で、放課後、
「数学教えて」
という子が来まして…。なんでも、看護学校を受けるとか。なるほど…。
まぁ笑いました。ほんっとにいろんなことを忘れてるんですね。
ま、いちから全部教えるのもひとつの方法かもしれないけど、なーんか違う気がするのはいつものことです。なので、記憶を呼び覚まさせるためのヒントを提示しながら、とにかく
「思い出せ!」
と。
試験の時にはひとりで解かなきゃならんのです。今解くことが大切なんじゃなくて、その時に解けることが大切なんです。
あ、これって、交流会といっしょだな(^^)。
カテゴリー: 考え
「本名を呼び名のる」
「本名を呼び名のる」という教育運動がある。よく「本名宣言をさせる」と誤解されるが、それは違う。「呼ぶ」が、なぜ先にあるのか。それは、「本名」とは、呼ぶ側、ここでは日本人の側の問題であるということ。「呼べない」自分とは?そういう社会をつくっている自分とは?そこからスタートする。
というのは、とある一連の「やりとり」(論争とか論議とかって言葉を使えるのかどうか^^;;)に刺激されてつぶやいた内容です。
で、更にこの前提として「本名って何?」っていう論議がありまして。
この論議、たぶん、いまだ結論が出ないまま、それでも論議を抱えながら、それぞれがそれぞれの「本名」「民族名」「名のりたい名前」を「表明」しながら生活をしています。そしてそれが「表明」できないとするなら、あるいは「表明という思考から疎外されている」とするなら、それは「表明を害する」「表明から疎外する」社会に問題の所在があると考える立場をわたしはとっています。
この考えは、もちろん「本名を呼び名のる」運動から教わったものだし、ここ数年の「障害の社会モデル」から教わったものです。
翻って、トランスにとっての名前は?
いまだ自分の中で結論はついていません。でも、わたしが主体的にかかわるコミュニティでは「呼ばれたい名前」「名のりたい名前」を教えてもらうことにしています。これが「本名を呼び名のる」とどうリンクするのか。リンクしないのか。リンクさせる必要はないのか。いまだ結論はついていません。
でも、名前にまつわることは、それなりにめんどうであるということ。でも、そのめんどうさこそが大切であることを、「パラムの会」は示しました。
そういう蓄積の上に、いまのわたしはいます。
また、日をあらためて、ゆっくりとどこかに書きたいけど、急ぎの大きい仕事があるからなぁ(;_;)。
「教えること」は誰のためか
クリスマスだというのに呼ばれる子らがいるわけで。赤点をとったヤツらです。で、40分ほどの勉強会をするわけですが…。
わたしはめんどくさいので、ダメダメ先輩から送られてきたペーパーを読みながら教えようかと。
いや、別に教えてもいいんですけど、それは勉強ではない。そう思うのです。
S「わからん」
T「ん?これはな、こうやってこうやって」
こんな風景はよくあることなんですけど、わたし、やりません。
S「わからん」
い「ん?問題読んだ?」
S「読んでへん」
い「アホか(笑)。これ、何を求めるの?」
S「x」
い「そやな、そのためになにをするんやったっけ」
こんな感じで、わたしは教えない。子どもの中にある答えに至るヒントを思い出させるのが、「勉強会」だと思っています。
とにかく子どもがその問題といかに向き合うのか。子どもの中にある小さな引っかかりに気づくのか。それが、自分の力で問題にチャレンジし、さらに次の問題にチャレンジするモチベーションにつながると考えているからです。
で、昨日もそんな感じでやっていたんですが、たぶん自分のクラスの子のめんどうを見に来てくれたんでしょうね。他教科の教員がそこに来て
「これはな、こうやってこうやってこうやったら解けるんやで」
ってやっちゃいました。あーあ。そしたらそっちに子どもが行くの当たり前やん。楽だもの。
