さぁ、アナリーゼだ!

今年、15年ぶりくらいにちょい勉強できる(はずの^^;;)クラスの授業を担当しています。
うーん。
そりゃ、みんな担当したがるはずです。
いや、楽といえば楽ですが、考えなきゃならないことが、あまりにも違います。
いままでならば、「できないことをどこまで遡って教えるか」がメインだったのですが、それを前提とはしなくてすむわけです。だから、「いま」の内容に集中できます。そしてそれを深く掘り下げることができます。
例えば「a(x-b)y+(x-a)(x-b)」みたいな式があったとして、この式をどう見るか。
いままでなら「あきらめるな」とか「まぁこれはこうなんねん」とか、そもそも扱わないとか(笑)、そんな感じだったわけですが、今年は「これはyの1次式として見るわけで」みたいなことを話せるわけです。
こういうことって、おそらく「なんとなく解ける」から「確実に解ける」へとステップアップするために必要な作業なのかなと思っています。
でもまぁ、そんなことを考えられるのは、もしかしたら、いままで数学が苦手な子らをずっと相手し続けていたからかもしれませんね。

記憶の底

「やらなきゃならないこと」と「やりたいこと」がほぼ一致する時、「やりたいこと」は「やらなきゃならないこと」に憑依する。その時、「やらなきゃならないこと」と「やりたいこと」の間にはさまったことが忘れ去られ、記憶の底へと沈殿してしまう。でも、その澱のようなものこそが、実は「「ほんとうに」やりたいこと」だったりします。
「憑依」されて、そこに生き甲斐や喜びを感じれば感じるほど、澱はそこへと溜まっていく。
そんな澱が、ふいに浮かび上がる瞬間がある。

バーンスタインの指揮を見て、ふとそんなことを考えました。

はじまりに還る

今日は某在日外国人教育関係の会議。と言っても、フルメンバー会議じゃなくて、まぁ、代表者会議みたいなもんでして。
集まってきたメンバーで、今後のあり方について、あーでもないこーでもないとグダグダ話。
で、出てきた結論を聞きながら、思わず
「それって、この会の発足当時の姿と一緒ですね」
って言っちゃいました。
けっきょくそういうことなのかもしれませんね。「はじまり」からスタートして「はじまり」へと還っていく。
少し寂しいですけどね。

でも、わたしたちとは違う新たなとりくみは、あちこちですでにはじまっています。わたしたちのとりくみから得られたものを伝えられたらいいなとは思うのですが、たぶん「新たなとりくみ」の人たちには大きなお世話なんだろうなと思います。
それは、わたしたちのとりくみも出発当時は、たぶん同じだった。当時はわたしはいませんでしたけどね。
そんなものです。
そしてそれは、おそらくは外国人教育関係の運動だけではありません。
そうやって、歴史は繰り返されていく。そして「はじまり」へと還っていく。

ワンプッシュ

4月のこの時期、1年生のちょい元気な子は、教員に対してやたらでかい態度をとります。まぁ、簡単に言えばワンプッシュするわけです。
情けないです。教員はある意味一番安全な相手でして。その安全が確保されている相手に対してでかい態度をとるのは、はっきり言ってチキンです。
で、そんな子どもにこわーいセンセイがガツンとワンプッシュしかえします。
まぁ、それが4月の風物詩ってものです。
でも、なんだかなぁ…。
雄鶏集団のつつきあいですね。

こんなんじゃなかったのに…。

電車の中で聞こえてきた会話。
「○○高校の子ら、かしこそうに見えるわー。わたしら□□高校やもん」
ちなみに、○○高校はわたしの勤務校。そんなことを言われたことはいままで一度もなかったわけでして^^;;。
でも、わたしが持った違和感はそこではありませんでした。
かつて、15年ほど前でしょうか…。京都の高校はそんなに学校間格差がありませんでした。その頃は、こんな発言が子どもたちの間からは出ませんでした。
と同時にA高校の課題はB高校の課題でもあった。個々の学校がいまほど分断されていなかった。
なんか、こういう発言が出る今の状況に違和感を感じるとともに、なんとも言えない絶望感というか拒否感というか、そんなものが起こってくるのをとめることができませんでした。

柔らかでいること

なんか、とある国のとある人が、いらんものを投げるとかなんとか…。このめんどうな時にめんどうなことをせんといてくれよと。
卵の殻は固くなりがちなんですよね。でも、柔らかくてすむならそれでいいとも思います。殻を固くするのはひとりででもできます。でも、柔らかい卵が柔らかいままでいることをひとりでやるのは、とても困難です。
「でも」
とも思います。
誰かがそのひとりにならないと、柔らかい卵の世界は来ないのかもしれません。

約束事は厳密にして緩やかに

あさってある会議へ向けて、年間の流れと年度末の「評価」についての「約束事」をつくれとのお達しがあったのでつくっていたのですが…。
いや、別にわたしがどうこうというわけでなく、ここ数年どんなふうにやってきたかをまとめてみたのですが…。
とてもむずかしいです。
明文化されているものが、実はほとんどない。まさに「歩きながら」考えているんですね。なぜなら、年度当初に「こうなるだろう」という、ある程度の予測のもとに動きはじめるのですが、実際はそうはならないことがたくさんあって、それを修正しながら年度末へ向けて「歩く」ってことが、「約束事」みたいなのをつくると、よくわかります。
で、毎年、年度末にその「修正」のところで論議になる。
ちなみにわたしは「原理主義者」なので、「修正」については常に反対の立場をとります(笑)。去年もその立場でいろんなことがひっくり返るのを阻止しました。もっとも、「原理内」であれば、そこに対してはわたしはとても穏健な人間なので、ゆるゆるなんですけどね^^;;。まぁ、簡単に言うなら「原理からはみ出るほどの特例をつくるのは嫌いだけど、原理そのものの解釈は柔軟に」みたいな^^;;。
で、それを明文化した時、こんな文章になってしまいまして…。
「個々の事例について審議にかけるかどうか審議することを妨げない」
パートナーに見せたら爆笑してました^^;;。

