下の子どもの誕生日のお祝いを買うべく、アメコミの輸入サイトを見ると、えらい値があがってます。あぁ、円安な…。
アベノミクスか…。
カテゴリー: 考え
「さらり」
某所に書いているゲンコですが…。
とても難しいです。
公開されているものは、あくまでも「結果」でしかありません。その結果へと至る過程で、「ボツ」もあるわけです。
で、なぜボツなのか…。
たぶん「ざらつき感」がないんですよね。こなれた文章でさらりと書き流す。意味はわかるし雰囲気もわかるんだけど、何かが足りない。だまされた気がする。あと一歩知りたいのにそこをはぐらかされた気がする。
たぶんそんなことなんでしょうね。
でも、なかなかその「ざらつき感」を出すのは難しい。なぜなら「さらり」がわたしの芸風というか、そうやって生きてきたからなんですよね。
それは「伝える過程」で、もともとのものと変質せざるを得ないということなのか、「ドロリ」が嫌いなのか、はたまた、単純に「一番目の子どもにありがち(笑)」なことなのか…。
ま、今後も続く課題です。
てな書き方が「さらり」なんですよね(T_T)。
環境はできるもの、環境はつくるもの
今日は午後から出張です。向かうは西成高校。今度の夏季研で来てもらう肥下さんとの打ち合わせです。
もともとは「夜の打ち合わせ」にしようかと思っていたのですが、打ち合わせって公務だし、「出張だよ」とも言われていたので、そもそも「昼の打ち合わせ」をしないと、なにも決まらなかったりしますからね^^;;。
てことで、新今宮へ。カマを通って鶴見橋商店街を通って、「聖地」に到着です。
しばらくしたら、神奈川のK巻さんも来られて、西成高校のとりくみのレクチャーや、朝鮮語教室の見学をさせてもらいました。
なんだろ。西成高校のとりくみは、日々進化している感じです。前に行ったのは三年ほど前ですか。その時聞いたことや、本で読んだことは、たぶんすでに過去のことになっています。教材が教職員全体に浸透する中で、学校の空気になり、さらに学校のあり方そのものになっていく。そんな感じでしょうか。
で、それはひとりではできない。
もともと、西成高校には西成高校の環境がある。で、西成という地域には地域の環境がある。それぞれのところでほんとに真摯なとりくみがある。でも、互いに遠慮や不信感なんかがあるときは、それは単なる「置かれた環境」でしかない。それがコラボをはじめた瞬間、「環境づくり」へと進化と深化をはじめる。
実践を言葉であらわすことは簡単なんですが、それを言葉にする前に実践しているってすごいことだなと思います。
さて、わたしはここからなにを学べるだろう…。
わたしにはわたしの置かれた環境があります。それは西成とはまったく違う。学べることは、おそらくは「進化と深化の可能性がある」ことだけです。あとはスクラッチから…。
そうそう。
打ち合わせもしました。
うーん。ま、簡単に言うなら、
「肥下ちゃんはなぜ肥下ちゃんなのか」
ってことでしょうか。
どんな話が聞けるか楽しみですo(^^)o。
もどれない身体になってしまった^^;;
今日はいろいろあって、車で出勤。通勤時間のこともあるのでいつもと同じ時間に出たのですが…。
早いです。1時間ですね。
でも、ダメです。その1時間、なにもできないんです。これはつらい(T_T)。
いかに自分が電車の中でいろんなしょーもないことをしているのか、よくわかります(笑)。
さらに、帰り道。道が混んでます。
なんというか、やれることって、コーナーでちょい攻め気味みたいなことだけですか^^;;。
