新たな半世紀へ

にしても、朝起きて
「51歳かぁ」
と思ったのですが…。
考えてみると、いままで半世紀を生きてきたんですね。てことは、折り返し点です。今日から新たな半世紀に向けてスタートを切るんだなって思いました。しかも、前半の半世紀の最初の20年は、まぁたいしたことのない20年でした。それに比べて、後半の最初20年は、さすがにあの頃よりはマシでしょう。
うん。
「しでかしたろ!」
っていう気がムクムク起こってきましたよo(^^)o

やっとわかった

解散地点で、大学時代からお世話になっている先輩から
「呑みに行こう」
と誘われて、
「じゃあ」
とついていくわけです。これ、30年前からパターンが変わってません(笑)。
で、呑みながら聞かせてもらったのが、まさに「京都の運動史秘話」でした。そして、わたしがまさにその渦中にいたことを、今ごろ知りました。いやぁ…。
わたし、完全にその先輩のオルグを受けていたんですね。でも、そのオルグはどこかのグループへのオルグではありません。まさに「運動」へのオルグだったんです。だから、わたしが表面上「運動」から離れていても、その先輩は温かい目で見守ってくれていたんですね。そして、おそらくオルグは成功しています。
さらに、どうやらうちの父親は、そういうオルグを、おそらくわかっていながら放っておいた。今そのことに気づいて、驚きます。
まさに、父親に出会わせてもらった「運動」にわたしは育てられ、今ここにいる。
そんなことがおぼろげながらにわかった夜、そして、51歳のスタートの日にふさわしい一日でした。

ちなみに家に帰って
「ごめん、帰ると言いながら、つい呑んじゃった」
とパートナーに言ったら
「どうせそうやろうと思ってた」
と笑われてしまいました^^;;。

思索はめぐる

わたしは他者との間にどのような関係を求めているのかなぁ。
いろんな関係がありますね。
「似たもの同士」「違いを豊かさに」
「ファイトをもらえる」「癒される」
「思索が深まる」「思索なんてどーでもよくなる」
うーん…。
「似てる」と思って仲よくなって、いろいろ話をしているうちに「違い」に気づいたり、「違う」と思って仲よくなったのに「あれ?一緒じゃん」と思ったり。「ファイトをもらえる!」と思って仲よくなったのに、疲れた時に「癒しあう関係」になったり、「癒される」ことで「ファイト」がもらえたり。「思索が深まるなぁ」と思っていたのに「そんなんえーしo(^^)o」ってなったり、「ドキドキッ」からはじまって、「えー!この人、こんなこと考えてたんだ!刺激的」ってなったり。
関係が変化することで関係が切れたり、関係が変化することで関係が豊かになったり。「関係が深まったo(^^)o」と思った先に突然関係が切れたり、「関係が切れた(T_T)」と思ったところから再びゆるくつながったり。
何が正しくて何が間違っているのか、何を求めているのか求められているのか。そんなことを考える必要があるのか、そもそも考える必要がないのか。
さっぱりわかりません。
わからない時は…。
考えるのをやめるのもまたひとつの方法かもしれません。井上陽水も言っています。
でも。
わたしの場合、思索はぐるくるめぐります。
とりあえず、もつれた紐を少しずつほぐしていきましょう。
ひとつずつ「カード」を出しあって、ひとつずつ確認をして、一枚一枚に笑ったり泣いたり考えたりしながら確認をする。そうすれば、やがておぼろげながらに浮かんでくるものがあります。
迷った時は、そういう作業が、実は大切なのかなと。

息苦しい

兵庫県小野市の「生活保護のギャンブル規制」の話。
なんとも息苦しいなと。なにより「通報の責務」ってのがイヤだなと。
試験監督やっていて、一番にらみを利かすことができる場所は「教室のうしろ」なんですよね。実は、うしろにいたら、寝ていてもにらみをきかすことができます。
つまり、大切なのは「見られている」という事実ではなく「見られているかもしれない」という警戒心というか恐怖心というか、そういうものを与えることなんです。
それと同じにおいを感じます。
でも、自分のすべての行為が「見られているかもしれない」と感じさせられるなんて。まさに監視社会です。そして、市民が市民を監視する時、「善意の市民」こそが監視をするんですよね。同時に「通報される人」を「非市民」へと定義づける。そして、その行為に疑いの余地はない。なぜなら「善」と信じているからです。
ちなみに、監視社会は監視する側も実は監視されている。「あの人、知っていて通報しなかった」みたいなプレッシャーが出てくる。
これ、かつては「癩患者*1」の隔離政策の時と同じかなと思います。
てか、すでに外国人には「改定入管法」以降、「就労条件」にかかわって、この手の監視ははじまっているんですけどね。
なんしか息苦しいな。
「市民」ではあるけど、「通報」なんてしたくないしされたくもない。
ちなみにいまは「生活保護受給者バッシング」の時期ですからそこが叩かれていますが、そのうち教員にも来るんじゃないかと。
「聖職者たる先生が、平日呑んでた」
と通報されて処分とか。そんなことになったら生きていけないじゃないですか(T_T)。

*1:ここはあえて漢字です

手放すな!

