と。で「君は目立つ道を選択したんだから、それは引き受けんとあかんやろ」と。「出る杭は打たれるねん」と。
ちなみに、「出過ぎた杭は打たれない」けど、「もっと出過ぎた杭は引っこ抜かれる」のも確かでして(笑)。
でも、そこにあるのは「対立の構図」です。それをどうずらすか。そこに「おりあい」というヤツがある。
その「落としどころ」をどう設定するかなんだよな…。
もちろん、自戒の念を込めて話しましたとも(笑)。
少しの無理と、かなりの無理
玖伊屋の夜はバタバタしているので、ほとんど誰とも話をしませんが、朝はふと話をすることがあります。今日もそんな朝でして。
そんななかで考えたこと。
まわりの人にトランスを理解してもらうのって、すごくたいへんなことだと思います。ちなみにたいへんなのは「まわりの人」のほうですけどね。
で、カムアウトする側は、長い長い間我慢をしてきてようやく言うからきちんと伝えようとする。もちろん心の準備もきちんとして、ある程度の覚悟も決めて。ところが、受ける側は「ある日突然」です。
すると、「する側」と「受ける側」のキャパシティには当然のことながら差ができます。てことは、「する側」が「6割くらい」って思っていても、「受ける側」はキャパシティギリギリだったりする可能性があります。ましてや、「する側」が思いの丈をのべてしまうと、それは100パーセント近くになってしまわざるを得ません。となると、当然のことながら「受けとめきれない」となる可能性が高くなります。
これは双方にとって不幸かなと。だって、「する側」も「受ける側」も必死の思いなのに、それがすれ違っているからです。
じゃぁ、それをどう回避するかというと、「する側」が、「受ける側」の6割を見越して話をするしかないです。なぜなら、決定権を持っているのは「する側」だからです。
これ、たぶん「する側」にとっては、すごくフラストレーションがたまることだと思います。でも、そのフラストレーションを抱え込みながら、対話を途切れさせない営みを続けていれば、きっと「する側」と「受ける側」がともに「こんなもんか」と思える地点がくるだろうと思います。
「かなりの無理」は破壊につながるけど、「ちょっとの無理」は創造につながる。そんな気がします。
「かかる」か…
「病気にかかる」っていうのは、たぶん「健康な状態」がもともとあって、「病気な状態」になることで、それは治療の対象になるわけなんでしょうね。
で、たぶんGIDって、生まれながらのものっていうことなんでしょうね、たぶん。まぁ、「かかる」場合とか「悪化」する場合もあるような気がしないわけてもありませんが。
で、「その人としての健康な状態」は生まれながらに実現されていなくて、それが「治療の対象」になると。つまり、「生まれながらの治療の対象」ってわけか。まぁ、「健康な状態」はいまだ実現されていないわけですから、なにが健康かわからないけど、「いまだ見ぬ健康な状態」を目指して「治療」するってわけですね。
なんか、それってイヤだな。
まぁ、あたしゃトランスだから関係ないか。どっちかっていうと変態やしな。変態なら「治療」なんて蹴飛ばせる。
「生まれながらの変態」。かっこいいな。そっちがいい。
語っちまった
なんか、最近イヤなことが起こりつつあります。そんな気持ちがわき起こってきて、つい教室で語ってしまいました。
わたしは大きな声で言えば勝ちという社会は嫌いです。
それはどうしてか。
わたしは人権教育を担当しています。
人権とはなにか。それは少数者が生きられることだと思います。では少数者とは誰か。それは、人数が少ないという意味だけではなく、パワー、すなわち権力を持たない人のこともさします。
それは例えば部落の人であったり、在日外国人であったり、子どもであったり、障害者であったり、女性であったりします。
こうした人たちは、少数であるがゆえに、あるいは権力を持たないがゆえに大きな声を出せません。
もしも大きな声がまかり通る世の中であれば、少数者の小さな声は無視をされてしまいます。
だから、大きな声がまかり通る社会ではなく、小さな声に耳を傾ける社会でなければならないと思っています。まぁいいか。授業をはじめましょう。
「正しいこと」を主張する人は、自らを正しいと思っているがゆえに躊躇がなく、大きな声で主張することが多いように思います。そして、そこに同時に他者への抑圧が潜んでいることに気づきにくい。なぜなら、自分は正しいことがわかっているから。
それならわたしは躊躇しながら、自信なく、小さな声でつぶやく生き方を選びたいと思います。
楽しい!
今日は、ある意味、はじめての「講義」。先週は、まぁガイダンスって感じでしたから。
今日の講義は10人くらいの、まぁいってみれば読書会です。
読書会なんて、30年ぶりくらいですよ。
誰かが一段落を読んで、そこで疑問や感想を述べる。今のところは、それにたいして教員がコメントを入れてる感じだけど、相互に考えを述べあうようになったら楽しいだろうな。
でも、いまも充分に楽しい。自分の疑問に直接答えるわけではなく、著者の思想や時代背景の紹介を通して、自分で自分の問いへの答えを探す感じ。
うん、こんな授業、自分もしたいな。きっと、どんな子らが相手でもできるはず。いや、うちの子らだからこそ、これをしなくちゃならないんだろうな。
これから10数年の過ごし方
夜は組合の呑み。というか、いちおう退職された方の歓送会と新組合員の歓迎会です。
退職された方の顔を見たら、なんかうらやましくなりますね。ほんとうにおだやかな感じの顔をされています。でもまぁ、わたしがあの方たちくらいの年齢になったときは、定年が延びてるやろうし、あの顔はまだまださせてもらえへんのやろなぁ。とすると、仕事しててもおだやかな顔になるようにしなきゃあかんわけや。
なんか方法、考えよ。
ひとつの終焉
台所にあった封筒を開けてみると
解放教育研究所を本日をもって解散いたします。
とありました。
忸怩たる思いとはこのことかなぁ。
わたし、ほんとうに『解放教育』に育ててもらいました。それこそ「謙一郎」時代から、何度も原稿を書かせていただきました。当時の編集長の桂さんから
「学級通信のとりくみ、おもしろいから書いてみて」
って言われたのは、本当にうれしかった。
トランスジェンダー生徒交流会のことも2度ほど書かせてもらいました。なぜかバラバラに、でも2ヶ月連続でした。きつかったけど、いい機会でした。
わたし自身のこともT川さんに紹介していただきました。このT川さんの連載は『元気のもとはつながる仲間』という形で本になっていますね。
そして、渾身の思いでつくった2011年1月号「LGBT特集」。ほんとうにいろんな人に助けてもらってできた特集でした。
これから「教育」に特化した人権にかかわる月刊誌なんて出てくるんだろうか。
でも、どこかでそれを共有する「場」をつくらなくちゃならないんだろうなぁ。
あ、それ!
