新しい動き

昨日参加した、いわゆる「カウンター」ってヤツ。脱原発の運動もそうなんですけど、明らかに従来の運動とは異質です。特に「カウンター」はそれが顕著です。
ひとつは「最小公倍数的な集まり」ってことです。カウンターに参加している人たちは「ヘイトスピーチは許せない」という一点で集まっています。で、集まるにあたって「ヘイトスピーチとはなんぞや」とか「みんなの考えを集約して」とか「基調は」とかいうことはない。それぞれのよって立つ場所は「不問」ということです。
もうひとつは「主催者がない」ってことです。関西の場合は「友だち守る団」というあやしげなグループがありましたが、「より広汎に、(やりたい人は(笑))より先鋭的に」ってことで、発展的に解散されました。
主催者がないってことは、そこでの主導権争いなんていうことは起こりません。というか、もともとが「主義主張は不問」で集まってきているので、たとえ主導権争いやって誰かが勝っても、誰もついていきません。好き勝手やってますから。でも、そんな中で「互いを守る」は、なんとなくあるんですよね。
ちなみに、もちろん主導的な人がいないわけじゃない。それは、その人がそうなろうと思ったのではなく、その人が最も身を粉にして動き、それを見ているまわりの人が勝手にそう思っているだけのこと。で、本人はそこから脱出するべく逃げまわっている。そんな印象を受けます。
でも、まぁ、こんな「行動」、必要なくなればいいんだけどなぁってのは、参加してる人がみんな思っているでしょうねぇ…。

ナンバでいこうよ

毎朝感じるんですけど…。
階段を駆け上がる人の手がこわいです(T_T)。今朝は「空手チョップ(死語)」されるかと思いました。
なんか、最近、大きく腕を振って歩いている人が…。増えたのかどうなのかは知りませんが、気になるようになりました。
これ、階段だけじゃないです。混雑している駅の構内や繁華街の道でもよくおられますねぇ。
「いや、車間距離、もとい人間距離をとればいい」
というご意見もあるかと思います。ごもっとも。
でも、そんな人に限って歩くのが遅いんです。遅いから、腕を振ってスピードを出そうとしている。で、わたしは決して歩く速度は早くないんですが、それでも追いついちゃうんですよね。で、腕や手がぶつかりそうになる。
んー
混んでる時は、腕を振らずに階段登ってくれませんかねぇ…。
あ!ナンバだ!

クールダウンの先

7時半に寝たおかげで、朝はそんなに悪い体調ではありません。まぁ、少し睡いくらいですか。いつもの朝がやって来ました。

にしても、テンションの高さがほんの少し残りながらも、緩やかに日常に向かいつつあります。こんな時、いろいろ考えてしまいます。いや、ずっと考え、違和感を持ち続けてきたことを反芻してしまうというほうが正確でしょうか。

一昨日〜昨日もそうですが、一体何がどうなってるんだろうということです。

わたしは、京都の南部にある小さな町で働く、単なる一高校教員です。なのに、通常教員をしていたのでは決して出会うことがないであろう人たちと、なぜか会ってしまう。一緒に飲んで、いっぱい話をしてしまう。人によっては
「会えてよかった」
と、過分な声をかけてもらえる。
「あなたの近くの学校にいる教員と、わたしはさほど変わらない」
と、いつも思っています。なぜなら、それぞれの人は、それぞれのライフヒストリーの主人公として生きていて、もしかしたらそのライフヒストリーはとても退屈なものです。そして、そこにさほどの差はないと、わたしは考えているからです。例え波瀾万丈に見えるライフヒストリーであっても、平凡な日常はある。そのことを見逃してはならないと思っています。
でも、外から見るとき、つい、ある区切られた「波瀾万丈」に、気をとられてしまう。そして、そういう評価をまわりからされてしまう。一番こわいのは、その評価に自分がからめとられることです。そのことによって、自分のすべてを「波瀾万丈」と勘違いしてしまい、平凡な日常を軽視してしまう。
そして、そのクレバスはいつも足元にあります。

