山の向こうに山はある

子どもたちは数学の問題を目の前に提示された時、どうそれを見て、どう考えるのだろう…。
例えば、3次式の因数分解の問題を見た時
「うわ、なにこれ」
とひるんで、そこで終わるのだろうか…。
そう考えた時、わたし(たち)との間にある圧倒的な「違い」に気づきます。というより、その「違い」を明確化し、言葉に翻訳しなおして伝えることが、教員の仕事かなと、最近ますます考えるようになりました。
例えば、3次式の因数分解の問題を見た時、わたし(たち)なら、まず先頭を見て3次式であることを確認して
「ふむ」
と思う。そして、定数項を見て約数を考えて代入する。その時、先頭にあるax^3なんてものはなんの関心も引きません。
つまり「ややこしそうに見えること」には関心を持たず、簡単なことを繰り返すことでややこしいことをこなしていく。

これ、もしかしたら山を登ることに似ているのかもしれません。
はるかな遠方にあるいただきを見た瞬間、
「無理や…」
と立ちすくむのが山をしていない人だとしたら、そこに至るルートを目でおい、とっかかり口を見て、そこに集中する。そして、一歩一歩歩いていくのが山をやってる人かな。わたしは山をやらないからわからないけど…^^;;。

つまり、難しいことを難しいと考えるのではなく、簡単なことの集積であると考える。

なんてことを思いながら仕事をしていたのですが
「終わったぁo(^^)o」
と思った向うに、まだまだ仕事があるのを思い出してげんなりした一日でした。

山頂だと思ったら、まだ向こうに山があったって感じ(T_T)。

憎悪は強盗

「一般名詞」に向けられた憎悪に、その一般名詞に含まれる人はどう対処するのか。例えばそれがわたしなら…。
方法はいくつかあるように思います。
まずは「一般名詞だから」と流す。つまり、「一般名詞への憎悪は、実は空虚であり、現実には誰にも向けられていない」と考える。
あるいは、「一般名詞に含まれる自分以外の人を思い浮かべ、それぞれの差異を考えて、あの一般名詞はあの集団を指している」と考える。
それから、「一般名詞は一般を指すのではなく、自分を指している」と考える。

最初のやり方は、でももしかしたら、「一般名詞」に回収させることで、主体としての自分を失うのかもしれないなと、ふと思います。
二番目のやり方は、「自分は違う」と考えるわけで、それって結局「なかま」を失うこと、そしてそれは「自分への名づけ」が歪んでしまうこと、つまり最初のと同じように主体としての自分を失うことにつながるのかなと、これまたふと思います。
じゃぁ、それをしない方法は…。それが三番目です。でも、きつい。あまりにもきつい。三番目は主体と引き換えになにを失うのか。それはユーモアであり、笑顔であり、柔らかさであり…。そんなこんなを持っているからこそ「自分のこと」と引き受けられるわけなんですが、それを奪われてしまう。いや、究極的には命を奪われてしまうこともある。

人から何かを奪うもののことを「強盗」というならば、憎悪=ヘイトは強盗である。

新しい動き

昨日参加した、いわゆる「カウンター」ってヤツ。脱原発の運動もそうなんですけど、明らかに従来の運動とは異質です。特に「カウンター」はそれが顕著です。
ひとつは「最小公倍数的な集まり」ってことです。カウンターに参加している人たちは「ヘイトスピーチは許せない」という一点で集まっています。で、集まるにあたって「ヘイトスピーチとはなんぞや」とか「みんなの考えを集約して」とか「基調は」とかいうことはない。それぞれのよって立つ場所は「不問」ということです。
もうひとつは「主催者がない」ってことです。関西の場合は「友だち守る団」というあやしげなグループがありましたが、「より広汎に、(やりたい人は(笑))より先鋭的に」ってことで、発展的に解散されました。
主催者がないってことは、そこでの主導権争いなんていうことは起こりません。というか、もともとが「主義主張は不問」で集まってきているので、たとえ主導権争いやって誰かが勝っても、誰もついていきません。好き勝手やってますから。でも、そんな中で「互いを守る」は、なんとなくあるんですよね。
ちなみに、もちろん主導的な人がいないわけじゃない。それは、その人がそうなろうと思ったのではなく、その人が最も身を粉にして動き、それを見ているまわりの人が勝手にそう思っているだけのこと。で、本人はそこから脱出するべく逃げまわっている。そんな印象を受けます。
でも、まぁ、こんな「行動」、必要なくなればいいんだけどなぁってのは、参加してる人がみんな思っているでしょうねぇ…。

ナンバでいこうよ

毎朝感じるんですけど…。
階段を駆け上がる人の手がこわいです(T_T)。今朝は「空手チョップ(死語)」されるかと思いました。
なんか、最近、大きく腕を振って歩いている人が…。増えたのかどうなのかは知りませんが、気になるようになりました。
これ、階段だけじゃないです。混雑している駅の構内や繁華街の道でもよくおられますねぇ。
「いや、車間距離、もとい人間距離をとればいい」
というご意見もあるかと思います。ごもっとも。
でも、そんな人に限って歩くのが遅いんです。遅いから、腕を振ってスピードを出そうとしている。で、わたしは決して歩く速度は早くないんですが、それでも追いついちゃうんですよね。で、腕や手がぶつかりそうになる。
んー
混んでる時は、腕を振らずに階段登ってくれませんかねぇ…。
あ!ナンバだ!