今日はいよいよ原稿の締め切りです。でも、そんなん集中できるわけありません。集中が切れると、ちょろちょろいらんところを見に行くのですが、N江さんの紹介でこんなの見ちゃって、思わず読んじゃいました。感覚、かなり近い…。
発表メモ・GID学会番外編
とりあえず、メモだけはっておきます。
「男とはなにか、女とはなにか」。「性を変更する」ってどういうことか。それを考えないと、支援の方法は見つからない。
とある民法学者によると規定はない。「社会から女性と見なされる人のことを女性という」→部落の定義結論的には、身体加工のみ性の変更ではない。社会的な関係をどう変えていくのかということが重要。
しかし、そのことを特に若年層当事者は誤解しがち。なぜなら、SRSには付加価値が多すぎる。→身体加工に走ってしまうやりたい子はやったらいい。でも、それをしないと性の変更ができないとするのはまちがっている。
高校2年で出会ったある参加者。
高校中退→板前→「なにやってるねん」「保育士になろう」→高校に行く→卒業→短大入学
中退前「医者に行きたい」「ホルモンしたい」
「医者はいつでも行ける。ホルモンはいつでもできる」といって邪魔した。メールで取材。
Q「きみにとって、わたしは邪魔やった(笑)?いや、正直、邪魔して時間かけさせたやんか。あの時間は無駄やったか意味があったかを聞かせてm(_ _)m」
A「すぐに治療したいとゆうのはあったんですけど、時間かけずにぱっぱっとやってたら、親に何の話もせずやってたから、時間かけたというのには良かったのかもしれないと、今になって思いますね。でも高校のときとかは、なんでそんなすぐに治療とかしていったらあかんねん!今すぐにしたいねん!て思ってましたね、正直(-_-;)」繰り返す。
やりたい子はやったらいい。でも、それをしないと性の変更ができないとするのはまちがっている。今の動き→医療と学校と家庭の連携→「個人のケア」で突破しようとしている。
で、教員にも期待される。「教育は大切」わかるけどね。
でも、教員は忙しい。
「無理解」というけどね。→研修→課題は山積み
研修は、「知る」ためじゃなくて「わからないけどわかりたいと思っていることの糸口を見つけるためのもの」。研修を受けたから理解できるものではない。で、わからないから専門家のところに連れて行こうとなってしまう。これが連携?
学校教育の中でになわなければならない役割は何?
専門家のところに連れて行くこと?ちゃうやろうほんとはみんな「なんとかしたい」と思っている。それは教員の本能。でも、ルールとの間の齟齬がある。ルールはなぜある?誰が必要としている?制服は誰が必要としている?
ある高校生の話
あるFTM→ズボンをむりやりはいていく。
ケース会議。親の了解がないとダメ。親に話せる関係じゃない。暗礁に乗り上げていた。たぶん病院にも行けない。さて、どうする?1対1の限界では?
「医療」は原則1対1しかし…
「交流会」はグループのケア→学校でできること自分と出会うためには他者と出会わないとわからない。
「他者」は、まずは同じ属性
さっきの「大学行った子」も交流会に来ていた。「違う」とは思っていたみたいだけど、それでも来ていた。
交流会ではつめる。
中学生のFTM→必死
高校生のMTF→声が出せない。わかる→でも出すさっきの高校生のこと
「交流会に参加した翌日父親に話をした。制服を今すぐに何とかするとまではいかなかったけど、これから話し合っていこうと父親に言われた」
好きな女の子から「なにむちゃくちゃしてるの」と嫌われた。交流会に参加後「自分は自分」→仲直り病院に連れて行ったら病気になり、交流会に連れて行ったら変態になる。
それは生徒だけではなく教員も。
その高校生を連れてきた教員
「解決策として女子のズボンをはくことになった→「いや」だった。女子のズボンをはくふりして男子のズボンをはけばいい。本人は納得」。
抜け道を見つけられるようになった。「他者」のもうひとつは「異なる属性」→学校でできること2
ある当事者を支援しようとするなら、その当事者自身へのかかわりと、周囲への働きかけが必要。周囲については、教員も含む。周囲のかかわりについては「そのことを」伝えるのか、「そのことを通して」伝えるのか。わたしは後者。それが「かわいそう」ではない伝え方につながる。GIDは特殊な問題ではない。
ある部落の生徒→「講演を聴いているまわりの子どもたちの顔を見た時に、このクラスなら言えると思った」
最後に写真
医療とのかかわりはぜんぜん言いませんでした。
たんなる教員のぼやきやけど、それを知った上でどう連携をとるかを一緒に考えていきましょう。
今年の最大のヒットは
病院に連れて行ったら病気になり、交流会に連れて行ったら変態になる。
でした。