なぜ走るのか

夜、「某ショー」を見終わって、
「こいつら食ってばっかりやなぁ、うまそやけど」
と思いながら、次までのつなぎに、とりあえずN○Kにチャンネルをあわせて…。
と、いきなり山の中を走りまわってる人がいます。てか、崖じゃん。この人たち、なに考えてるんだ?
なにやら「ララムリ」という「走る民」の人々を取材した番組らしく、つい見てしまいました。
ま、考えたことがいくつか。
ひとつは、自給自足の生活に貨幣経済が入り込んでいること。そのことで、かえって生活は厳しくなっているかもしれないということ。だって貨幣経済なしの状態で「今年は豆が不作だ」となると「しかたない」としかならない。で他の何かを探してその不作をしのぐ以外方法がない。でも「今年は稼ぎが少ない」となると「ほなもっと働いて」とか「出稼ぎに」みたいになる。どちらがいいか悪いかはわかりません。たぶん、前者は死者が出る。でも、後者も死者が出る。単にうーんと思ったってだけのことです。
あとは…。
部族としての記憶かな。もともとは「必然」から走らなきゃならなかった。やがてもともとの必然はその必然性を失い、宗教的な意味を持つようになった。やがてその宗教的な意味をも忘れられ「走る」ことだけが残った。でも、走る。その「走る」もまた忘れられ「かつて走った民」となるのか、それとも走り続けるのか。番組は「走り続ける」みたいなところで終わってましたけどね。そこは「ロマン」ってやつなんでしょうか。
それにしても、その手の「記憶」ってやっかいかもしれません。すでに意味を失っていて、それそのものが自己目的化しているわけですから。もしもそれを変えたいと思ったら、自分はそこから出ていくか、出ていくのがイヤであれば、部族の「記憶」そのものを変質させなくちゃならない。
ちなみにわたしは毎朝駅の中を走りまわっています。こいつは…。理由はあってなきがごとしですね。

素人はこわい

かつて剣道やってる人に「剣道あるある」を見せたことがあったんですけど、その中に「実は素人がこわい」というのがあって、
「わかるわかる」
って笑ってはりました。つまり、素人は何するかわからないってことのようです。
ちなみに、うちの職場でも打開策が見つからない時「若い人の考えを」とか言うんですが、わたしは
「それ、考えることを放棄してるやん」
と常々思っていたりします。
まぁ、職場の場合はそういう方法を選択し、「若い人の考え」をヒントに次の一手を打つつもりですから、まぁいいとしましょう。
しかし、大学改革とかになると話は別です。
「人物本位」…。
何考えてるんだと。たかだか18歳の「人物」ってなんだと。人物ができていれば「リーマン予想」が解けるのかと。てか、「リーマン予想」に触れた数学者、みんなそのせいで人格が崩壊しちゃうとかいう話すらありますがな。
「なにが問題で、どんなデータな基づいて、何をどう変えたらいいか」
という論議抜きで、いきなり改革ありきってのは、一番大学で行う研究とは縁遠いところにある気がするのですが…。さんなことをする素人集団が、一体何を改革できるかと。
ま、人物本位で選ばれた「教育再生実行会議」だから、そうなるんでしょうね。

雑談

今日、京都朝鮮第1初級学校への差別街宣が「人種差別」という判決が出たとの情報が、あちこちからまわってきました。
てことで、授業の最初の雑談で「出たなぁ」と、「出たという事実」を伝えました(笑)。すると、ある子がどうやらいろいろ調べているみたいで、「それ、在特会のことやろ」とか、いろいろ聞いてきました。それに波及して、数人の子どもがまたまたいろんな話をしていました。
そうかぁ。こういうことに興味を持ってくれている子、いるんだ(^^)。

表現

この一週間、ずっと悩み続けてきた「タスク」がようやく終了しました。正確には昨日ひとまず終了していたのですが、一晩寝かせたかったので、提出せずにおいていました。で、今朝
「あ!これだ!」
ってことに気づいて、ようやく提出までこぎつけたわけです。

