お座敷のあと、感想を読ませていただくことがよくあります。とてもうれしいです。大人の感想はもちろん、子どもの感想の中には「生活」をまるごと出してくれるのがあったりして、すごく勇気づけられます。
が、一方、すごく悩みます。
わたしのところに「お座敷」の口がかかったのは「たまたま」だと思ってます。なにか確固たるものがあったわけじゃない。それどころか、わたしは勉強嫌いで、めんどくさがりで、話の内容もブレまくりです。でも、それ以来たまぁに声をかけてくださる方がおられます。でもまぁ、話すスピードで考える間を与えないだけのことのような気がしてる昨今です。
ところが、「お座敷」って話す側と聞く側の間にアンバランスがあるんですよね。で、きちんと聞こうとされる方であればあるほど、そのアンバランスは大きくなる。極端に言うと、わたしがあたかも確固たるものを持っているかのように誤解をされるわけで。
そこで、「わたし」と感想の間に乖離が起きる。
これがこわい。
なにがこわいって、グダグダになっても、それすらプラスに評価されてしまう可能性すらある(笑)。やばいです。とにかくそのスパイラルをどこかで断ち切りらなきゃ。
過小評価は人をダメにするけど、過大評価もまた人をダメにする。等身大、等身大。
カテゴリー: 考え
無理なガマンはよくない
で、家に帰ったら、パートナーは下の子どもに絵のアドバイスをしています。が、晩ごはんの準備はゼロ_| ̄|◯。
しかたないのでおふろに入って上がってきたら、ようやく準備開始。これは手伝わねば!と思って
「なんかやることある?」
と聞くと、パートナー曰く。
「ビールでも呑んでたら」
…。
呑もう(笑)。
いや、今までは
「がまんする」
って言って、結局早く呑みたくてイライラしてたんだけど、呑んじゃったらイライラしないものですねぇ。パートナーがパタパタご飯の準備をしているのを見ながらビールを呑んでいると、なんとなく
「こんな世界があったんだぁ」
と、ホンワカしてしまいました。なので、自然と
「手伝うわ」
と体が動きました。
なんにしろ、無理なガマンはいろいろよくないな、と(笑)。
トンネルを抜けると…
特に何もなく、淡々とした生活があるだけでした。
でも、その淡々とした生活を大切にしながら生きることにこそ意味があるのかもしれないと思ったりもするわけです。
そして…
午前9時56分。長い長いトンネルを、突然抜けました。
昔飼っていたネコのこと
最近ふと、昔飼っていたネコのことを思い出しました。
当時住んでいたアパートにはベランダがあって、そこからネコをつるすまねをしたら、えらい勢いでわたしから逃げ出して、そのまま玄関から外へ飛び出していきました。
その日から、家に帰ったら玄関の引き戸を薄く開けておく日がはじまりました。でも、なかなか帰ってきません。一週間ほどたって、もう帰ってこないのかなぁと思った時、
「にゃぁ…」
と情けない声がしました。
「ありゃ、帰ってきた…」
しばらくしてトイレをみると、草だらけのうんちがしてあります。まぁ飼い猫だから、動くものを食べられずに、草を食べて生き延びていたんでしょうね。
「情けないやつやなぁ」
と、ふと笑いがこみあげてきました。
その夜、布団を敷いて寝ていると、いつもの通り、ネコは
「にゃぁ」
と言いながら、わたしの横に潜り込んできました。
その日から、何かが変わったかというと、別に何も変わらないいつもの生活がもどってきただけでした。
あの一週間、ヤツはどこで何をしていたんだろう。聞きたくても答えてくれませんでした。ネコですからね。でもまぁ、ヤツは帰ってきた。
ヤツとは、わたしがパートナーと結婚してからもずっと一緒に暮らしていました。あの当時、誰よりも長い時間を一緒に暮らしたのはパートナーでもなく、子どもでもなく、ネコでした。それから数年たって、ネコは死にました。
気がつくと、いま誰よりも長く一緒に暮らしているのはパートナーなんだなぁと、ふと思いました。
触った…
友だちとメールのやりとりをしているうちに、ふと「100万回生きたねこ」の話が出てきて、いきなりノックアウトを喰らってしまいました。
あの絵本、はじめて読んだ時、思わず泣いてしまいました。でも、なぜ涙が出てきたのかはわかりませんでした。で、ググって見たら、こんなところがありました。思わず読んでしまいました。電車の中なのに大泣きをしてしまった^^;;。
