氷って、いったん溶けはじめると、意外なほどの速度で溶けていくのかな。
カテゴリー: 考え
ふと思った
通勤途中、歩きながら、ふと「生きよう」と思いました。まぁ、それだけです。
いろいろ考えるなぁ
今日は同僚の結婚式です。
パートナーからは
「結婚式は発展していくためにとてもいいからね」
と言われて送り出してもらいましたが、なんか複雑な気持ちです。
もちろん、同僚のことは精一杯祝いたいし、それはそれでいいのですが…。
基本的に結婚式っていろいろ考えてしまうんですよね。いや、ジェンダー的にどうかということももちろんあるんですが、それ以上に、やはり自分のこと、あるいはパートナーとわたしとの関係を考えてしまうんですよね。それが少ししんどくて、少々足どりが重いです。そうそう、靴が窮屈なのもありますけどね(笑)。
会場に到着したら、知りあいが誰もいません。まぁええです。ひとりは慣れています。持ってきたプリント*1を読みましょう。と、同僚たちがやってきました。
そうこうするうち、結婚式スタート。同僚は牧師の子どもなので、当然のことながらキリスト教式です。う〜ん、礼拝は久しぶりやなぁ。父親のお葬式以来かな。で、やってきました、お定まりの式文。
あなたはその健やかな時も、病む時も、この人を愛し、敬い、慰め、助け、そのいのちの限り、堅く節操を守ることを約束しますか。
あー、そう言えば、21年前にこれにたいして返事をしたっけなぁ。
これ、返事をするのは簡単ですけど、実践するのはとてもむずかしいです。上り調子の時はいいんですけど、下り基調になると、ついつい
「もーええわ」
となってしまう。あるいは、上りでも下りでもない、淡々とした日常において、それでも「愛し、敬い、慰め、助け」続けることって、実は常にそのことを意識し続けること、あるいは相手の存在を意識し続けることが必要になります。なかなかそのことがむずかしい。
はたして自分は、過去どうだったのか。今どうなのか。そしてこれからどうあろうとしているのか。
まぁ結婚式って、こういうことを考えさせるためにあるのかもしれませんが、個人的にはそこにまんまとはまってしまうあたりが情けないです^^;;。
そんなことを考えながら、パーティー開始。
いろいろはしゃいでいる人たちを見ていると、なんとなくアウェイ感がつのってきます。でもまぁそれでいいんでしょうね。たぶん、そういう年齢であり、そういう時期なんだと思います。考えることはやめたくありません。
そんなこんなで、無事パーティー終了。その後、京都に移動して、もう少し呑み。さらに夕方から呑みに行く猛者もいましたが、わたしはフィニッシュです。さぁお家に帰りましょう。
でも、ほんとうに「考える」という意味で、いい結婚式に出させてもらいました。感謝ですね!
*1:金曜日のおべんきょのネタ
ある試み
現在、1年生はわたしの授業を週6時間受けています。ということは、ある曜日は必然的に1日2時間あるわけです。こいつをどうするか。
今のクラス、すごくおとなしくて、それはそれでいいのですが、もう少し、いい意味での活気がほしい。そのためには子どもたちを「学び」を基盤にしてつなぐ仕掛けが必要かなと。
とうことで、ここしばらくプリントを渡して図書館に放り込んで「グループ学習」をさせています。で
「教えあえ」
と。さらに言えば
「教えてくれ」
と言えと。
この「教えてくれ」を、授業中に友だちに言うのはけっこうハードルが高いみたいです。いや、「活発な子(別名ヤンチャ)」はけっこう
「教えてくれや!」
って言うんですが、おとなし目の子はなかなか言いません。まぁ、言わない子を「おとなし目」と言うわけですが(笑)。
でも、それが言えるクラスは、過去の経験からすると、たぶん最低点があがります。
まぁ、グループによってはみんなが「教えてな子」だったりすることもあって、なかなかきついのですが、残り半年、ガマンして続けようかなと。
こころをばなににたとえん
かたくなな心も、実は凍った心なだけで、もっと大切なことの前では案外溶けちゃうのかもしれないと思った朝…。
大切なのはわかるけど…
今日の放課後は「ソーシャル・スキル・トレーニング」の研修会。というか、練習会。
子どもたちに「ソーシャルスキル」を身につけさせるための授業をやる、と。で、そのリハーサルをするらしいです。
まぁ、それはそれでいいんですがね…。
なにがいやって、ロールプレイです。あのウソくささ(TT)。「傾聴の練習」とかいうヤツですが、もう、赤面してしまいます。てか、ほんとうに聞かなきゃならない時は、いろいろやっているわけで、それを「練習せよ」と言われてもなぁ。さらに、話をした方に「どんな感じでした?」とか聞かなきゃならない。そんなん、答えられないですよね。
てことで、
「あー、いやだ」
と思いながらの練習会でした。
でも、それは表面的なことです。