とても大きな「しでかし」をしてしまい、そしてそれがたくさんの友だちの支えでこなせた時、そのクレバスは静かに蒼くその口を開いています。

今日はそんなことを意識し、また、意識しなきゃならない日です。

でも、こんなことを書いてくださる方がおられる。ついうれしくて、そのリンクをここに貼ってしまう。
うーん、ダメですね。

誰が困るのか

まぁ、いつでも↑のようにいくわけじゃなくて、やはり子どもが寝てしまったり、おしゃべりしたり、遠い世界に行ってしまうこともあるわけです。
で、やっぱりおしゃべりは困るわけです。なので怒る。すると、子どもたちの中には逆に、授業への不服従という形で、より行動がエスカレートしていく場合があります。そうするとやっかいです。教員は困ってしまう。まぁそういう時に教員は子どもたちを何とかしようと思うのですが…。
そんなことを同僚と話をしていたのですが、わたし、なんとなく
「でも、教員ってほんとは困ってないんじゃないんですかねぇ」
って問いかけてみました。するとその教員、
「うん、ほんとに困ってるのは生徒だよね」
って返してきました。
そうなんですよね…。困ってるのは生徒なんです。
てことがわかるには、それなりの場数が必要かなぁ…。

守る・破る・崩す

通勤途中、マナーとかルールとかについていろいろ考えていたんですが…。

例えば、ここにルールがある。
これを守るのは、それなりに意思の力が必要なんだと思うのです。もちろん「体制に従うのだから意志は必要ない」という考えもあるでしょうが、ルールを守り続けようとすると、そのことに敏感でなくちゃならないし、習慣化する意志が必要な気がします。
で、これに従わない、守らない、破るってのは、もっと意思の力が必要な気がします。まぁ、「出る杭は打たれない」で、一定のところを越すと楽になるという話もないわけではないですが、あくまでも抗い続けるのは、やはりとてもしんどい。
でも、ルールを守らないって、それだけなのかなと、ふと思ったのです。すると
「あ!めんどくさいってのがある…」
と思いました。

この「めんどくさい」ってなんだろう…。これ、「なし崩し」ってことですか。
「なし崩し」には、意思の力は必要ない。楽なんですね。
「ま、これくらい、いいか」
みたいな。そして、意思の力を使わずに、どんどんルールを崩していく。
ところが、そうやって崩されたルールやマナーを「立て直す」のはとてもたいへんです。なぜなら、「守る」ためにはパワーが必要だからです。では逆に、ルールやマナーを「変えていく」のは?これもまたたいへんです。なぜなら、現行のルールやマナーを「破る」のもパワーが必要となるからです。

別に何がどうという話ではないです^^;;。
でも、例えば、生徒に
「なぜ校則を守らないのか?」
と聞いた時、わたしたちは
「なぜ破るのか?」
と聞いているわけです。つまり、意志の力を聞いている。ところが、生徒は「なし崩し」にしている。意思の力はない。
このすれ違いを意識化することって、あんがい突破口にならないかなと、ふと思っただけです。

ちなみに、同僚にこのことを話したら
「そもそも、いつきさんはルールやマナーを知らないでしょ」
って笑われましたけどね^^;;。

もうね!

なんか、某市の市長が

銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる。

って言ったそうな。
「誰だって」?
わたしはわかんないです。
そういう「誰だって」とか「みんな」って、生徒が言い訳をする時に使う言葉ですよ。

意に反して慰安婦になったのは戦争の悲劇の結果。戦争の責任は日本国にもある。慰安婦の方には優しい言葉をしっかりかけなければいけないし、優しい気持ちで接しなければいけない。

どんだけ上から目線やねん!
心は身体による実践によって鍛えられていく、逆に身体の実践抜きの「自律した心」は疑うべきものである。そう益軒は言っている(気がする^^;;)わけですよ。つまり、「優しい気持ち」ではなく、実践で示さんかい!って、する気もするはずもないんでしょうけどね!

