ひたひたと

夕方仕事を終えて駅へ向かう道すがら、国会に続々と人が集まりはじめているという情報が流れてきました。大阪でも情宣活動をやるらしい。京都は…。
ありました。
よし、行こう!ここで行かなければ、子どもたちにあわせる顔がない。
とりあえず、自民党京都府連の前へ。すると、主力部隊はすでに次の場所に移動したみたいです。でも、そこにひとりおられたので、急造のプラカを持って抗議。
しばらく立ったあと、コンビニに寄ってネットプリントして四条河原町へ。到着すると見知った顔がたくさんいます。あたりまえです。この人たちが黙っているはずがない。
80年代の歌が、ふと頭をよぎります。

我らはプリパだ チョッタチョア
ともに死にともに生き チョッタチョア
膝を折って生きるよりも
立ったままで死のうじゃないか
我らはプリパだ

情宣活動中も、少しずつ人が増えていきます。みなさん、仕事を終えて、とりあえず駆けつけてこられたんでしょうね。
7時からはデモ。京都のデモはあいも変わらずええ加減です。でも、たぶんわたしはこういう空気の中で育ってきたんでしょうね。
本日のデモ参加者は実数107人だとか。わたしみたいに、昼に知った人も、その中にはたくさんいると思います。たしかに少ないけど、でも多い。

家に帰って、冷えた身体をお風呂で温めて、ビールを飲んで…。
TLを見たら、本会議でも可決との情報…。
報道ステーションを見て、その経過を目に焼きつけて、さっさと寝ることにしました。

それにしても、人々が「自分には関係ない」って思うところから、ジワジワ来る気がします。実際には関係あるのに…。
わたしが「黙らない」って決めたのは教育基本法改悪の時です。あれ、実は在日外国人も含め、すべての子どもたちに関係がある。ということは、すべての将来の大人たちに関係あることなのに、たぶん人々は「教員の世界のこと」って思ってたんじゃないかと思います。今回も「マスコミと公務員のこと」なんでしょうね。さらに言うと「派遣労働法」の問題も「正社員には関係ないこと」だし「労働特区」も、関係ないことなんですよね。
でも、そうやって「特定の人」を繰り返しながら、確実に「オセロの隅」をとっていこうとしている。そのことが、なぜ無関心な人はわからないのかなと思います。ま、それを「無関心」っていうわけですけどね。
減反も「農家の問題」だし「努力せずにお金をもらうのは…」って避難する。それは生活保護へのバッシングや部落へのバッシングと同じです。すべてはつながってるのに、そこに気がつかない。どころか、関係ないこと、もっと言えば「そうだそうだ!」とバッシング側にまわる。
なんなんだろう…。
最近考えていること。

被差別者だけが差別されていると考えることができた時代は、実は被差別者が防波堤になってわたしたちを守ってくれていた。だからこそ、そこで反差別の闘いをすることは、実はわたしたちを守る闘いだった。

どこで食い止められるのか?

ありのまま…

今日は見たい番組がバッティングしまくりです。ニュースで日比谷の状況も見たかったし、ケンミンSHOWで笑いもしたかった。でも、結局見たのは先週に引き続き「世界イチバン」でした。
今日は「世界一陽気なお墓 ルーマニア」。実は見はじめた時は、おもしろくなければいつでもチャンネル変えられるようにと思っていたんですが、どうしても変えられませんでした。というか、いつの間にか家族全員そろってたし^^;;。

墓標をつくる人も、お葬式で歌うための歌詞をつくる長老も、死者のことをとってもよく知ってます。墓標をつくる人は、死んだ人がきっと残したかったであろうメッセージを墓標に刻もうと、懸命に想像力を働かします。歌詞をつくる長老は、死者の「日常」を思い出しながら「事実」を赤裸々に綴ります。いずれの人も、想像する力とふだんのつながりが、すごく大きいんだなぁと思います。