ほんとうは、こういうことを「特設の授業」でやらなきゃならないところにあります。なぜなら、SSTって、普段の私たちの子どもたちとの会話の中から身につけさせていくことだと思うんですよね。一つのことを身につけさせようと思うと、「それ」を語るんじゃなくて、「他のこと」をしている最中に提示していくことが必要なんかないかと思うのです。
それは人権も同じ。
「人権」を伝えようと思ったら「人権の特設授業」では、ほんとうは伝わらない。たとえば授業の時、廊下での会話の時、掃除の時、あらゆる学校活動の中に織り込んでいかないと伝わらない。それと同じことを感じるわけです。
ふだん生徒と話をできない教員が、突然そのときだけ「傾聴」とか言っても、みえみえです。でも、特設の授業は、そういうのを要求してしまう。そのムズムズ感が、実は一番苦手なんですよね。
とか言いながら、我が身に跳ね返ってくるなぁ…。
大人になること
大人も子どもも、生きている限り、得るものがあり、失うものがある。でも、子どもの間は失うものよりも得るものの方が大きい。だから、あたかも「得ている」かのように感じてしまう。
それが大人になると、得たひとつひとつのものが少しずつ膨らんでいくし、数も増えていく。やがて、あたかも両の掌いっぱいのビー玉みたいになる。
そのまま立ち尽くしていればこぼすこともない。でも、やはり一歩踏み出してしまう。そして、バランスを崩した掌からビー玉はこぼれていく。
新しいビー玉もまた掌に乗ることもある。でも、こぼれていったビー玉の中には、掌で大切に膨らませていったものもあったりする。ふと、とても大切なビー玉をこぼしてしまったことに気づく。
それを拾うか諦めるか。
拾うためには両の掌いっぱいのビー玉を片方に移さなくちゃならない。当然乗りきらないからこぼれてしまう。それでも拾うのか、それとも諦めるのか。
授業に必要なテンション
朝、駅までの自転車が寒いくらいの季節になりました。でも、なぜかサンダル履き(笑)。
なんしか眠いです。昨日帰ったのは早かったんだけど、たぶんそういう問題じゃないですね。さらに、最近の自分の環境の変化に追いつくのに必死で、しかもその環境の変化をもたらしているのは自分であることもわかっていて(笑)、そんなこんなで、少々心が疲れ気味です。
そんな時は授業なんてしたくないのが当たり前なんですが(笑)、そういう時のほうが
「あ、今日の授業、できたんちゃうん?」
と思ったりすることがあります。
たぶん自分のことでいっぱいいっぱいで、授業がその逃げ道というか、ガス抜きの場になっているのかな。だから、かえって授業がていねいな気がします。しかも、
「生徒のため!」
みたいな押しつけがましい気持ちもなくて、ただ自分のために授業をしている。
まぁ、一歩間違えるとキレてしまいそうなんですけど、キレる元気もなければ安全です(笑)。
てことで、こんなテンションがちょうどいいんだろうけど、このテンションを維持し続けるのはきついな(笑)。
誰かに伝えたいことがある
放課後、ある数学の教員がやってきて、
「うちのクラスの生徒がね」
とうれしそうに話しかけてきました。
「なあに?」
「sinとtanは相思相愛だって言うんです」
「ふんふん」
たしかに形で覚えるときsinの「高さ」は下向きになってtanの「高さ」は上向きです。向き合ってるから相思相愛なわけね。
「でね、cosはtanに片思いなんだけど、想いが届かないんですって!」
あぁ、健気なcosタン!
「cosタン萌え〜やな!」
「ハイ!」
なんでも、その教員、その感動を、どうしても誰かに伝えたかったらしいです。その相手になれてしあわせでした。
わたしも誰かに伝えたい!
告知
今日は地元の人権研究会の定例会議。なかでもメインは発達障害の子どもたちのサポーターをしている人の講演です。
いくつかの事例を示しながら、どのように対処をしてきたかという話を聞かせてもらいました。
考えてみると、「発達障害とは」みたいな話を聞く時代から、ケーススタディの時代に移行したんですね。
その中で、発達障害である(であろう)ことを告知するかどうかという議論が少しあって、かなり興味深かったかなと。
ケースワーカーの方は、高校段階だと告知をした方がいいという考え方をされまさていました。
「病名という意味ではドクターが診察をしてすることですが」
という留保をされていましたが…。
つまり、「自分の特性を理解したほうが、いろんなことに対処する方法が習得しやすい」ということなんですね。
わたしは深くうなずいてしまいました。
でもこれ、ケースとしては同一には考えられないだろうけど、部落や在日のことも同じかなと思ったりもします。
この手の話って「世間」から入ってくる情報は基本的には「マイナス」のバイアスがかかることが多いかなと。となると、大きくなってから自分が「それ」と知ると、自己否定感からのスタートになるんじゃないかと。
もちろん「タイミング」ってのはあるんでしょうけど、タイミングは逃すと二度とやってこない。じゃあ逃す前にやった方がリスクは低いんじゃないかと思ったりするのですが…。
少なくとも、自分が「それ」とわかっている人はつきあいやすいなぁ。