クールダウンの先

7時半に寝たおかげで、朝はそんなに悪い体調ではありません。まぁ、少し睡いくらいですか。いつもの朝がやって来ました。

にしても、テンションの高さがほんの少し残りながらも、緩やかに日常に向かいつつあります。こんな時、いろいろ考えてしまいます。いや、ずっと考え、違和感を持ち続けてきたことを反芻してしまうというほうが正確でしょうか。

一昨日〜昨日もそうですが、一体何がどうなってるんだろうということです。

わたしは、京都の南部にある小さな町で働く、単なる一高校教員です。なのに、通常教員をしていたのでは決して出会うことがないであろう人たちと、なぜか会ってしまう。一緒に飲んで、いっぱい話をしてしまう。人によっては
「会えてよかった」
と、過分な声をかけてもらえる。
「あなたの近くの学校にいる教員と、わたしはさほど変わらない」
と、いつも思っています。なぜなら、それぞれの人は、それぞれのライフヒストリーの主人公として生きていて、もしかしたらそのライフヒストリーはとても退屈なものです。そして、そこにさほどの差はないと、わたしは考えているからです。例え波瀾万丈に見えるライフヒストリーであっても、平凡な日常はある。そのことを見逃してはならないと思っています。
でも、外から見るとき、つい、ある区切られた「波瀾万丈」に、気をとられてしまう。そして、そういう評価をまわりからされてしまう。一番こわいのは、その評価に自分がからめとられることです。そのことによって、自分のすべてを「波瀾万丈」と勘違いしてしまい、平凡な日常を軽視してしまう。
そして、そのクレバスはいつも足元にあります。

とても大きな「しでかし」をしてしまい、そしてそれがたくさんの友だちの支えでこなせた時、そのクレバスは静かに蒼くその口を開いています。

今日はそんなことを意識し、また、意識しなきゃならない日です。

でも、こんなことを書いてくださる方がおられる。ついうれしくて、そのリンクをここに貼ってしまう。
うーん、ダメですね。

誰が困るのか

まぁ、いつでも↑のようにいくわけじゃなくて、やはり子どもが寝てしまったり、おしゃべりしたり、遠い世界に行ってしまうこともあるわけです。
で、やっぱりおしゃべりは困るわけです。なので怒る。すると、子どもたちの中には逆に、授業への不服従という形で、より行動がエスカレートしていく場合があります。そうするとやっかいです。教員は困ってしまう。まぁそういう時に教員は子どもたちを何とかしようと思うのですが…。
そんなことを同僚と話をしていたのですが、わたし、なんとなく
「でも、教員ってほんとは困ってないんじゃないんですかねぇ」
って問いかけてみました。するとその教員、
「うん、ほんとに困ってるのは生徒だよね」
って返してきました。
そうなんですよね…。困ってるのは生徒なんです。
てことがわかるには、それなりの場数が必要かなぁ…。

守る・破る・崩す

通勤途中、マナーとかルールとかについていろいろ考えていたんですが…。

例えば、ここにルールがある。
これを守るのは、それなりに意思の力が必要なんだと思うのです。もちろん「体制に従うのだから意志は必要ない」という考えもあるでしょうが、ルールを守り続けようとすると、そのことに敏感でなくちゃならないし、習慣化する意志が必要な気がします。
で、これに従わない、守らない、破るってのは、もっと意思の力が必要な気がします。まぁ、「出る杭は打たれない」で、一定のところを越すと楽になるという話もないわけではないですが、あくまでも抗い続けるのは、やはりとてもしんどい。
でも、ルールを守らないって、それだけなのかなと、ふと思ったのです。すると
「あ!めんどくさいってのがある…」
と思いました。

この「めんどくさい」ってなんだろう…。これ、「なし崩し」ってことですか。
「なし崩し」には、意思の力は必要ない。楽なんですね。
「ま、これくらい、いいか」
みたいな。そして、意思の力を使わずに、どんどんルールを崩していく。
ところが、そうやって崩されたルールやマナーを「立て直す」のはとてもたいへんです。なぜなら、「守る」ためにはパワーが必要だからです。では逆に、ルールやマナーを「変えていく」のは?これもまたたいへんです。なぜなら、現行のルールやマナーを「破る」のもパワーが必要となるからです。

別に何がどうという話ではないです^^;;。
でも、例えば、生徒に
「なぜ校則を守らないのか?」
と聞いた時、わたしたちは
「なぜ破るのか?」
と聞いているわけです。つまり、意志の力を聞いている。ところが、生徒は「なし崩し」にしている。意思の力はない。
このすれ違いを意識化することって、あんがい突破口にならないかなと、ふと思っただけです。

ちなみに、同僚にこのことを話したら
「そもそも、いつきさんはルールやマナーを知らないでしょ」
って笑われましたけどね^^;;。

もうね!

