ポテサラサンドに見る具のあり方について一考察

今日は昼過ぎから、ずっと職場をウロウロしていました。なにがあるわけでもないのにウロウロ。でも、ウロウロしていると声をかけられて相談に乗ったり、突然「スポットライトがつかない」とか言われたり。はたまたやり残していた仕事に気づいたり、次の作業の段取りをしてみたり。座っているだけでは気づかないたくさんのことがあります。
座って気づくことと、ウロウロして気づくことです。
たぶん、傍から見たら何をしてるかわからない、というかヒマそうに見えるでしょうし、本人も何をしてるか分からないし、やった実感もありません。でも、どうやらなにかをしているみたいです。

こういう役割ってなんなのかなぁと思います。
例えば、板と板をぴったりあわせようとした時、板にささくれやザラツキがあるとぴったりあいません。そんな時、二つの方法があるように思います。ひとつは板の表面をきれいにやすりがけをする。もうひとつは不整合面に薄くパテみたいなものを塗って、ふたつをくっつきやすくする。
それぞれにメリットデメリットは、もちろんあります。そして、板の場合はその用途に応じた方法をとればいい。
じゃ、行事なんかの時はどうするか。二つの主張の不整合面、あるいは運営上の不整合面、さらには施設上の不整合面。たぶん、さまざまな不整合面がありうる。それらの不整合面をうまくつなげるためにはどうするか。
もちろんサンダーで削ったほうがきれいになるのはわかっています。でも、それはものごとの本質を変えることで整合させているような気がしてならないのです。できるならわたしは「パテ」でありたいなぁと思うのです。

と思った時…。
ポテサラサンドのポテサラは、はたして主役なのか脇役なのか?もしかしたら、ふたつのパンを整合させるためにポテサラは存在しているのか?とすると、ポテサラサンドの主役はパン?だからポテサラは、パンとパンをつなぐために薄く塗ればいい?
そういえば、コンビニのポテサラサンドのポテサラは薄いです。それがじつは正しい?釈然としないけど^^;;。
ま、わたしはオープンサンドが好きなので関係ないですけどね^^;;。

「バランス」ではダメなんだろうな

夜はいつものようにテレビっ子です。
月曜日は…。「プロフェッショナル」ですねぇ、なぜか。
にしても、「プロフェッショナル」って、なんとなくジェンダー臭が漂うんですよね。って考えると「プロジェクトX」もそうでした。
これ、はたしてNHKの問題なのかなぁ…。
もちろん「そういう題材」を「そういうとりあげ方」をするのはNHKの問題ではあるんだと思います。でも、そもそもこの国では「賃労働」そのものがジェンダー化されているのかなぁという気がしました。「プロフェッショナル」たちの働き方のワークライフバランスを欠いたこと(笑)。
もちろん「ワークライフバランスなんて考えてたら道は極められないんだよ!」って話はあるでしょうね。でも、「ワークライフバランスのプロフェッショナル」はプロフェッショナルとして認定されない。
なんだろ…。
どこかでなにか違った方向へ向かってしまったんじゃないかなぁと思いながらも、つい見てしまう番組なんですよね^^;;。
困ったものだ…。