今日の授業のはじめ、宿題をあてました。すると
「わからない」
と。いや、わからないのはまったくokです。それをわかるようにするのが仕事ですから…。なので、
「昨日言ったように、○○しようか」
というと
「へ?」
という顔。なので
「「テキストの余白に○○って書いてね」って言ったけど、書いてある?」
というと
「書いてない」
と。
「じゃぁ、きのう「○○だよ」って言ったけど、覚えてる?」
「覚えてない」
書くこともせず、覚えることもしない。あぁ、わたしはこの一年間、この子たちになにを伝えてきたのかなと思いました。
わたしは基本的に事細かにメモの指示をします。なべなら、わたしの勤務校の子どもたちはなにをメモすべきで、なにはメモしなくていいということを身に着けずに、いままでの学校時代を過ごしてきたからです。
それをしなかったということは…。てことで、お説教(笑)です。

君たちは、結局わたしのことを無視し続けてきたということなんだ。
無視するとはどういうことか。
例えば、駅で寝ているホームレスの人を見た時、君たちは無視をするのか。
わたしはなにもできないけど、せめてその人が生きているかどうかだけは気にする。ケガをしているかどうかだけは気にする。もしも大丈夫であれば、なにもできない自分を情けなく思いながらそこを立ち去る。でも、もしもケガをしていたら、きっと声をかける。
無視をするということは、その人の存在を自分の中で抹殺することなんだ。そして、わたしはどうしてもそれはできない。でも、君たちはそれをしてきた。そしてそういう行為は、実はとても人を傷つけることなんだ。
わたしは、君たちがわたしのことを無視していたということに気づいて、とても傷ついた。

続けて…。

君たちが無視をする時、きっとその前に「わからない」と思って、あきらめるんだと思う。でも、わからないからといってあきらめるのはやめよう。わからないことを手から離すことはやめよう。
残念ながら、君たちの「わからない」と、わたしの「わからない」には違いがある。わたしの「わからない」には引っかかりがある。もしも引っかかりがなくても、必死で爪を立ててひっかかりをつくる。
でも、君たちはその引っかかりをつくる力が弱い。引っかかりがない状態では、「わからない」ことをいくら考えてもわかるはずがない。それはわからないんだ。引っかかりがあるから、「わかる」へと変わっていく。その引っかかりをつくる手助けをするのが私たち教員なんだ。でも、「わからない」を手放した瞬間、その引っかかりはなくなる。
だから、絶対に手放さないこと。

おそらく、これがこの子どもたちに伝える、わたしの最後のメッセージになるのかな。
まぁ、来年また教えるかもしれませんけどね^^;;。

で、語った

「あの人たち」のこと。「あのできごと」のこと。
なぜ自分はそのことで傷つくのか。なぜ自分はそのことにとまどうのか。
数学も大切だけど、ほんとはもっと大切なことがある。でなければ、「わたし」が生徒の前に立つ意味がない。
教員という権力性を持ちながら、そのことに自覚的でありながら、やはり語らざるを得ない。
ふだんは「数学」に乗せて語る。しかし、本当に必要なときは、「言葉」に乗せて語る。語ること。あきらめないこと。
そのために教員になったんだ。

透明性と不透明性とか

この時期になると「評価」がガチの課題になってきます。
「いや、そんなもん、年度当初に決まってるやろ!」
という向きもありましょうが、で、確かにそうなんですが、そうはなかなかいかないところがありまして。やはり、「妥当性」というか「現状追認性」というか、そんなものを考えながら、毎年修正していくものなんです。
ただ、年度当初は忙しいんですね。で、みんなが納得する必殺の言葉が出てきます。
「まぁ、歩きながら考えましょか」
ただ、いつも歩きすぎてゴール直前に
「どうしよう(T_T)」
となる。
で、今年はそれを避けるべく、普段よりも半月早く提案をしてみたわけです。
で、なんとなくわかったことは…。