いまならなぜ涙が出てくるのかわかります。
いろんな波が重なった今日でした。
向きあうこと
昨日の分析大会を受けて、ずいぶんいろいろと考えさせられました。なかでも、わたしには「向きあいかた」が足りないなと。自分と向きあうこと。他者と向きあうこと。それぞれのことを通して、うすうす気づきはじめている根元的なものがきっとわかるはずだし、「中2(笑)」からの成長もはかれる気がします。
とりあえず、ずっと逃げ続けてきた「あること」と向きあおうと思いました。今日はその第一歩。向きあえば、とりあえず答えは返ってくる。その答えは「ひるんでしまうほど」の内容を伴っているんだけど、またそこから逃げずに向きあう以外方法はない。
そんなことを感じた一日でもありました。
失うことで得ることがある
まぁ、タイトル通り。でも、ほんとうはなにも変わっていない(笑)。
なんでもありやな…
ついったをウォッチしていたら、「大津市教育長殴られ軽傷 殺人未遂容疑で大学生逮捕」なんていうニュースがありました。まぁ、教育委員会不要論が権力側から出てくる昨今ですから、それに乗っかって出てきたのかな。それにしても単純や…。
きっとこの大学生
「自分は正しい」
と思っているんだろうなぁと。「正義の味方」ってヤツでしょうか。
かつての正義の味方には「葛藤」があったんだけど、今の正義の味方はどうなんだろう。見てないからわからないけど…。それにしても、もう、なんでもありやなぁと。
まぁ、すべてを「悪か善か」「敵か味方か」で判断する昨今だからなぁ…。てか、そんな時代がめぐってきたんだろうなぁ…。
「日常」ってなんだろう
起床5時半。やかんふたつとフライヤーに点火。トイレに行ってからコーヒー豆を挽きつつ、お茶っ葉をお茶パックにつめる。揚げ物はコロッケと春巻。もう一品を電子レンジに放り込む。コーヒーを淹れて、だし巻きをつくりおえたころには、FMは天気予報をはじめる。パートナーを起こしに行って、ついでに今日着る服を持って降りる。朝のコーヒーとパンを食べながら、パートナーと少し話。
6時25分に家を出る。いつものバス停にはいつもの人がいる。いつも横断する道にはいつも通りすぎるバスが通る。いつもの場所に自転車を置いて、いつもの電車に乗る。
乗り換えのホームでは、いつもの場所の先頭に並ぶ。滑り込んできた電車のいつもの座席に座る。まわりをみると、名も知らぬいつもの人たちがいる。
職場まではいつもの道を歩く。
いつもの時間に職場に着いて、同僚といつものように挨拶を交わし、パソコンに火をいれる。職員朝礼があり、校門の立ち番があり、授業がある。
仕事が終わったら、駅に向かい、家に帰る。
お風呂にはいって、ビールを呑んで、晩ごはんを食べて、ちょっとテレビを見て、食器のかたづけを手伝って、歯を磨いて寝る。
これが日常です。
朝が来て、昼が来て、夜が来る。そして陽は昇り、陽は落ち、そして陽はまた昇る。季節はめぐり、再び季節がめぐって来たとき、ひとつ歳をとる。
ただその繰り返し。
わたしの意思のおよばないところに日常がある。
登下校中に知らない生徒とあいさつをする。授業中にうれしいことがある。小さなひとつひとつのできごとを、日常の中から見つけ、そこに感情の変化を探す。日常の中に非日常を見つける。
イレギュラーを起こしてみる。いつも立って電車を待っていたところを、しゃがんで待ってみる。風景が変わる。非日常になる。
イレギュラーがやってくる。飲み会がある。人と会う。会議がある。交流会がある。おべんきょがある。お座敷がある。原稿がある。非日常がやってくる。
しかし、それらも繰り返されるなかで、次第に馴染みのある風景になり、日常へと組み込まれていく。日常が次第にふくれあがる。ふくれあがった日常に「差違」をつけるために、日常のひとつひとつに「エントリ」をつける。でも、それら「エントリ」は非日常のふりをした日常でしかない。
「エントリ」はふくれあがり、時としてはじける。あるときは「エントリ」を消し、あるときは消えていく。その瞬間は非日常になる。しかしやがて、そこにあらわれる日々も、やはり日常でしかなくなる。
バランスがとれていることが日常ではない。バランスが崩れることが日常であり、バランスを保ち続けることが日常となる。
おそらく、だれもが考え、すでに解決してしまっているであろう「日常」について、いまごろ考えているわたし。