なぜチャンネルを変えられなかったのか…。
それは、このどーしよーもない日本だからこそ、逃げたくなる。でも、そこから逃げずに、そして、あの淡々とした「生」と、その後に当たり前に来る「死」を見たいと思ったのです。そしてそれが当たり前のこととしてある、おそらくは半径数メートルのコミュニティを見たかったのです。でないと、自分の軸が動きそうになります。もちろん、あの村にわたしの軸があるんじゃないですけどね^^;;。
そして、やっぱり見てよかった。
番組の最後、まだ生きているけど、すでに墓標と歌をつくってもらっているおばあさんと、その娘さんが登場しました。歌の中に「100歳まで生きた」って節がありました。それが、まわりの人とおばあさんの「つながり」なんだろうなぁと思いました。

番組を見終わって、ふと気づきました。あのおばあさんは死を恐れていない。それは誰にでもくるものとして引き受けています。死が来たら天に行くだけ。ただそれだけのことです。
でも、たぶん秘密保護法を通そうとやっ気になっている人々は死を恐れているんでしょうね。どちらが深く思索をしているんだろう…。

こんな朝もある

朝ごはんを食べて一段落して、これからしばらくの自分の動きを考えます。「そろそろヤク切れだな。てことは、血液検査の結果もらいにいって、ヤクの処方のための予約をとって…」って考えてたら、なんか「なんでこんなことしてるんだろ」って、ふと思いました。今や骨粗鬆症の薬まで飲むようになってますからね^^;;。
まぁ、もちろんいいんですけどね。悔いはまったくない。それどころか、ケアしながら生きていこうと思ってるし、決してそういう生き方は悪くないと思ってはいますがね。
ま、ちょっとだけネガティブな朝だったってことです。

意識化する

朝、5時半に起きる。やかんを火にかけて、コーヒー豆を挽いて。お茶っ葉準備して、冷凍食品をフライヤーに放り込んで、電子レンジでチン。たまごを取り出して、ダシと一緒に混ぜ混ぜ。冷凍食品が揚がり、コーヒーを淹れたら、最後にだし巻きづくり。すべてを決まった大きさに切り分けて、使った道具を洗う。パンをトースターに放り込んで、ここまでで23分。さて、7分だけ横になろう。
毎朝繰り返されるルーティンワーク。
最も短い時間でできるように最適化を繰り返し、無意識の中でもできるところまで習熟したルーティンワークです。
でも、それを無意識で行わない。ひとつひとつの行為は意識化する。
コーヒーをおいしくいれるためには?たまごをきれいに溶くには?
無意識を意識化することで、一つ一つの行為を検証します。

価値

今日はかなり早くお家に帰れたので、テレビっ子になれそうです。
晩ごはんを食べ終えてテレビをつけると、おお!「子連れ狼」!いやぁ、懐かしい。てか、いま、こーゆーの、流行らないのかなぁ…。
と思ったけど、すぐに食器洗い(笑)。再び見たら「冥府魔道」とか言ってました。エンディングじゃん(;_;)。
気を取り直して、チャンネルをザッピング。なぜか「和風総本家」とか見てしまいました^^;;。
で、寝ようかどうしようかと思いながら、ふとNHK
あかん。おもしろすぎる!
やっていたのは「世界で一番大きなお金 ヤップ島」でした。
ほとんど見終わったところでパートナーがお風呂から上がってきて、ひとこと。
パ「あの石貨って、なんなん?」
い「いやぁ…。それは…」
パ「だって、見てたんでしょ?」
い「うーん…。なんちゅうか…」
パ「だって、解説してる人、いたやん」
い「いや、あれ、現地の人で…」
とにかく、番組の結論は「わからん」なわけです。ま、それでいいんだと思います。
それにしても、平和をもたらす貨幣…。
ものを得るためではない貨幣。その価値は交渉しだい。
もしかしたら、石貨の交換の対象となるモノのうちのひとつは例えば「幸せ」みたいなものの象徴と考えることができるかもしれません。そして、その「幸せ」って、自分の幸せをあげるというより、相手に幸せをもたらすみたいな。つまり、自分の「幸せ」が減るわけではない。だから、石貨をなんからの代償の象徴として渡すことによって何かがなくなったり奪われたりするわけではないし、石貨を奪ったとしても、石貨そのものには「意味づけされた価値」がないので、その行為の意味がない。というより、「奪う」という行為こそがマイナスの価値を生むとしたら、そういう行為そのものは起こらない。とするなら、石貨は争いのタネにはなりようがない。