「人生」と「人生訓」

夜、テレビをつけると美輪明宏黒柳徹子が並んでいます。すごいペアです。思わず見ちゃいました。
でも、見ながら、妙な違和感が…。
まぁ番組のつくりがそうだと言われたらそれまでなんですけど、若い(たぶん)人から見たら、美輪明宏って「教祖様」みたいな感じなのかなぁと思ってしまいました。
たしかに、美輪さんにしろ黒柳さんにしろ、それぞれの経験に基づいて語られる一言一言には「力」があります。その「力」に、ふと引き込まれそうになる自分がいることは確かです。
でも、
「ちょっと待てよ」
と思う自分がいることも確かです。なぜそんなことを感じるんだろう。あぁそうか…。20歳の若者とわたしの年齢差よりも、わたしと美輪さんの年齢差のほうが小さいんだ。
たぶん美輪さんが教祖になろうと思っているのではなく、美輪さんを知った「若い人」が美輪さんを教祖にしているんだ。というか、「教祖としての美輪さん」を必要としているんだ。
わたしはあの番組の前半にすごく魅力を感じました。なぜなら、美輪さんがご自分の「人生」を語られていたからです。いろんなことを考えさせられました。でも、後半はあまりおもしろくなかった。それは「人生訓」が語られているように感じたからなんです。でも、たぶん、「教祖としての美輪さん」を必要とする人は美輪さんが語る「人生訓」に魅力を感じるのかな。なぜなら、そのものズバリの言葉で教えてもらえるから。
そんなことをふと考えました。
美輪さん、途中で
「得るものがあれば失うものがある。だから今はじっとしてる」
って言っておられました。
なるほど…。

あー!なーつやすみ(^^)!

今日は最終おべんきょです。なので、終わってからセンセにも来てもらって打ち上げをしようと。
てことで、おべんきょの時間の前に買い出しです。
買い出しから帰る道すがら、おべんきょ仲間が
「いつきさん!このブルース、たまらんっす!」
とか言って、ビールの入った段ボールの上にスマホをおいて、ブルース聞きながら歩いていたんですけど…。
あー、おべんきょしてるんだなぁo(^^)o。たまらない気持ちになりました。
ちなみにおべんきょ仲間は
「2013年のおべんきょ風景ではないですね」
とか言ってましたけど(笑)。

幾度繰り返すんだろう

朝、出掛けに家族四人で再度チェック。
「この人は?」
「あー、ほれ、このことについて書いてないやろ。てことは、態度を濁してごまかしてるねん」
「ふーん」
みたいな会話をして、自転車に乗って投票所に向かいます。
ほんとに直前まで悩みに悩んで、やっとの思いで入れました。
でも、ほんとにまったくワクワクしないというか、もっと言うなら絶望感しか起こらないんだよなぁ…。

あ、もちろん「統計」にはズレが生じそうで、それはおもしろいんですけどね。

転換点

さて、夏休み。普段できない仕事がてんこ盛りの夏休み^^;;。
で、夏休みがあるのはガッコだけではなくて、他の仕事にもお盆休みなんかがあるわけで。
てことで、この時期のゲンコは
「〆切厳守!」
です。
ところで…。申しわたられた〆切が、おべんきょレポートの〆切日とぶつかってます。しかも、月曜日にぜんぜん別のレポートも出さなきゃなりません。さらに、月曜日に他のレポートが降って来るはずです。
…。
死ぬな。これは死にます。
てことは、今日からとりくむ以外方法はありません。
てことで、朝からゲンコです。
内容的には、先月あたりから「転換点」なんですよね。スキーでいうところの「回転前半から後半に移るあたり」って感じでしょうか。一番不安定な時期を少しずつ脱出しはじめている感じです。
なんか書いていて
「いろんなことがあったなぁ」
と、少し和やかな気持ちで振り返れるようになってきました。
とは言え、今後「今」に近づいていきます。まだ評価の固まっていない「今」をどう表現するか。それはそれで今後の課題ではありますね。
てなことを考えていたら、書けちゃった^^;;。

学校の中で・地域の中で

なんか今度「リヴオン」というところが主催の学習会みたいなのがあって、
「パネラーをしてくれ」
って言われてしまい、できるかどうかわからないのに引き受けてしまい^^;;。みたいなことがあって、今日は打ち合わせです。場所は京都駅近くの沖縄料理のお店です。
沖縄料理と言ったら、当然オリオンビール泡盛です。はっきり言って、打ち合わせになる自信はまったくありません^^;;。
でも、幸いリヴオンのO角さんとU生さんは飲まれないみたいなので、安心です(笑)。
で、もうひとりのパネラーは「山科醍醐こどものひろば」のM井さん。
なんか聞いたことのある名前だなぁと思っていたら、おべんきょ場所のセンセから聞いたことがあったんですね。どこかでつながってるなぁ。悪いことはでけんなぁと思いながら、打ち合わせ開始です。