タイプ

なんでも若い衆が悩んでいる、というか、悩まされているみたいです。なーんから話を聞けば聞くほど、「ボタンのかけ違い」っぽいんですよね。で、せっかくなんで、「決戦の場」におじゃますることにしました。
なるほど、後ろ向いてしゃべってます。しゃべってる子、わたしがうしろの扉からのぞいているのを見て「こっちこっち」とか、手招きしています。いらんことを^^;;。
まぁ、ヒマなんで、中に入ってみました。
若い衆、一生懸命前でしゃべっておられます。後ろ向いてたヤツに、
「前、見てみ。ほれ、問題解けよ」
とヒソヒソ話。すると、あんがい素直に問題をときはじめます。で、お定まりの
「わからん…」
です。いくつかヒントを渡すと、だんだんときはじめます。
まぁそんなこんなでつつがなく「決戦」も終わりまして(笑)。
夕方、若い衆がやってきました。
「ごめんね、中に入るとやり難かったやろ」
「いえいえ」
みたいな会話のあと、いよいよ本論です。
なんでもその若い衆、若手の先輩から
「あいつら、最初にガツンとやらんとあかんで」
とか言われたらしいです。で、ガツンとやったけど、中途半端だったとか。
「それかぁ」
ですね。
その若い衆、タイプが違うんです。もっと、たぶん優しい子なんですね。そんな子が、ガラにもなくガツンとやったら、生徒たちは
「あ、無理してんな」「あ、これが精一杯やな」
って見抜きます。すると、「これ以上はない」ってわかるので、抑えが効かなくなる。で、若い衆としては、最初にガツンでやったもんだから、そこで押すしかなくなる。でも…。
まぁ、個人的には、若手教員同士のやりとりが悪いと思うのです。経験の少ないもの同士で、ある人がうまくいったケースを全体に拡大するからダメなんです*1。で、なぜそんなふうになるかというと、経験の継承を軽視しているからです。全体としても、ふた言目には「若い人の考え方で」となる。
ガッコって、いろんなタイプの教員がいて、いろんなやりかたでかかわる。ガツンな人もいれば、優しい人もいれば、情けない人もダメな人もいる(笑)。そんないろんな人が、それぞれのやり方で子どもたちとかかわる。その重層性みたいなものが大切なんだと思います。
「あの子らね、数学、わかりたいねん。でも、粘りがないから、すぐに「わからん」ってなるねん。で、しゃべってしまう。だからね、わかりたいっていう気持ちを大切にしたってほしいねん。そしたら、きっと前を向いてくれるよ」
情けなくてダメな人からのアドバイスです(笑)。

*1:もちろん、更に大きな問題点はジェンダーなんですけど、それは話がズレるので、またの機会に…。

原理にあたる

懸案事項のうちのひとつが「サークラインのソケット交換」でした。
うーん。なぜサークラインのソケットには穴が4つあるんだ?そもそも、どういう配線になってるんだ?とにかく、ボロボロになったソケットにつながっているコードに色をつけて、交換開始。
さて、終了。スイッチオン…。ありゃ?片側しかつかない…。で、色わけした配線をつたっていくと…。ありゃ?片方が両方ともグロー?おかしい…。で、ネットで確認。そういえば、大学時代励起状態がどったらこったらって習ったよなぁ^^;;。
やっぱり、原理から考えたほうが確実なんだな…。
てことで、配線替え。無事つきました。が、サークライン、三灯中二灯切れてたんかい!