なんか、某市の市長が

銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる。

って言ったそうな。
「誰だって」?
わたしはわかんないです。
そういう「誰だって」とか「みんな」って、生徒が言い訳をする時に使う言葉ですよ。

意に反して慰安婦になったのは戦争の悲劇の結果。戦争の責任は日本国にもある。慰安婦の方には優しい言葉をしっかりかけなければいけないし、優しい気持ちで接しなければいけない。

どんだけ上から目線やねん!
心は身体による実践によって鍛えられていく、逆に身体の実践抜きの「自律した心」は疑うべきものである。そう益軒は言っている(気がする^^;;)わけですよ。つまり、「優しい気持ち」ではなく、実践で示さんかい!って、する気もするはずもないんでしょうけどね!

タイプ

なんでも若い衆が悩んでいる、というか、悩まされているみたいです。なーんから話を聞けば聞くほど、「ボタンのかけ違い」っぽいんですよね。で、せっかくなんで、「決戦の場」におじゃますることにしました。
なるほど、後ろ向いてしゃべってます。しゃべってる子、わたしがうしろの扉からのぞいているのを見て「こっちこっち」とか、手招きしています。いらんことを^^;;。
まぁ、ヒマなんで、中に入ってみました。
若い衆、一生懸命前でしゃべっておられます。後ろ向いてたヤツに、
「前、見てみ。ほれ、問題解けよ」
とヒソヒソ話。すると、あんがい素直に問題をときはじめます。で、お定まりの
「わからん…」
です。いくつかヒントを渡すと、だんだんときはじめます。
まぁそんなこんなでつつがなく「決戦」も終わりまして(笑)。
夕方、若い衆がやってきました。
「ごめんね、中に入るとやり難かったやろ」
「いえいえ」
みたいな会話のあと、いよいよ本論です。
なんでもその若い衆、若手の先輩から
「あいつら、最初にガツンとやらんとあかんで」
とか言われたらしいです。で、ガツンとやったけど、中途半端だったとか。
「それかぁ」
ですね。
その若い衆、タイプが違うんです。もっと、たぶん優しい子なんですね。そんな子が、ガラにもなくガツンとやったら、生徒たちは
「あ、無理してんな」「あ、これが精一杯やな」
って見抜きます。すると、「これ以上はない」ってわかるので、抑えが効かなくなる。で、若い衆としては、最初にガツンでやったもんだから、そこで押すしかなくなる。でも…。
まぁ、個人的には、若手教員同士のやりとりが悪いと思うのです。経験の少ないもの同士で、ある人がうまくいったケースを全体に拡大するからダメなんです*1。で、なぜそんなふうになるかというと、経験の継承を軽視しているからです。全体としても、ふた言目には「若い人の考え方で」となる。
ガッコって、いろんなタイプの教員がいて、いろんなやりかたでかかわる。ガツンな人もいれば、優しい人もいれば、情けない人もダメな人もいる(笑)。そんないろんな人が、それぞれのやり方で子どもたちとかかわる。その重層性みたいなものが大切なんだと思います。
「あの子らね、数学、わかりたいねん。でも、粘りがないから、すぐに「わからん」ってなるねん。で、しゃべってしまう。だからね、わかりたいっていう気持ちを大切にしたってほしいねん。そしたら、きっと前を向いてくれるよ」
情けなくてダメな人からのアドバイスです(笑)。

*1:もちろん、更に大きな問題点はジェンダーなんですけど、それは話がズレるので、またの機会に…。

原理にあたる

懸案事項のうちのひとつが「サークラインのソケット交換」でした。
うーん。なぜサークラインのソケットには穴が4つあるんだ?そもそも、どういう配線になってるんだ?とにかく、ボロボロになったソケットにつながっているコードに色をつけて、交換開始。
さて、終了。スイッチオン…。ありゃ?片側しかつかない…。で、色わけした配線をつたっていくと…。ありゃ?片方が両方ともグロー?おかしい…。で、ネットで確認。そういえば、大学時代励起状態がどったらこったらって習ったよなぁ^^;;。
やっぱり、原理から考えたほうが確実なんだな…。
てことで、配線替え。無事つきました。が、サークライン、三灯中二灯切れてたんかい!