すっかり電車通勤の身体になってしまいました(^^)。
妙なアウェイ感
この「おべんきょ」、おもしろいのはおもしろいんですけどね。妙なアウェイ感を感じます。
この「おべんきょ」、たぶん基本は「知識を獲得する」あるいは「スキルを身につける」話なんですね。その中で深く考えたり、オリジナルの発想を見つけ出したりということがない。すごく簡単に言うと、技術者の養成をしている感じがするんです。
まぁ、この「おべんきょ」を含むコースそのものが、おそらくは専門家を育てることが目的になっているので、そういう意味では当たり前といえば当たり前なんですけどね。
もちろん、この行動分析ってやつも、より高度な世界になると話は変わるのかもしれません。でも、初心者レベルというか専門外のわたしにとっては、高校生の数学をやってる感じです。
で、それを楽しめる、あるいは「役に立つ」「身につけたい」という人と、「考える」「思索を深める」「自分の内側を漂う」みたいなことを求めるわたしとでは、当然そこにかける気持ちは違うわけです。
でも、まわりでニコニコしながらセンセの話を聞いている人たちの顔を見て、「あぁ、もうひとつのおべんきょ仲間とはぜんぜん違うなぁ」と思ってしまいます。ちなみにもうひとつの「おべんきょ」では、みんな「うーん…」て顔をしてますからねぇ(笑)。
でも、なんか、それだけではないような気がします。
そのきっかけになったのは、ダメダメ先輩から来たメール
「実践的である」ってことが行動学な気がします。いまでこそ批判的乗り越えがあると思いますが、学問の誕生した背景が人間の行動は観察可能で統制管理の対象であるという前提に立ってたんじゃないかなぁと思います。動物と同じ刺激−反応モデルにそった。
です。
うーん…。もう少し自分のアウェイ感を掘り下げてみますか…。
大きな宿題
今日の午後は釜ヶ崎のフィールドワークと講演です。こんなことやってて仕事って、少し気がひけるといえばひけるのですが、「行くこと」「見ること」「聞くこと」「感じること」はとても大切なことだし、なによりそれを「伝える」ことへとつなげることで、フィールドワークは生きると思います。なので、喜び勇んで釜ヶ崎へ。
わたしは記録担当なので、ビデオカメラと三脚とテーブルタップを持っていかなきゃなりません。もう、リュックはパンパン。お弁当が入りません。てことで、お昼ごはんは現地で食べることにしました。
さて、どこに行こうかな…。
と、ダメダメ先輩から天の声。
「西成行くならココルーム。!」
てことで、ココルームへ。
なかなかおしゃれでぁゃιぃ感じです。サイトには「ランチ」なるメニューがあったので、
「すみません、ランチありますか?」
と聞くと
「みんなで食べますか?みんなで食べるのがうちの名物なんです。もう少しなんですけど…」
と、なんか難解なことを言われてしまいました。まぁ、ちょい早めに着いたので
「じゃぁ「みんな」で」
ということで、しばし上田假奈代さんと話。というか、
「ダメダメ先輩に行けって言われまして。わたしいつきっていいます」
と自己紹介したら
「こないだいつきさんの話をしてたところで」
とか、これまた難解なことを言われてしまいました。
まぁ、そんなこんなで自己紹介をしているうちに
「そろそろ食べましょうか」
と声がかかったので、奥の座敷コーナーへ。
なるほど。これが「みんな」の意味ですか。簡単に言うならスタッフの昼ごはん時に一緒に食べるということなんですね。
てことで、机の上にはおかずがいっぱい!