なにができるのか/なにもできないのか

誰か/なにかとかかわろうと、やっぱり思います。それは生徒だったりことがらであったり。
でも、誰か/なにかが、砂漠の砂のようにサラサラと指の間をすり抜けていく感覚を覚えることがよくあります。自分がいかに無力であり無知であるかを、身にしみて感じます。
わたしになにができるのだろう。わたしはなにをわかっているのだろう。なんにもわかっていないわたしが、なにかをできるのだろうか。してもそれはしょせんは自己満足に過ぎないんじゃないだろうか。あるいは「まちがい」ですらあるのかもしれない。
そんなことを考える/感じる今日この頃です。
でも、なぜかかわろうとするのかな。

転んだら起きなはれ
起きたら歩きなはれ

ってのがありましたね^^;;。松下幸之助かな?
そう言えば、かつて
「お前はいらない人間」
と宣言されたわたしが、今日
「(ある局面においてはではあるけど)必要かな」
って言われたんですよね。時代は変わったなと^^;;。
まぁしょせんは無知で無力なわたしであるなら、こけること、まちがえることを前提にして生きればいいのかもしれません。
で、やっぱりその先は

力及ばずして倒れるを辞さないが
力尽くさずして屈するを拒否す

かな。
まだまだ遠い道です。

課題の持つ排他性

ある課題を追っかけた時、とても排他的になるんじゃないかと、ふと思いました。その課題が大切であればあるほど、深刻であればあるほど、排他的になる。
例えば、「A」という課題について話をしている時に、「B」という課題に抵触した発言が出る。その時「その発言、B的にどうよ」てなことが言えるかどうか。「A」がさほど深刻ではない、あるいは、深刻であったとしても、「そのことだけ」ではない場であれば、きっと言えるだろうなと思うのです。ところが、「A」という課題に特化した場であればあるほど、「A」が「深刻であると認知」されていれらいるほど、それは言いにくくなる。「いや、いま、そーゆー話とちゃうし」と。
わたしはそういう場に対して、すごくアウェイ感を感じてしまう。これはしかたないです。わたしがいまだ乗り越えきれていないトラウマと言ってもいいかもしれません。
でも、そのトラウマを持ってよかった。なぜなら、自分はそうではありたくないと思えるからです。
かつて、とあるところでお座敷を頼まれ、開会のあいさつを聞いていたのですが、その中で「○○問題をはじめとし、日本にはさまざまな人権問題が…」なんていうフレーズが出てきました。そんな時、「へい(笑)。「はじめ」じゃない「二の次」の課題でございます(笑)」と言えることって、しあわせだなぁと思います。
「二の次」だからこそわかること、できることがある。わたしはわたしの課題を考える時、語る時、「排他的」にはなりたくない。「いつきさん、それどーよ」「あ、ほんまや。わたしって、まだまたまやなぁ」という、いつもの会話ができるダメ人間でいつづけたいなぁ。

中立なぁ…。

今日は「在日外国人教育セミナー」。テーマは「京都・滋賀の朝鮮学校の現在」。とてもタイムリーなので、いろんな人が来られるかなぁと。でも、考えてみたら、たぶん「いろんな人」も限られた人数の中で取捨選択しながらあちこちに行っておられるので、たぶん吹けば飛ぶような「わたしたち」の集まりには来られないでしょうね。
てことで、ゆるーい警戒感を持ちながらセミナー開始。
ちなみに、「集会をやる」ってことは、わたしにとってどういうことかというと…。

  1. 会場をどこにするか考える
  2. 必要に応じて根まわししたり、申し込みに行ったりする
  3. 名簿用紙をつくる
  4. 最初に行って会場をあける
  5. 必要に応じて案内用の張り紙をしたり、視聴覚機器のセットをする
  6. はじまったら電気のつけ消しとか視聴覚機器の操作をする
  7. 終ったらゴミのチェックをして片づけして部屋を閉めてカギの返却

なんですよね。これ、セミナーなのか交流会なのか玖伊屋なのかわかりませんよね。つまり、中味じゃないってことです。どんな集まりであっても、やることは同じです。でも、そういう感覚を持たない人が多いんですよね…。ま、いいや。

セミナーの中身は…。
支援者の方の話は、いろんな「情報」がつまっていて勉強になりました。あと、朝鮮高級学校の先生の話がおもしろかったですね。スライドを使いながらの話でしたが、生徒たちがとてもいい顔をしています。てことは、楽しいんでしょうね。それから、一生懸命なんでしょうね。とても大切なことだと思います。京都の公立高校であんな顔ができる学校がどれだけあるかなと思うと…。まぁ心許ないですね。

教育の中立性ってなんだろうと、あらためて思います。カリキュラムによって、あるいは思想信条によって補助金を出すか出さないか決めるって、極めて中立的でないなぁと、ふと感じました。つまり、「中立」をどのレベルで考えるかってことです。「中立」に対して一定の審査をするということは、「審査基準」があるわけで、その「審査基準がある」ということそのものが中立ではないということだよなぁということなんです。
いや、「なんでも通しはあかんやろ」という意見はあるとは思うのですが、そういう話ではない。「中立ではない」ということに意識的である必要があるということです。「バイアスをかけて排除してる」ということを意識することが必要であるということです。自分を「正しい」と思わないということです。
単にそれだけのこと。
そんなことを、あの子どもたちの顔を見ながら、ふと感じた。まぁ、それが感じられたという意味で、参加してよかったかな。