大人も子どもも、生きている限り、得るものがあり、失うものがある。でも、子どもの間は失うものよりも得るものの方が大きい。だから、あたかも「得ている」かのように感じてしまう。
それが大人になると、得たひとつひとつのものが少しずつ膨らんでいくし、数も増えていく。やがて、あたかも両の掌いっぱいのビー玉みたいになる。
そのまま立ち尽くしていればこぼすこともない。でも、やはり一歩踏み出してしまう。そして、バランスを崩した掌からビー玉はこぼれていく。
新しいビー玉もまた掌に乗ることもある。でも、こぼれていったビー玉の中には、掌で大切に膨らませていったものもあったりする。ふと、とても大切なビー玉をこぼしてしまったことに気づく。
それを拾うか諦めるか。
拾うためには両の掌いっぱいのビー玉を片方に移さなくちゃならない。当然乗りきらないからこぼれてしまう。それでも拾うのか、それとも諦めるのか。
カテゴリー: 考え
授業に必要なテンション
朝、駅までの自転車が寒いくらいの季節になりました。でも、なぜかサンダル履き(笑)。
なんしか眠いです。昨日帰ったのは早かったんだけど、たぶんそういう問題じゃないですね。さらに、最近の自分の環境の変化に追いつくのに必死で、しかもその環境の変化をもたらしているのは自分であることもわかっていて(笑)、そんなこんなで、少々心が疲れ気味です。
そんな時は授業なんてしたくないのが当たり前なんですが(笑)、そういう時のほうが
「あ、今日の授業、できたんちゃうん?」
と思ったりすることがあります。
たぶん自分のことでいっぱいいっぱいで、授業がその逃げ道というか、ガス抜きの場になっているのかな。だから、かえって授業がていねいな気がします。しかも、
「生徒のため!」
みたいな押しつけがましい気持ちもなくて、ただ自分のために授業をしている。
まぁ、一歩間違えるとキレてしまいそうなんですけど、キレる元気もなければ安全です(笑)。
てことで、こんなテンションがちょうどいいんだろうけど、このテンションを維持し続けるのはきついな(笑)。
誰かに伝えたいことがある
放課後、ある数学の教員がやってきて、
「うちのクラスの生徒がね」
とうれしそうに話しかけてきました。
「なあに?」
「sinとtanは相思相愛だって言うんです」
「ふんふん」
たしかに形で覚えるときsinの「高さ」は下向きになってtanの「高さ」は上向きです。向き合ってるから相思相愛なわけね。
「でね、cosはtanに片思いなんだけど、想いが届かないんですって!」
あぁ、健気なcosタン!
「cosタン萌え〜やな!」
「ハイ!」
なんでも、その教員、その感動を、どうしても誰かに伝えたかったらしいです。その相手になれてしあわせでした。
わたしも誰かに伝えたい!
告知
今日は地元の人権研究会の定例会議。なかでもメインは発達障害の子どもたちのサポーターをしている人の講演です。
いくつかの事例を示しながら、どのように対処をしてきたかという話を聞かせてもらいました。
考えてみると、「発達障害とは」みたいな話を聞く時代から、ケーススタディの時代に移行したんですね。
その中で、発達障害である(であろう)ことを告知するかどうかという議論が少しあって、かなり興味深かったかなと。
ケースワーカーの方は、高校段階だと告知をした方がいいという考え方をされまさていました。
「病名という意味ではドクターが診察をしてすることですが」
という留保をされていましたが…。
つまり、「自分の特性を理解したほうが、いろんなことに対処する方法が習得しやすい」ということなんですね。
わたしは深くうなずいてしまいました。
でもこれ、ケースとしては同一には考えられないだろうけど、部落や在日のことも同じかなと思ったりもします。
この手の話って「世間」から入ってくる情報は基本的には「マイナス」のバイアスがかかることが多いかなと。となると、大きくなってから自分が「それ」と知ると、自己否定感からのスタートになるんじゃないかと。
もちろん「タイミング」ってのはあるんでしょうけど、タイミングは逃すと二度とやってこない。じゃあ逃す前にやった方がリスクは低いんじゃないかと思ったりするのですが…。
少なくとも、自分が「それ」とわかっている人はつきあいやすいなぁ。
乖離