たぶん、「みんなで食べる」ことに意味を見出しておられるんでしょうね。みんなで話をしながら食べると、なんともいえずおいしいし、なんとなく気が緩むのか、ふだんなかなか聞けそうにないこぼれ話を聞かせてもらったり。わたしも初対面なのに「居候気分」でごはんをパクついてしまいました。
で、昼ごはんを食べたところでココルームをあとにして、集合場所へ。
今日の案内は「野宿者ネットワーク」の生田武志さんです。
まずは、フィールドワークをするにあたっての注意事項から。そりゃそうです。生活の場によそ者が踏み込むことをフィールドワークというのですから、それなりの礼儀は必要です。
で、街を歩きはじめます。
わたしは大学時代に何度かカマには来たことがあるし、3年ほど前にも一度来させてもらっています。なので「新鮮」って感じではないのですが、やっぱり「来る」って違います。テレビなんかでは絶対に伝わってこない暑さとにおい。そして、きっとカメラでは捉え切れないであろう細かなところ。というか、カメラの場合も細かなところを捉えられるんでしょうが、それはあくまでもカメラさんやカントクさんの感性であって、わたしの感性ではない。あとは「ノイズ」の出す空気感ですか。
約一時間のフィールドワークで、カマの空気をたっぷり吸って、「喜望の家」へ。ん?ここ…。大学時代の夜回りの時に泊めてもらった家でした。そっかぁ、ここだったんだ。
生田さんの話は…。
おそらくは今の日本が抱えている「軋み」みたいなものがすべて詰まった話でした。
現在、野宿者の数は20000人。かつてと比較して激増していること。そして、広域化していること。これを生田さんは「釜ヶ崎化」と呼んでいました。そして、現在の特徴として、若者と女性の野宿者の増加がある。その背景にはさまざまなものがありますが、虐待とDVも無視できない要因である。
そしてもうひとつ、なにが一番困っているかというと、「襲撃」があげられる。数々の襲撃事件を紹介してもらいましたが、「襲撃」ではなく「殺人」ですね。そしてやっているのは10代の男性。つまり、中・高生であるということ。この子らは「人を傷つけないと生きていけない」状況に追い込まれている。「ハウスはあってもホームがない」という言葉が印象的でした。
ちなみに、「傷つけなきゃ生きていけないのは男性だけではない。女性はどうしてると思いますか?」との質問。自分を傷つけている。つまり、リストカットや拒食。たぶんODも入るんでしょうね。
つまり、襲撃をなくすためには「人に優しくしましょう」などという「道徳心」が必要なのではなく、こうした子どもたちの抱える状況をなんとかしなくてはならない。
わずか一時間と少しではあったけど、そんなこんなを聞き、考えさせられる話でした。
にしても…。
この話から、わたしは学校の中で、更に言うならば、人権学習の中で何ができるんだろうか。あるいは労働の学習を通して何ができるんだろうか。「野宿者にならずにすむ学習」?違いますよね。「野宿者に優しくする学習」?これも違いますよね。ふたつとも大切ではあるけど、それを目的にするのは間違っている気がするのです。貧困問題。それはそうなんですが、教材に落とし込むのはあまりにも漠然としすぎてます。たぶん、この間つくった教材は、そこのブレや迷いがあったんでしょうね。ま、ブレや迷いがあることが悪いとは思いませんが…。
いずれにしろ、すごく大きな宿題をもらえた半日でした。
これこそが(^^)
今日は今年度初のトランスジェンダー生徒交流会です。
今回は事前申し込みもけっこうあって、にぎやかな交流会になりそうな予感です。
とりあえず、いつもの通りアキさんと合流して買い出し。アキさん、さすがに慣れてきたのか、大きなスーツケースを持参です。助かった(笑)。
で、荷物を会場において集合場所に到着。
と…。
笑いました。なんぼ人がたくさんいるねん。てか、子ども多いし(笑)!
なんか、子ども会のキャンプの集合場所みたいです。
「交流会の人、行きまーす。わたし、いつきです!」
と大きな声をだして、集団の移動開始。
会場についたら食事づくりです。
「子どもたち、がんばってつくってね!大人の人たち、子どもをサポートしてあげてください!」
とだけ言って、わたしは餃子の皮づくりです。
それにしても、子どもたちがすごく積極的です。一生懸命包丁を持って切ってます。よしよし(^^)
で、焼きそば・焼きうどん・お好み・水ぎょうざの完成。
あとは子どもたちと大人たち…。というか、○ールなしとビー○ありって感じですか、ふたつにわかれてごはんごはん。
食事のあとは話し合いをしようかと思ったけど、無理ですね。子どもたちはかくれんぼをして遊んでます。若い養護教諭の方がずっと一緒に遊んでくれてます。もう、学童です。