でも、そういう「教え」はだれのためにやってるのかなぁ。ほんとに子どものためにやってるのかなぁ…。
教員って教えたがりなのかもしれません。だからこそ、そこを反省して「教えない」という意志を強く持つ必要があるんじゃないかなぁと、わたしは個人的には思ってるのですがねぇ…。
混乱とかとまどいとか
先日、ふと「あ、映画見せよう」って思いました。
なーんかうちの子どもたち、予告編は見てる子多いんですけど、本編は見てないんですよね。あたりまえですが…。なので、「私的に見るなら」ってわけてもらったDVDを見ようかなと思いました。
見終わっての感想、読みました。表面的なことしか書いてない作文もあります。でも、混乱しているさまが伝わってくるもの。一度自分の深いところに落とし込んで、自分の言葉を浮かび上がらせて書いてくれているもの。いろんなものがありました。たぶん「表面的」ってヤツも、そうしか書けなかったんでしょうね。きっと混乱しています。
人に混乱をもたらす「表現」。やはりすごいなぁ。力があるんだなぁって、あらためて思いました。で、そんな「表現」に触れるというか、かかわるというか、そんな日々が過ごせたことの幸せをあらためて感じるひとときでした。
因果関係と相関関係
今日は午前も午後も出張です。なので、まつまたく雑務ができません。その代わりといってはなんですが、ちょいとだけ朝寝坊ができます。ただ、ま、それは、雑務を先送りにしているだけって側面があるのは否めないわけですが(;_;)。
てことで、午前の出張で生活と学力について考えたりして。
この手の話って、いつも思うんですけど、相関関係と因果関係が混同されたり、話す本人は混同してなくても受け手が混同して聞いたり、まぁややこしいなぁと思います。で、そうならないためには、ある程度ややこしいことをややこしいままおいておくことと、わからないことはわからないと言うことかなと思ったり。
そうそう。あと、生活調査なんかのデータを拾っていくと、「ほう」って思うことがあります。例えば、テレビを見る時間・ゲームをする時間・勉強する時間・読書の時間と、さまざまな項目があるのですが、それらをつなぎあわせると、ある程度はどんな生活をしているかが見えてきたりします。
例えば、テレビが3時間でゲームが1時間、勉強が1時間で読書がなし。就寝が11時とします。
すると、5時に家に帰ってきて、お風呂入ってごはん食べて6時。6時から勉強して、「終わった!」とか言って、7時からゲームしてテレビ見て11時に寝るとか。
でも、じゃ、同じ生活のリズムでテレビが1時間の子はどんな生活してるんだろ…。2時間ぶん調査にあらわれない時間がある。この時間、なにをしてるのかなぁとぼーと考えます。例えば、宿題が終わったあと、お菓子食べながら家族で話をしてるかもしれない。あるいはLINEでダラダラしてるのかもしれない。わからないんですがら案外、この時間が学力に影響を与えるんじゃないかなぁ。
そんなことを考えるひとときでした。
子どもたちの声
午前に行った2つのクラス、教室に入ったら、いきなり
「せんせい、通ってしもたな」
みたいな。みんな気にしてるんですね。なかには
「反対した意味、あったの?」
って、わざわざ質問してくれる子どももいるわけで。質問には答えなきゃならんでしょう。ってことで
「意味はあるよ。反対の声が大きくて簡単に通せなかったことは、確実に「今後」に影響を与える。ただし、そのためにはあきらめずに声をあげることが大切なんだよ」
って答え。
で、職員室に帰ってきたら、別の子どもが
「せんせ!腹立つ!通ったやん!どうすんの!これでだんだん報道機関が報道しなくなるやん!みんな声を上げられなくなるやん!」
とえらい剣幕で来ました。
「いや、だからわたしに怒るなよ^^;;」
って言ってたんですけど^^;;。
あからめずに語り伝え続けてよかった…。
