朝ごはんを食べて一段落して、これからしばらくの自分の動きを考えます。「そろそろヤク切れだな。てことは、血液検査の結果もらいにいって、ヤクの処方のための予約をとって…」って考えてたら、なんか「なんでこんなことしてるんだろ」って、ふと思いました。今や骨粗鬆症の薬まで飲むようになってますからね^^;;。
まぁ、もちろんいいんですけどね。悔いはまったくない。それどころか、ケアしながら生きていこうと思ってるし、決してそういう生き方は悪くないと思ってはいますがね。
ま、ちょっとだけネガティブな朝だったってことです。
カテゴリー: 考え
意識化する
朝、5時半に起きる。やかんを火にかけて、コーヒー豆を挽いて。お茶っ葉準備して、冷凍食品をフライヤーに放り込んで、電子レンジでチン。たまごを取り出して、ダシと一緒に混ぜ混ぜ。冷凍食品が揚がり、コーヒーを淹れたら、最後にだし巻きづくり。すべてを決まった大きさに切り分けて、使った道具を洗う。パンをトースターに放り込んで、ここまでで23分。さて、7分だけ横になろう。
毎朝繰り返されるルーティンワーク。
最も短い時間でできるように最適化を繰り返し、無意識の中でもできるところまで習熟したルーティンワークです。
でも、それを無意識で行わない。ひとつひとつの行為は意識化する。
コーヒーをおいしくいれるためには?たまごをきれいに溶くには?
無意識を意識化することで、一つ一つの行為を検証します。
価値
今日はかなり早くお家に帰れたので、テレビっ子になれそうです。
晩ごはんを食べ終えてテレビをつけると、おお!「子連れ狼」!いやぁ、懐かしい。てか、いま、こーゆーの、流行らないのかなぁ…。
と思ったけど、すぐに食器洗い(笑)。再び見たら「冥府魔道」とか言ってました。エンディングじゃん(;_;)。
気を取り直して、チャンネルをザッピング。なぜか「和風総本家」とか見てしまいました^^;;。
で、寝ようかどうしようかと思いながら、ふとNHK。
あかん。おもしろすぎる!
やっていたのは「世界で一番大きなお金 ヤップ島」でした。
ほとんど見終わったところでパートナーがお風呂から上がってきて、ひとこと。
パ「あの石貨って、なんなん?」
い「いやぁ…。それは…」
パ「だって、見てたんでしょ?」
い「うーん…。なんちゅうか…」
パ「だって、解説してる人、いたやん」
い「いや、あれ、現地の人で…」
とにかく、番組の結論は「わからん」なわけです。ま、それでいいんだと思います。
それにしても、平和をもたらす貨幣…。
ものを得るためではない貨幣。その価値は交渉しだい。
もしかしたら、石貨の交換の対象となるモノのうちのひとつは例えば「幸せ」みたいなものの象徴と考えることができるかもしれません。そして、その「幸せ」って、自分の幸せをあげるというより、相手に幸せをもたらすみたいな。つまり、自分の「幸せ」が減るわけではない。だから、石貨をなんからの代償の象徴として渡すことによって何かがなくなったり奪われたりするわけではないし、石貨を奪ったとしても、石貨そのものには「意味づけされた価値」がないので、その行為の意味がない。というより、「奪う」という行為こそがマイナスの価値を生むとしたら、そういう行為そのものは起こらない。とするなら、石貨は争いのタネにはなりようがない。
もちろん文献を読んだわけでもないし、さらに番組も途中からしか見てないし、しかもウィスキー呑んでたから、なーんにもわからないんですが、でも、石貨というか、ヤップ島の人々のものの考え方って、頭のスイッチを入れてくれる存在ではありました。
ちなみに、ヤップ島の中にも都会はあって、そこでは石貨ではなくドルが流通してるとか…。
研究授業
今日は新採教員の研究授業がありました。同じ数学なので出なきゃならず、まぁ、見に行ったのですが…。
わたし、数学難しくてわからないから、授業の中身はあまり関心がないんですよね。となると、まぁ、わかるのは空気づくりくらいですか。で、空気づくりなんて、1時間見なくても、5分も見れば充分です。でもまぁしゃーないか。
それにしても子どもたちはえらいです。シチュエーションわかってるから、ちゃんと生徒の役割をこなしています。ま、たぶん日常とは違うんでしょうけど、そこはそれ、劇場だと思えば悪くないです。