そのうち、なんとなく高校生の輪ができ、保護者の輪ができ、教員の輪ができ、カウンセラーの輪ができ、輪からはずれてる人には誰かが話しに行き。それぞれがそれぞれの話し込みをはじめました。そんな人たちの姿を見て、
「うん、これでいいや。これがいいや」
という気になりました。
結局、交流会なんて一人でできるものではないです。たくさんのサポートしてくれる人と、なにより参加する人の「出会いたい」「話したい」「楽しみたい」という気持ちがなくては成立しないんだなぁと思いました。わたしができることは、「場を設定することぐらい」なんですよね。
でも、それでいいんでしょうね。そこより出過ぎてしまうと、たぶんこの空気は壊れてしまいます。
でも、せっかくです。やはりどんな人が来ているのか、お互いに知りたいんじゃないかな。なので、最後に大きな輪になって、全員の自己紹介。
メッチャ疲れたけど、それを越える元気をもらえた交流会でした。
うん。この子らが大きくなるまではこの交流会、続けようo(^^)o
長くて短い、短くて長い
去年の今頃、なにを考え、なにをしてたかなぁと、ふと考えました。
一日一日がとても長くて、次の日が来ないと思うほどしんどかったなぁ。でも、気がつくと、もう一年前なんだ…。
で、今も鮮明に覚えているし、まだ傷もあります。でも、その傷があるからこそ今の自分があるし、そんなこんなのすべてを大切だと思えます。てか、傷ばかりじゃなくて、もっと大切なもの/ことをもらったもんね。
季節は流れ、ゆき、またここに来る。
季節よめぐれ。
山の向こうに山はある
子どもたちは数学の問題を目の前に提示された時、どうそれを見て、どう考えるのだろう…。
例えば、3次式の因数分解の問題を見た時
「うわ、なにこれ」
とひるんで、そこで終わるのだろうか…。
そう考えた時、わたし(たち)との間にある圧倒的な「違い」に気づきます。というより、その「違い」を明確化し、言葉に翻訳しなおして伝えることが、教員の仕事かなと、最近ますます考えるようになりました。
例えば、3次式の因数分解の問題を見た時、わたし(たち)なら、まず先頭を見て3次式であることを確認して
「ふむ」
と思う。そして、定数項を見て約数を考えて代入する。その時、先頭にあるax^3なんてものはなんの関心も引きません。
つまり「ややこしそうに見えること」には関心を持たず、簡単なことを繰り返すことでややこしいことをこなしていく。
これ、もしかしたら山を登ることに似ているのかもしれません。
はるかな遠方にあるいただきを見た瞬間、
「無理や…」
と立ちすくむのが山をしていない人だとしたら、そこに至るルートを目でおい、とっかかり口を見て、そこに集中する。そして、一歩一歩歩いていくのが山をやってる人かな。わたしは山をやらないからわからないけど…^^;;。
つまり、難しいことを難しいと考えるのではなく、簡単なことの集積であると考える。
なんてことを思いながら仕事をしていたのですが
「終わったぁo(^^)o」
と思った向うに、まだまだ仕事があるのを思い出してげんなりした一日でした。
山頂だと思ったら、まだ向こうに山があったって感じ(T_T)。
憎悪は強盗
「一般名詞」に向けられた憎悪に、その一般名詞に含まれる人はどう対処するのか。例えばそれがわたしなら…。
方法はいくつかあるように思います。
まずは「一般名詞だから」と流す。つまり、「一般名詞への憎悪は、実は空虚であり、現実には誰にも向けられていない」と考える。
あるいは、「一般名詞に含まれる自分以外の人を思い浮かべ、それぞれの差異を考えて、あの一般名詞はあの集団を指している」と考える。
それから、「一般名詞は一般を指すのではなく、自分を指している」と考える。
最初のやり方は、でももしかしたら、「一般名詞」に回収させることで、主体としての自分を失うのかもしれないなと、ふと思います。
二番目のやり方は、「自分は違う」と考えるわけで、それって結局「なかま」を失うこと、そしてそれは「自分への名づけ」が歪んでしまうこと、つまり最初のと同じように主体としての自分を失うことにつながるのかなと、これまたふと思います。
じゃぁ、それをしない方法は…。それが三番目です。でも、きつい。あまりにもきつい。三番目は主体と引き換えになにを失うのか。それはユーモアであり、笑顔であり、柔らかさであり…。そんなこんなを持っているからこそ「自分のこと」と引き受けられるわけなんですが、それを奪われてしまう。いや、究極的には命を奪われてしまうこともある。
人から何かを奪うもののことを「強盗」というならば、憎悪=ヘイトは強盗である。