にしても、表現ってやつは難しい。
わたしの場合は、かつては音楽で表現してみたいとか思っていた時期もありましたが、根っからの練習嫌いな性格が災いして、とうていできるものでもなく。けっきょく、「言葉」で表現しようと考えはじめたって感じでしょうか。
「考え」や「思い」は、それ単体では相手に伝えられないんじゃないかなと思います。必ず何か「器」が必要になる。その器は、例えば「音」であったり「色」であったり「味覚」であったり、さまざまなものがありえます。
でも、いずれにしろ「不定形」な「思い/考え」を「器」に盛りつけた瞬間、「思い/考え」は本来のものと少しずれてしまう。でも、「器」なしで「思い/考え」は存在し得ない。そんなジレンマがあるように思います。
それでも、「思い/考え」ができるだけそのまま出るように、「器」の形を考え、盛りつけ方法を考え、もしかしたら「器」を創作してまでして、「思い/考え」を「器」に盛りつけて、そっと差し出す。その営みを「表現」というのかな。
逆に言うなら、ひたすら考えて差し出した「表現」であれば、ほんの少しの盛りつけ方の変化で、突然色鮮やかに「思い/考え」が浮かび上がることもある。
そのために、「寝かせるための一晩」が必要なんじゃないかな。
そんなことを考えました。

ま、ただ今回の場合は着手した月曜日が実は〆切だったというオチはあるのですが…^^;;。

あきらめではなく

来週から中間試験です。一週間くらい前になると、ボチボチ試験範囲も終わりはじめて、復習の時間へと移行していきます。
先週試験範囲を終えて、今日から復習に入るクラスがひとつ。あした終わるクラスがひとつ。たぶん明後日終わるクラスがひとつ。
問題は、この「復習」の時間をどう使うかなんですよね。
ここで遊んでしまうヤツがいるんですが、たいていそういうヤツは試験はボロボロです。まぁ、何度も繰り返してるので、マヒしてるんでしょうね。で、「どうせできない」ってあきらめる。
そうそう。この間、こんなことを生徒に言いました。

君たちと大学生。あるいは大学生と大学院生の違いはなんだと思う?
勉強ができるかどうかじゃないよ。大学院生よりはるかに勉強ができる大学生はいるよ。大学生よりはるかに勉強ができる高校生はいるよ。違いはそこじゃない。違うのはね。
「わからない」と思った時にどうするかなんだ。
勉強ができない高校生や大学生は「わからない」と思った時にあきらめるんだ。でも、勉強ができないけど大学院まで行く人は、「わからない」と思った時「考える」んだ。そのほんの少しの違いなんだよ。

わかるかなぁ…^^;;。

器用さと不器用さ

はたしてわたしという人間は器用なんだろうか不器用なんだろうか。
たぶん「そら器用やろ」と言われてしまいそうなんですが、たぶん一概にはそうは言えないかも…。
たしかに器用なんですが、そして器用だからなんとかやってられるんですが、その「なんとか」ってなってしまうのは不器用だからなんじゃないかと。
例えば、AとBがあって、選択を迫られる。器用な人はどちらかを選択できる。もしかしたらその選択の根拠もきちんも説明できるかもしれない。あるいは、説明できないまでも、「選択した事実」そのものが態度表明でもあるし、それをまって説明とすることも可能です。
でも、選択はわたしにとってとても苦手なことなんです。選択しない方法はふたつあって、ふたつともとるか、ふたつとも捨てるか。でも、後者はたいていの場合「ふたつとも捨てる」ことの説明を必要とする。わたしはこれをする器用さがない。なので、「ふたつともとる」という選択肢しか残されていない。で、「なぜふたつともとるのか」という説明を求められたら、説明する器用さを持ちあわせていないので、沈黙と笑顔でごまかす(笑)。でもそれでは納得してもらえない。なので、「ふたつともとっても大丈夫」ということを現実にやりきるという「行為」で説明しようとする。
問題は、この「行為」をする器用さを持ちあわせていることです。なので、とりあえず納得してくれるんだけど、根本的な解決にはなっていない。単に解決を先送りにしているだけなんですよね。で、いずれ破綻する。
これ、たぶん不器用なんだと思うんですけどねぇ…。