どうやら今回は「場」をどうつくるかみたいなことになりそうだなぁと思いました。
学校の中の「場」…。
たぶんいろんなところにありますね。例えば保健室。あるいは図書室の奥の方。あるいは生徒会室や放送室。
すべてが教員に管理されている学校において、その管理のすきまを縫って存在する「場」。それは偶発的に出現するかもしれないし、意図的につくりだすこともある。
たぶんそれがわたしがやっていることなんでしょう。に対してM井さんは学校外にそういう「場」をつくってる。で、O角さんは、そういうM井さんとわたしをつなぐ。

ところで、みんなで話しながら思っていたのは…。
学校の教員って、世間でいうほど「世間知らず」ではないと、わたしは思っています。思いもよらない広い世界を知っている人がけっこういます。
ただ、一方で思うのは、その中にはけっこう「学校と地続き」な広さの中にいる人もいるんじゃないかなってことです。
なんだろ…。
例えば、あるクラブ活動で全国レベルで交友範囲がある人がいるとします。この人、たぶんそれに付随して、そうとう広い世界を知っているんだろうなと思うのです。でも一方、それは学校と地続きな世界でもある。
まぁ、教員という仕事をしているわけですから、学校とまったく切り離された世界っていうのは難しいと思います。それは、例えば、別の業種であっても、やはりその業種からまったく切り離された世界で「もうひとつ」生きるのはとても難しいということと一緒です。
ただ、その「続き方」って大切かなぁと思いました。べたーとした続き方なのか、せまーく続いた先にあるのか。
わたしはできるだけせまーい続き方の先にあるような「地続き」でありたいなぁと思うのです。

中二病にまつわる一考察

自分のまわりにいる中二病の人…。
Hすいけさん、Kちゃん、Tーマス、Uじ。
なんか、わたしのまわり、中二病が多い(T_T)。類は友を呼ぶのかなぁ…。
と、ダメダメ先輩からひとことコメント
「中ニ病は、ある意味、ピュアでとんがってて、傷つきやすくて、だから、時々同じ人間同士集まりたくなるんです」
あー、だから(笑)。
でも、そんな集まり、たいへんですよね。迷惑ですよね(笑)。でも、「ほっとけない臭」がすごいからなんとかなってるんでしょう^^;;。

ところで気づいたことは、みんなどこかで「M」にかかわりがあります。
そもそも中二病ってなんだろ。
たぶん、誰もが一度は中二病にかかるんでしょうね。でもやがて「現実を知り」「あきらめる」ことで中二病菌が離れていくのかな。そして、中二病菌が離れていくタイミングによって、その後の人生が方向づけられるのかもしれません。
とても早期にあきらめた人は、まぁそれなりに現実に適合した人生を歩んでしまうのかな。で、遅くまであきらめなかった人は、現実に適合できない人生を歩まざるを得ないのかな。で、いまだあきらめてない人が中二病患者(笑)。
で、なんとなくではありますが、女性の現役中二病患者は少ない気がします。もしかしたら、人生のどこかで「あきらめる」ことを強いられてしまうからなのかな。それは、例えば高校卒業時点かもしれないし、大学卒業時点かもしれません。あるいは「結婚」なんていうのもそうかもしれません。いずれにしろ、人生の節目に「あきらめ」の要素は転がっているように思います。
でも、すべての女性があきらめてしまい、中二病菌が離れていくわけではない。きっと女性の中にも保菌者はいます。たぶん、フェミニズムって、そんな「保菌者」にとって、大きな救いとなるのかな。「保菌者でいていいよ」って思わせてくれるし、もしかしたら、それは「生きること」そのものとつながるのかもしれないな。だって、現役中二病患者が「中二病をやめろ」とか言われたら生きていけないもん。
そんなことをフラフラと考えました。