盛りだくさんということは、課題が多くあることか
とにかく眠い…。
でも、イエスは言います。
「いつも目を覚ましていなさい」
はい^^;;。
てことで、倒れそうになりながらも、ギリギリ起き続けて、なんとか一日やりきりました。あ、もちろん、タスクリストはすべて終了。あー、非生産的な仕事はやればすむから楽だ^^;;。
夕方、今日も寄り道です。
今日は「行かなくちゃ!」って思うふたつのアクションがかぶっています。ひとつは特定秘密保護法案を廃案に追い込む怒りの連 日デモ日程in京都。もうひとつはk.a.r.sの市役所前アクションです。
さて、どうするか…。
ここは人数が少ない方に行くことにしましょう^^;;。
てことで、市役所前へ。
「あー、久しぶりー(^^)」
みたいなあいさつを交わしているうちに時間が来てアクション開始。
普段みたいに騒々しい中でのアクションではなく、静かな場所で、それぞれの思いをアピールするという感じで、とてもいいなぁと思っていたら、スピーカー積んだ車がやってきて、うるさいのなんの。でもま、そーゆーところまで来ちゃったってこってすね。
で、突然わたしのところにマイクがまわってきて「しゃべれ」と…。
無理…。
わたし、しゃべるの苦手ですねん。でも、「しゃべれ」と…。
しゃーないから、ちょびっとだけ考えたネタを話しました。
てことで、約一時間、寒い寒い中のアクション終了。
にしても、BんちゃんもYすくんも、しゃべりうまいなぁ(;_;)。
なんか、でも、今日一日でいろんなことがあって、いろんな動きがあって、それが自分の手の届く範囲で起きている。
それほどまでに、「今」は激変の時期だし、それを感じられる場所に今の自分はいる。だからこそ、
「いつも目を覚ましていなさい」
という言葉を心に刻みながら生きていなきゃならんし、発信し続けなきゃならんなぁと思うのです。
あ、うれしかったこと…。
M木ちゃんと暖かいものを飲んでる時に、Yすくんから「いまどこ?」って電話があったこと。
心に留めておいてもらってることが実感できたんですよね…。
でも、飲んでてすんませんm(__)m。
得るもの、失うもの、拾うもの、捨てるもの
いつも心の中にあるのは、あの「約束事」です。
優先順位は人それぞれ、何を捨てられて、何を捨てられないのか考えよう
ほんとに厳しいです。でも、この厳しい場所に置かれてしまっているのが、トランスの現状なんでしょうね。
もしもトランスでなければ、捨てるものがあったとしても、さほど多くはないのかも。
でも、トランスはひとつ得るために、ものすごくたくさん捨てなくちゃならない。あるいは、ひとつ得るために、一番大切なものを捨てなくちゃならない。
そんなことを突きつけられた日でした。
でも…。
幸、多からんことを…。
ひたひたと
夕方仕事を終えて駅へ向かう道すがら、国会に続々と人が集まりはじめているという情報が流れてきました。大阪でも情宣活動をやるらしい。京都は…。
ありました。
よし、行こう!ここで行かなければ、子どもたちにあわせる顔がない。
とりあえず、自民党京都府連の前へ。すると、主力部隊はすでに次の場所に移動したみたいです。でも、そこにひとりおられたので、急造のプラカを持って抗議。
しばらく立ったあと、コンビニに寄ってネットプリントして四条河原町へ。到着すると見知った顔がたくさんいます。あたりまえです。この人たちが黙っているはずがない。
80年代の歌が、ふと頭をよぎります。
我らはプリパだ チョッタチョア
ともに死にともに生き チョッタチョア
膝を折って生きるよりも
立ったままで死のうじゃないか
我らはプリパだ
情宣活動中も、少しずつ人が増えていきます。みなさん、仕事を終えて、とりあえず駆けつけてこられたんでしょうね。
7時からはデモ。京都のデモはあいも変わらずええ加減です。でも、たぶんわたしはこういう空気の中で育ってきたんでしょうね。