教え子からのメール

わたし、基本的に冷たい人間というか、記憶力がないというか、そういう人なので、卒業生の記憶がほとんどない人間です。まぁ、卒業生と出会ったら、またそこで新たに関係をつくりなおせばいいかと思っているフシもあります。なので、卒業生からわたしに連絡をとってくることはほとんどありません。
そんなわたしのもとに、一通のメールがきました。
わたしにとっては、なぜかとても記憶に残る生徒でした。で、その卒業生もわたしのことが記憶に残っているそうな。
そのメールの中に、わたしがかつてその卒業生に伝えた言葉が書いてありました。
「美術と数学は遠いようで、実は1番近いところにあるんだよ」
あぁ、少し気恥ずかしいですね。数学の何たるかを未だに知らないわたしが、18年も前によくぞ言ったものだとは思います。
でも、数学が苦手で美術が得意だったその卒業生に、数学の魅力・数学の美しさを伝えたかったんです。そして、いまでもやっぱり
「美術と数学は遠いようで、実は1番近いところにあるんだよ」
って思ってます。

「やりたいこと」と「やること」と

朝、放送部に行って
「昨日、どうやった?」
みたいな会話。
昨日、地元の警察の人が来られて、防犯放送のアナウンスをしてほしいと。ついては収録してほしいと。
で、わたしは放送部室に連れて行って
「この人から話聞いて、ちゃんとしたげてね」
「あとは適当にどうぞ」
と言って部屋を出たのですが…。
その警察の方、わたしが去ったあと
「好き放題してるなぁ」
とつぶやいたとか。

いや、そりゃ好き放題してますよ。してますとも。でもねぇ…。
例えば放送部にかかわって好き放題するためには、長い歴史もあり、また歴史によっかからずに、いまもいろんなことをしているんですよ。それをすっ飛ばして、「パッと見て」好き放題はないだろうと。

教員って、自分がしたいことがあって、それにあう生徒を好む傾向にあるような気がします。その最たるものが「部活動」です。なので、部活動に力を入れる教員がいるのはよくわかります。あるいは、不本意な部活の顧問になるとテンションだだ下がりなのも、これまたよくわかります。
で、双方のやりたいことが一致しているかのように見えるから「(教員が)やらせる」ことと「(生徒が)やる」ことのギャップが少なくなる。で、「やらせる」ことは実は自分の「やらたいこと」っていう意識が飛んでしまって、「やらせる」=「生徒の(自己実現の)ため」ってなってしまう。
ところが、傍から見ると、その姿は「生徒のためにやってる」ように見えるし、とても手をかけているように見えるので、好き放題やっているようには見えないんですよね。
で、わたしはそういう方向をとりたくないんですよね。子どもたちが「やりたいこと」を探し実現するために、わたしはなにができるのかを考える。もちろんわたしにも「やりたいこと」はあるわけですが、そして目指す方向はあるわけですが、それは強制したくない。もしもわたしの「やりたいこと」と子どもたちの「やりたいこと」を一致させようとするなら、子どもたちが納得し、自ら選んだという意識を持つまでの「しかけ」をします。それは、対話やボヤキや妥協やあきらめや、時としてはケンカもあっていいと思っています。そうやってすりあわせてきた結果が「いま」なわけです。そこでは「(わたしが)やりたいこと」と「(生徒が)やる」ことの不一致を前提として、もしも一致すれば、それは「(生徒が)やりたいこと」だと思える。だから任せられる。
いや、違いますね。「いつきちゃんが言うんやからしゃーないな(笑)」ですね(^^)。そういう関係だってことです。で、生徒が「しゃーないな」ってつきあってくれる姿を見たら、そりゃ「好き放題やっている」ように見えるでしょう。だって、わたしが「やりたいこと」を子どもたちが「やってくれる」んですからね。

あ、そう言えば、どこぞのえらいさん(笑)が「やりたいこと」を聞いてくれないから「やらせる」みたいな通知を出したとか。
強制とチェック。その手法は「教員として」は最低のやり方ですな。

幸せってなんだっけ

かつて
「幸せーってなんだっけなんだっけ
ポン酢しょうゆのあるうちさ」
というコマーシャルがありました。
この「あるうち」の解釈をめぐって論争が一部でありました。つまり「ある家(うち)」なのか「ある間(うち)」なのかってことです。まぁ、関西圏だけかもしれませんが…。
でも、最近あらためて「幸せってなんだろう」「幸せをもたらすものってなんだろう」「幸せってどうやればできるんだろう」「人を幸せにすることって可能なんだろうか」。いろんなことを考えさせられました。