で、合評会。時間がないので発言は「エライさん」だけです。でも、みなさん、エエこと言うてはりました。ふむ。参考になりますね。
でもなぁ…。授業はライブなんですよね(笑)。
TKY
今回のリビングライブラリにはアスペルガー当事者の方も本として参加されます。
その方、ウェルカムパーリーの時にその人が「空気が読めない」ってことをすごく困ったこととして話しておられました。で、わたしは、かつてある人が「自分はAKY」って言ってたことを話しました。「敢えて空気を読まない」です。さらに「AKY」を聞いたうちの上の子どもが「オレはMKYだ」って言ってたって話しました。「むしろ空気を読まない」です。
さらに「わたし、KYっ言葉が大キライなんです」って言いました。「空気を読むから差別がある。差別を許さない人間は空気を読まない」っていうことです。
で、アスペルガーの人に「あなたはTKYですね」って言っちゃいました。「天然空気を読まない」です。で「あなたは生まれながらに差別を許さない人間ですよね。すごいです」って言ったら、すごくうれしそうにしてました。「空気が読めないことをはじめて「いいこと」って言われたのははじめて」っていっておられました。今まで空気を読めないことを、よく言われたことがないんですね。
もちろん、「読まない」と「読めない」の差はじつはあるんですけど、でも、「KY」ってとても大切なことなんじゃないかな。
社会学と哲学
起床は朝7時過ぎ。起きるのはしんどいけど、大切な農作業の時間です。
てことで、玉ちゃん農園で援農。作業内容は草引きです(笑)。
ひたすら、黙々と草を引きます。引いているうちにいろんなことを考えます。
たぶん、草引きってコツはあるけど効率はないのかな。効率を求めると、どこかでなにかがなくなる。それがあとあと効いてくる。だから、効率を求めず、ただ淡々とていねいにこなしていく。なんか、教育と共通するのものがある気がしました。
手は動きます。でも、頭は考えます。本も読めないし、誰かと話もできません。ひたすら一人の作業をしながら「考える」のです。そうやって考えているうちに、農業労働って、社会学とは相性が悪そうだけど、哲学とは相性がいいんじゃないかという気がしてきました。
てことで、12時のサイレンが鳴って農作業終了。
沸騰の毎日
わたしの沸点が低くなったのか、はたまた沸騰直前の状態が続く状況なのか、はたまた沸騰することが多すぎるのか。
不信感を生み出すものと不信感がもたらすもの
Aという課題とBという課題がありまして。で、両方ともとても大切な課題でございまして。でも、「Aばっかりやってる」なーんてみんな(笑)が思ってしまう状況がございまして。
やがて「Bをもっとやらなくちゃ。Aの時間をへつってBをしよう。Bの中でもAの課題はできる」という正論が出てまいりまして。
でも、過去の事例を見ると、そういうふうに「Bの中でやる」なんてやってしまうとAはうやむやになってしまうんですよね。
あるいは「Aはやるけど型にはめすぎ」とかいう意見が出てまいりまして。で、「じゃ、フリーハンドで」ってやると型どおりにしかしなかったりするわけで。
ま、そんなこんなで、やはり一定の強制力を働かそうと思ってしまうわけです。
そうすると、まぁいろんな感情もプラスして「Bという課題もやらなくちゃ。Bの中でもAはとりくめる」なーんていう正論が出てまいりまして(笑)。
なにをどうすりゃいいのか…。
そうか!
そんな中で信頼できる人を探し、見つけ、つながることだ!
生徒たちと一緒にやってきたことだった。
部落をどう教えるか
朝起きると絶不調です。ま、覚悟の上ですからしかたないです^^;;。
今日は昨日の中倉さんの講演を聞いた子どもたちのクラスがふたつあります。さて、どうするか…。
やはり
「昨日の講演、どうやった?」
から入らなきゃならないでしょう。だって、昨日呑みながら話してたのは「講演はネタ振り。講演のあとの事後学習こそ大切」ってことでしたから。
すると、これまた定番の
「部落がわからへん」
って答えが返ってきました。さてどうするか。逃げるかまっすぐ受けとめるか。やはり、昨日の今日だからこそ受けとめなくちゃならないでしょう。受けとめるにしてもどう受けとめるか。やはり、歴史抜きには説明できないでしょう。じゃ、歴史を語る?それではたぶん伝わりません。
よし!