本日のデモ参加者は実数107人だとか。わたしみたいに、昼に知った人も、その中にはたくさんいると思います。たしかに少ないけど、でも多い。
家に帰って、冷えた身体をお風呂で温めて、ビールを飲んで…。
TLを見たら、本会議でも可決との情報…。
報道ステーションを見て、その経過を目に焼きつけて、さっさと寝ることにしました。
それにしても、人々が「自分には関係ない」って思うところから、ジワジワ来る気がします。実際には関係あるのに…。
わたしが「黙らない」って決めたのは教育基本法改悪の時です。あれ、実は在日外国人も含め、すべての子どもたちに関係がある。ということは、すべての将来の大人たちに関係あることなのに、たぶん人々は「教員の世界のこと」って思ってたんじゃないかと思います。今回も「マスコミと公務員のこと」なんでしょうね。さらに言うと「派遣労働法」の問題も「正社員には関係ないこと」だし「労働特区」も、関係ないことなんですよね。
でも、そうやって「特定の人」を繰り返しながら、確実に「オセロの隅」をとっていこうとしている。そのことが、なぜ無関心な人はわからないのかなと思います。ま、それを「無関心」っていうわけですけどね。
減反も「農家の問題」だし「努力せずにお金をもらうのは…」って避難する。それは生活保護へのバッシングや部落へのバッシングと同じです。すべてはつながってるのに、そこに気がつかない。どころか、関係ないこと、もっと言えば「そうだそうだ!」とバッシング側にまわる。
なんなんだろう…。
最近考えていること。
被差別者だけが差別されていると考えることができた時代は、実は被差別者が防波堤になってわたしたちを守ってくれていた。だからこそ、そこで反差別の闘いをすることは、実はわたしたちを守る闘いだった。
どこで食い止められるのか?
ありのまま…
今日は見たい番組がバッティングしまくりです。ニュースで日比谷の状況も見たかったし、ケンミンSHOWで笑いもしたかった。でも、結局見たのは先週に引き続き「世界イチバン」でした。
今日は「世界一陽気なお墓 ルーマニア」。実は見はじめた時は、おもしろくなければいつでもチャンネル変えられるようにと思っていたんですが、どうしても変えられませんでした。というか、いつの間にか家族全員そろってたし^^;;。
墓標をつくる人も、お葬式で歌うための歌詞をつくる長老も、死者のことをとってもよく知ってます。墓標をつくる人は、死んだ人がきっと残したかったであろうメッセージを墓標に刻もうと、懸命に想像力を働かします。歌詞をつくる長老は、死者の「日常」を思い出しながら「事実」を赤裸々に綴ります。いずれの人も、想像する力とふだんのつながりが、すごく大きいんだなぁと思います。
なぜチャンネルを変えられなかったのか…。
それは、このどーしよーもない日本だからこそ、逃げたくなる。でも、そこから逃げずに、そして、あの淡々とした「生」と、その後に当たり前に来る「死」を見たいと思ったのです。そしてそれが当たり前のこととしてある、おそらくは半径数メートルのコミュニティを見たかったのです。でないと、自分の軸が動きそうになります。もちろん、あの村にわたしの軸があるんじゃないですけどね^^;;。
そして、やっぱり見てよかった。
番組の最後、まだ生きているけど、すでに墓標と歌をつくってもらっているおばあさんと、その娘さんが登場しました。歌の中に「100歳まで生きた」って節がありました。それが、まわりの人とおばあさんの「つながり」なんだろうなぁと思いました。
番組を見終わって、ふと気づきました。あのおばあさんは死を恐れていない。それは誰にでもくるものとして引き受けています。死が来たら天に行くだけ。ただそれだけのことです。
でも、たぶん秘密保護法を通そうとやっ気になっている人々は死を恐れているんでしょうね。どちらが深く思索をしているんだろう…。