お座敷のあと、感想を読ませていただくことがよくあります。とてもうれしいです。大人の感想はもちろん、子どもの感想の中には「生活」をまるごと出してくれるのがあったりして、すごく勇気づけられます。
が、一方、すごく悩みます。
わたしのところに「お座敷」の口がかかったのは「たまたま」だと思ってます。なにか確固たるものがあったわけじゃない。それどころか、わたしは勉強嫌いで、めんどくさがりで、話の内容もブレまくりです。でも、それ以来たまぁに声をかけてくださる方がおられます。でもまぁ、話すスピードで考える間を与えないだけのことのような気がしてる昨今です。
ところが、「お座敷」って話す側と聞く側の間にアンバランスがあるんですよね。で、きちんと聞こうとされる方であればあるほど、そのアンバランスは大きくなる。極端に言うと、わたしがあたかも確固たるものを持っているかのように誤解をされるわけで。
そこで、「わたし」と感想の間に乖離が起きる。
これがこわい。
なにがこわいって、グダグダになっても、それすらプラスに評価されてしまう可能性すらある(笑)。やばいです。とにかくそのスパイラルをどこかで断ち切りらなきゃ。
過小評価は人をダメにするけど、過大評価もまた人をダメにする。等身大、等身大。
無理なガマンはよくない
で、家に帰ったら、パートナーは下の子どもに絵のアドバイスをしています。が、晩ごはんの準備はゼロ_| ̄|◯。
しかたないのでおふろに入って上がってきたら、ようやく準備開始。これは手伝わねば!と思って
「なんかやることある?」
と聞くと、パートナー曰く。
「ビールでも呑んでたら」
…。
呑もう(笑)。
いや、今までは
「がまんする」
って言って、結局早く呑みたくてイライラしてたんだけど、呑んじゃったらイライラしないものですねぇ。パートナーがパタパタご飯の準備をしているのを見ながらビールを呑んでいると、なんとなく
「こんな世界があったんだぁ」
と、ホンワカしてしまいました。なので、自然と
「手伝うわ」
と体が動きました。
なんにしろ、無理なガマンはいろいろよくないな、と(笑)。
トンネルを抜けると…
特に何もなく、淡々とした生活があるだけでした。
でも、その淡々とした生活を大切にしながら生きることにこそ意味があるのかもしれないと思ったりもするわけです。
そして…
午前9時56分。長い長いトンネルを、突然抜けました。
昔飼っていたネコのこと
最近ふと、昔飼っていたネコのことを思い出しました。
当時住んでいたアパートにはベランダがあって、そこからネコをつるすまねをしたら、えらい勢いでわたしから逃げ出して、そのまま玄関から外へ飛び出していきました。
その日から、家に帰ったら玄関の引き戸を薄く開けておく日がはじまりました。でも、なかなか帰ってきません。一週間ほどたって、もう帰ってこないのかなぁと思った時、
「にゃぁ…」
と情けない声がしました。
「ありゃ、帰ってきた…」
しばらくしてトイレをみると、草だらけのうんちがしてあります。まぁ飼い猫だから、動くものを食べられずに、草を食べて生き延びていたんでしょうね。
「情けないやつやなぁ」
と、ふと笑いがこみあげてきました。
その夜、布団を敷いて寝ていると、いつもの通り、ネコは
「にゃぁ」
と言いながら、わたしの横に潜り込んできました。
その日から、何かが変わったかというと、別に何も変わらないいつもの生活がもどってきただけでした。
あの一週間、ヤツはどこで何をしていたんだろう。聞きたくても答えてくれませんでした。ネコですからね。でもまぁ、ヤツは帰ってきた。
ヤツとは、わたしがパートナーと結婚してからもずっと一緒に暮らしていました。あの当時、誰よりも長い時間を一緒に暮らしたのはパートナーでもなく、子どもでもなく、ネコでした。それから数年たって、ネコは死にました。
気がつくと、いま誰よりも長く一緒に暮らしているのはパートナーなんだなぁと、ふと思いました。
触った…
友だちとメールのやりとりをしているうちに、ふと「100万回生きたねこ」の話が出てきて、いきなりノックアウトを喰らってしまいました。
あの絵本、はじめて読んだ時、思わず泣いてしまいました。でも、なぜ涙が出てきたのかはわかりませんでした。で、ググって見たら、こんなところがありました。思わず読んでしまいました。電車の中なのに大泣きをしてしまった^^;;。
いまならなぜ涙が出てくるのかわかります。
いろんな波が重なった今日でした。