全体の総枠は、おそらくは透明性と客観性をもっていないといけないのかな。まぁ、「その客観性の中身を客観的にあらわせ」と言われたら「ごめんなさい」なんですが(笑)。
でも、最後の最後に、ほんの少しだけ主観性というか不透明性というかグレーゾーンというか、そういうものがあってもいいんじゃないかと思うのです。
今日の論議でも
「ここの基準はどうします?」
みたいな話が出た時、わたしともうひとりか
「そこはグレーゾーンでいきましょ」
と発言したわけで。
グレーゾーンがあるってことは、そこの責任は担当者がとるということです。担当者が担当する生徒から逃げないために、やはりこの感覚は大切だと思うんですよね。

TLに流れてくる

夜、ふとついったを見たら、TLに延々とさまざまなつぶやきが流れてきました。そんなつぶやきを見ながら、自分に何ができるのかを考えました。
なにより、「あの人たち」を育ててきたのはわたしたちがおこなっている「教育」の中にあるということ。この感覚は、もしかしたら教育に携わるもの特有のものかもしれません。と同時に、教育に携わるものに必要な感覚とも思います。
わたし(たち)にできること。わたし(たち)だからできること。
それを行うときに「教員」という権力を行使しながら行なっているという自覚を持つこと。
そうした矛盾の中にいることを自覚しながら、それでも語ることをやめないこと。

明日がやってくる。

便利さと引き換えに…

今日は、とあるクラスがふたコマ授業があります。で、進度が一段落したので、子どもたちに
「ふたコマ目、どうする?」
と聞くと
「グループ学習」
という子がいたので、それはいいなと(笑)。
てことで、空き時間にプリントつくってプリントアウトして…。できない(T_T)。ネットワークが死んでる…。職員室に行くと、向こうでもバタバタしています。どうやら職場全部が落ちてるみたいです。外へ出られないだけではなくて、隣のパソコンにpingすら届かない。
今どき、ガッコですらすべてがネットワークでつながっています。プリンタはすべてネットワークプリンタ。それこそデータですら「サーバーにいれろ」とか言ってます。なので、こんな事態になると、データにアクセスできなくなるので、みなさんまったく仕事ができなくなります。
ちなみにわたしは「イヤ」とか言ってローカルにデータは保存してますが、プリントアウトできなかったらどうしようもありません。しかたないから、ネットワークプリンタに直接つないでプリントアウトしようかと思ったら、管理者権限がないからドライバが入れられない。
もうね、ガチでだめですよ。
ちなみに、放課後、職場のネットワーカーたちが奮闘して復旧しましたが…。これもねぇ。その人たちが授業中はどもならんという。
システムを大きくしたわりに、管理者へのコストを下げてボランティアに頼ってるからこういうことになるわけで…。
まぁ、うまく動いているときはほんとうに便利なんですが、うまく動かなくなった時はすべてがストップしちゃいます。
あ、ちなみにみなさん、笑って別の仕事をしてはりました。結局ガッコって、メッチャアナログというかローカルというか、そういうところなんだ。
そですよね。プリントつくろうと思ったら手書きでつくればいいわけです(笑)。

ちなみにグループ学習はしましたとも!同じセクションの人にローカルのプリンタをつないでいる人がいて、その人にプリントアウトしてもらいました。
わたしもプリンタ買おうかな(笑)。

さて、今日は「呑み」はない。久しぶりにお家でゆっくりして、さっさと寝ることにしましょうかo(^^)o

網の目を編みなおす

放課後、生徒会室でちょっと雑談です。
ここでも、なんとなくイメージしていたことが、言葉にすることで明確化できました。
おそらく子どもたちの頭の中にある世界って、とてもフラットなんだと思うのです。で、そこに凸凹(差別とか)ができる。とすれば、その凸凹を均せばいい。もしも凸凹に気づかなければ、本人にとってはフラットなまま。だから、なにもしなくてもかまわない。
で、わたしの頭の中にある世界はもともと凸凹にできている。生きることはそのものが凸凹の中にいること。ある場所を均してもそこを均したからこそ別のところに凸凹をつくってしまったりすることもある。まぁ、素人左官業みたいな。もっと端的に言えば、差別と抑圧と権力関係の網目の中に生きている。だからこそ、生きることと網の目を編みなおすことはイコールであるわけです。
で、新しいアクティビティは、その凸凹の中に生きていることへの気づきにしたいなと思っているんです。

イメージを具体化する作業は、たぶんこんな生徒との会話の中から可能になるのかな…。