もちろん文献を読んだわけでもないし、さらに番組も途中からしか見てないし、しかもウィスキー呑んでたから、なーんにもわからないんですが、でも、石貨というか、ヤップ島の人々のものの考え方って、頭のスイッチを入れてくれる存在ではありました。

ちなみに、ヤップ島の中にも都会はあって、そこでは石貨ではなくドルが流通してるとか…。

研究授業

今日は新採教員の研究授業がありました。同じ数学なので出なきゃならず、まぁ、見に行ったのですが…。
わたし、数学難しくてわからないから、授業の中身はあまり関心がないんですよね。となると、まぁ、わかるのは空気づくりくらいですか。で、空気づくりなんて、1時間見なくても、5分も見れば充分です。でもまぁしゃーないか。
それにしても子どもたちはえらいです。シチュエーションわかってるから、ちゃんと生徒の役割をこなしています。ま、たぶん日常とは違うんでしょうけど、そこはそれ、劇場だと思えば悪くないです。
で、合評会。時間がないので発言は「エライさん」だけです。でも、みなさん、エエこと言うてはりました。ふむ。参考になりますね。
でもなぁ…。授業はライブなんですよね(笑)。

TKY

今回のリビングライブラリにはアスペルガー当事者の方も本として参加されます。
その方、ウェルカムパーリーの時にその人が「空気が読めない」ってことをすごく困ったこととして話しておられました。で、わたしは、かつてある人が「自分はAKY」って言ってたことを話しました。「敢えて空気を読まない」です。さらに「AKY」を聞いたうちの上の子どもが「オレはMKYだ」って言ってたって話しました。「むしろ空気を読まない」です。
さらに「わたし、KYっ言葉が大キライなんです」って言いました。「空気を読むから差別がある。差別を許さない人間は空気を読まない」っていうことです。
で、アスペルガーの人に「あなたはTKYですね」って言っちゃいました。「天然空気を読まない」です。で「あなたは生まれながらに差別を許さない人間ですよね。すごいです」って言ったら、すごくうれしそうにしてました。「空気が読めないことをはじめて「いいこと」って言われたのははじめて」っていっておられました。今まで空気を読めないことを、よく言われたことがないんですね。
もちろん、「読まない」と「読めない」の差はじつはあるんですけど、でも、「KY」ってとても大切なことなんじゃないかな。

社会学と哲学

起床は朝7時過ぎ。起きるのはしんどいけど、大切な農作業の時間です。
てことで、玉ちゃん農園で援農。作業内容は草引きです(笑)。
ひたすら、黙々と草を引きます。引いているうちにいろんなことを考えます。
たぶん、草引きってコツはあるけど効率はないのかな。効率を求めると、どこかでなにかがなくなる。それがあとあと効いてくる。だから、効率を求めず、ただ淡々とていねいにこなしていく。なんか、教育と共通するのものがある気がしました。
手は動きます。でも、頭は考えます。本も読めないし、誰かと話もできません。ひたすら一人の作業をしながら「考える」のです。そうやって考えているうちに、農業労働って、社会学とは相性が悪そうだけど、哲学とは相性がいいんじゃないかという気がしてきました。
てことで、12時のサイレンが鳴って農作業終了。

不信感を生み出すものと不信感がもたらすもの

Aという課題とBという課題がありまして。で、両方ともとても大切な課題でございまして。でも、「Aばっかりやってる」なーんてみんな(笑)が思ってしまう状況がございまして。
やがて「Bをもっとやらなくちゃ。Aの時間をへつってBをしよう。Bの中でもAの課題はできる」という正論が出てまいりまして。
でも、過去の事例を見ると、そういうふうに「Bの中でやる」なんてやってしまうとAはうやむやになってしまうんですよね。
あるいは「Aはやるけど型にはめすぎ」とかいう意見が出てまいりまして。で、「じゃ、フリーハンドで」ってやると型どおりにしかしなかったりするわけで。
ま、そんなこんなで、やはり一定の強制力を働かそうと思ってしまうわけです。
そうすると、まぁいろんな感情もプラスして「Bという課題もやらなくちゃ。Bの中でもAはとりくめる」なーんていう正論が出てまいりまして(笑)。

なにをどうすりゃいいのか…。
そうか!
そんな中で信頼できる人を探し、見つけ、つながることだ!
生徒たちと一緒にやってきたことだった。