仲間の結束を強めるための簡単な方法、知ってる?それはね、誰かをのけものにすることやねん。「あいつは違う。わたしら同じだもんねー」ってやるの。「同じ」であるためには「違う」がどうしても必要になるねん。
それは、昔も今もやっている。例えば、中国人に対して「声が大きくてうるさい」を理由にして「あいつらは違う=わたしら同じ」ってやってる。在日朝鮮人に対して「在日特権」とか言いながら同じことをやってる。その前は、琉球にもアイヌにもやってきたし、今もまだ残ってる。そして、そのずっと前の平安時代、まだ「国」なんていう概念が希薄だった頃、共同体の結束をはかるために排除されたのが「部落」の源流にあたるねん。部落の人らは、もともとはケガレたものをキヨメる役目を担ってきたんや。それはなくてはならない役割やったんやけど、その人らと交わるとケガレが伝染るから排除してん。例えば、死んだ牛とか馬をのける役目をする代わりに、その牛とか馬をもらえた人がいたねん。義務と権利やな。革、高級品やろ。皮をはいで加工するのはすごい技術がいるねん。で、その人らは皮をはいで加工して殿様に収めたり、余ったのを売ったりしてん。だから、けっこうお金があってん。でもな、牛や馬の死に触れるからケガレたものとして排除されてん。やがてな、明治になって、義務がなくなってん。だから、ケガレたものではなくなってん。その代わり、権利もなくなりお金もなくなってん。そしたら、貧乏になるやろ。そしたら「貧乏や」って排除されてん。でな、こんな劣悪な環境ではあかんって、施策をやってん。ほならな「なんであの人らだけ」って排除されてん。
つまりな、排除することが目的やから、理由はどうでもええねん。「ケガレてる」でもええし、「皮をはいでる」でもええし、「お金持ち」でもええし、「貧乏」でもええし、「あの人らだけずるい」でもええし、「不祥事」でもええし。そのあとに「ほらね、だから。わたしらとちゃうねん」がつく。で、「わたしらおんなじやねー」ってなる。
だから「部落ってなに?なんで部落が差別されるん?」の答えなんてないねん。ぜんぶ理由やねん。差別することそのものが目的やねん。でな。わたしな。そんなんやから、差別なくすの、簡単やと思ってるね。でも、難しいなって思ってるねん。
結局な、差別なくそうと思ったら、誰かを排除せずに人と人とがつながる方法をみんなが身につけたらええねん。たったそれだけのことやねん。とても簡単なことやねん。でな、そのためのカギはみんなが持ってる。君たちもわたしも持っている。
でもな、それをみんなが身につけるのがすごいむずかしいねん。だからな、みんながそれを身につけるための学習をせなあかんねん。それが人権学習やねん。そのカギを見つけることや使い方を学ぶための学習やねん。
うわ。30分もしゃべってしもた。ほな、数学するで(笑)。
ま、正確ではないです。でも、歴史を教えることが目的じゃないんです。歴史から学ぶことが目的なんです。だから、こんなもんで許してもらいましょう(笑)。
あ、わたし、数学の教員でした。専門外やわ(笑)。
要求レベルをさげない
何が高くて何が低いかということはとりあえずおいといて。
例えば、学力と授業。
学力が低いと、いろいろたいへんです。なぜなら、諸矛盾が授業の中に集中するからです。なのでとても疲れる。で、要求しても応えてくれない。そこで、要求するレベルをさげて、なんとかそこで応えてくれるようにする。
でも、それを繰り返すと、要求レベルがどんどん下がっていく。で、下がっていくのは相手のせいと思う。なので、やがて要求しなくなる。
でも、これではいかんなぁと常々思ってます。なぜなら、要求しないということは相手を人間扱いしていないことにつながるからです。
わたしは願わくばそうではありたくない。なので、要求レベルを下げないでおこうと、常に意識化したいなと。
意識するのをやめた瞬間、わたしの場合、要求レベルは下がっていきます。なので、常に意識しないといけない。で、どうやれば意識できるか。それは、相手(生徒)を尊敬し続けることかなと思っています。尊敬することはあきらめないことです。あきらめなければ、常に要求レベルを下げないでいられる。なぜなら、人間として接するからです。
要求レベルをさげないことは、自分への要求レベルをさげないことにつながります。それは、自分にとってとても大切なことだと思います。
さて、明日もがんばろう…。