矜と謙・「分」はあるのか

矜…「高慢」な態度、自己を押し出したり肥大化させるあり方
謙…自己を控える態度、忍ぶ、こらえる、つつしむなど
だそうです。でもどうやら原典にあたると矜=ほこりについて、「ほこれば、自ら是として人に求めず。かくのごとくなれば、悪にうつる事きはまりなし」とあります。に対して、謙の根拠となるのは原典ではないのですが「自己の中に自律性の根拠を設定しない」「天地によって生み出されかつ「愛育覆載」され、天地のうちにその一分節としてつながることによって生かされている卑小な存在と自覚された自己の意識にもとづく」とあります。たしかに「自ら是」の対極です。
で、おそらくは「天地のうちにその一分節としてつながる」という発想は「分をわきまえる」というところにつながるのかなと。そんなことを思うのです。
ところで、「分」に「身」がつくと、まさに「身分」であり、近世社会のあり方です。
まぁ、人権の立場からすると「身分制打破!」とか「近代は身分制から解放された社会」となるわけですが…。
でも、最近、なんとなく「そうなんだろうか」と思うところもあるのです。それは「才能」ってヤツにかかわっています。
人は生まれた瞬間、すべての才能を備えて生まれてくるのか、それとも天賦の才能を与えられて生まれてくるのかと、最近なんとなく思っています。
こう書くと、「才能がないヤツははじめからあきらめるしかないのか」となるのですが、ちょいと違います。
才能には「役に立つ/立たない」とか「貴重/どうでもいい」みたいな感覚はありません。すべての「才能」は、価値としてフラットです。そして、「天賦」ですから、親からもらうものではない。つまり「世襲」ではないってことです。
それぞれの独立した個人が、天から与えられたとてもステキな「才能」を持って生まれてくる。
で、その「天賦の才能」を見つけ、磨き、社会に還元する。大切なのは自分のために使わないということ。なぜなら、その才能は「天から与えられたもの」だからです。天から与えられたものは、天のために使い、天に返す。
そして、その自分が与えられた才能を見つけ、磨き、社会に還元することを「分をわきまえる」という。そんな気がするのです。
でも、「分をわきまえる」ことは従順であることとは違います。なぜなら、その「分」を侵されそうになった時、「分」を護るためには闘わなくちゃならないからです。そのために、天賦の才能を研ぎ続けるのです。
ちなみに、他者の「分を侵す」ことを、もしかしたら「矜」というのかな。だからこそ「謙」である。
スタティックな「謙」ではなく、ダイナミックでアクティブな「謙」。
そんなことを、ふと考えます。

充実感と空虚さと

わたしはどうやら「一般論」でものを考えるのが苦手なようです。常に頭のどこかに「リアルさ」をおきながら、ものごとを考えるようです。
例えばわたしにとっての多文化とは、ウトロでオモニたちとビールを売りながら、
「お金はここに置けばいい」
「いや、あっちがいい」
「あーだ!」
「こーだ!」
とやりあったり、でも一段落ついて
「まぁ、食べ」
とか言われながら、特別に持ってきてもらったサンチュで肉を包みながらビール呑んで、気がつくとチャンゴ叩いてハルモニがノレをやりはじめて、みんなでオッケチュ厶。そのうち
「えーかげん終わるぞ!」
と怒られて片づけやって…。
みたいなものなんです。
なので、例えば「朝鮮人」というひとつの言葉の中には、必ず固有名詞が入ります。あるいは、できるだけ入れたいから、そういう場所にのこのこ出かけて行って、そういう人と出会って、しゃべって、呑むわけです。
そういうわたしにとって、一般論でしゃべる人はどうしてもどこか違和感を感じるし、ましてや一般論で「殺す」とかいう人には怒りと恐怖と…。なんだろう。
まぁ、ダメなんです^^;;。
てことで、今日は行かなきゃならないだろうと思ってこれに参加してきました。
んー。
細かいことについてはIWJなんかに譲るとして…。
空虚です。「彼ら」はやたら「朝鮮人」と言っていましたが、中身がないです。「朝鮮人」のかわりに、例えば「岡山県民」を入れても、それこそ「在特会」を入れても成立するヘイトスピーチです。そのことが、わたしに空虚さを突きつけます。
でも一方、「stand against racist」というフラッグにたくさんの人が立ち止まってくれました。

わたしはできなかったけど^^;;、留学生や外国人観光客も関心を持ってくださったみたいです。カウンターは、単に「対在特会」というだけではなく、「わたしたち」を見る人々にそれなりのアピールをしていたことを感じました。
その充実感と、でも在特会へのカウンター行動そのものの虚しさへの疲れと、いろんなことが交錯する一日でした。

終わってから呑み。
はじめて出会ったツイッタ上の人々とのやりとりは大きな収穫でした。いろんなことを教えてもらい、話をした夜でした。あまりにも話が弾んで、いつもの通り、食べずに飲んだら寝ちゃったのは、まぁこれまたいつもの通りでしたが^^;;。

それにしても、ほんとに疲れていたのを家に帰った瞬間実感しました。