92年目の日に寄せて

3月3日と言えば、やはり「全国水平社創立大会」の日ですよね。ま、もともとひなまつりにぶつける気はなかったみたいですが、紆余曲折の末3日になったとか。
まぁそれはいいとして。
「あの時代」に
「此際吾等の中より人間を尊敬することによつて自らを解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である」
と宣言したってすげえなと思います。
でも一方、ちと待てよと…。あの頃って、いわゆる「大正デモクラシー」の時代です。「差別があたりまえ」の時代から「差別はアカンやろ」という時代へと転換していく時代のうねりの中に水平社もあったと、わたしは考えています。
で…。
それから92年たった今、「あの時代」と今と、どちらがどうだろう。
水平社博物館を襲撃する人もいます。大阪人権博物館(リバティおおさか)の展示に知事が介入し、さらに補助金を切って廃館に追い込もうとしています。大阪国際平和センター(ピース大阪)の展示に政府が介入する時代です。ヘイトスピーチや差別落書きがそこここにあります。それどころか、総理大臣は「緊急事態で人権停止」と言う時代です。
たぶん、水平社ができたあの時代よりも、今のほうがダメな気がします。
でも、ひとつだけいいことがある。それは、水平社があったあの時代を知ってるっていうことです。「差別はアカンやろ」という時代をつくってきた人たちがいたということを知ってるってことです。
だから、いま「差別はアカンやろ」という声をあげる人がいて、それをあたりまえと思える人がいる。
歴史を学ぶ意味はそこにあるのかなと思います。

まぁだから、そういう歴史を学べないように、歴史を修正しようとする人がいるわけで、国が決めた歴史を教科書に載せようとする人がいるわけだけどね。

夜、最寄りの駅で降りて歩いていると腕をつつかれました。振り返ると、そこには知らない人。
「カウンターされてるんですか?」
「え?あー、これ(笑)」
リュックには缶バッチと藍染めのバンダナ。首にはマフラー。だれでもわかりますよね。
「Yさんから「地元にもカウンターやってる人いるよ」って聞いてたんです」
「あー、たぶん、それ。わたしのことです」
「じゃまた、カウンターの現場で」
みたいな会話。
「思い」や「行動」を日常に持ち込み形にした時、人と人とが出会うのかなぁ…。

たぶん、根本的に冷たいんだ

今日は卒業式。ま、いつものように淡々と仕事をこなすわけですが…。
わたしがいる校内セクションは、まぁヤンチャな子らを相手にするわけです。で、そんな子らこそがかわいいっちゃかわいいんです。
ま、それはそうなんですけど…。
明るい大きな声で
「ありがとうございましたー!」
とか
「お世話になりましたー!」
とかやっていて、同じセクションの人も
「おう!がんばれよ!」
とかやっているのを遠くで見たりしているのです。
まぁうちのセクションの人はとても分厚いかかわりをする人たちで、そらだけに子どもたちもなつくんですね。
ま、そんな風景を横目で見ながらおべんと食べて、いろんな用事をして…。
まぁ、わたしのかかわりの薄さというか冷たさというか。どこかで距離をおいてるんですね。
なぜだろう…。
まぁ、めんどくさいとかいう話もあるわけですが、たぶん「自分の人生を生きるのは自分」みたいなことをどこかで考えているのかなぁ。その子の中にあるわたしの存在を極力消して、でも「言葉」だけは残る。そんなことをしたいのかなぁ…。

たぶん、根本的に冷たいんだ

今日は卒業式。ま、いつものように淡々と仕事をこなすわけですが…。
わたしがいる校内セクションは、まぁヤンチャな子らを相手にするわけです。で、そんな子らこそがかわいいっちゃかわいいんです。
ま、それはそうなんですけど…。
明るい大きな声で
「ありがとうございましたー!」
とか
「お世話になりましたー!」
とかやっていて、同じセクションの人も
「おう!がんばれよ!」
とかやっているのを遠くで見たりしているのです。
まぁうちのセクションの人はとても分厚いかかわりをする人たちで、そらだけに子どもたちもなつくんですね。
ま、そんな風景を横目で見ながらおべんと食べて、いろんな用事をして…。
まぁ、わたしのかかわりの薄さというか冷たさというか。どこかで距離をおいてるんですね。
なぜだろう…。
まぁ、めんどくさいとかいう話もあるわけですが、たぶん「自分の人生を生きるのは自分」みたいなことをどこかで考えているのかなぁ。その子の中にあるわたしの存在を極力消して、でも「言葉」だけは残る。そんなことをしたいのかなぁ…。

言葉は誰かがつくってる

昨日のネガティブシンキングなことを思い出して、めいっぱいテンションが下がった朝ですが…。
自分の内側にある力に気づき、それをとりもどすことを「エンパワー」というなら、自分の中にある力を奪われるのは「デパワー」かなぁなどと思った次第です。ちなみに、人権教育の文脈で「デパワー」という言葉は聞いたことがないので、「これは一番乗り!」と思ってググってみたら、出てくるわ出てくるわ。なんか、凧とかヨットの用語みたいです。なんでも、風の力を弱める仕組みみたいです。
と、その時「あ!」と思いました。
わたしの人権学習の教材は、基本的には「自分が話をするならこんなふうにしゃべるだろうなぁ」というのをプリントに落としてあるんですね。つまり、自分用にカリカリにチューンしてあるんです。

例えば、自分用にカリカリにチューンしたバイクは特性が尖ってて、たぶん他の人にとってはとても乗りにくい。もちろん、「同じ方向性」を持つ人にとっては「これわ!」とくるんでしょうけどね。つまり、はまるレンジが狭く、好みの差が大きい。なので、一般的なバイクはデチューンすることで特性をマイルドにして、誰もが乗りやすいものに仕上げています。

そりゃ、わたし用にチューンした教材で授業やれと言われたらきついわな。かと言って、いちから教材をつくれと言われても、それはなかなかきついかとも思います。てことは、「フルパワー」ではなく「デパワー」した教材をつくらなきゃならんということですね。

しかし、これがむずかしいんですよね…。
てか、フラストレーションたまるかも^^;;。

ネガティブシンキング

なんか、まわりとの温度差にすべてを投げ出したくなる瞬間があります。子どもたちに「ベスト」とは言わないまでも、できるだけ「質の高いもの」と、いろいろ工夫し苦労しているんですが、それがダメらしい。
今日はお酒の量が増えそうです。

てなことを、とある人につぶやいたら
「そんなもんでお酒の量が増えたら、ボクなんてアル中になるで」
と言われました。ごもっとも…。

どっちが特殊か?

今日は進路と人権がコラボの研修会です。わたしは久しぶりにここにレポートを出すことになりました。内容は「労働」なわけで、まぁ、いろんな本のパクリ集です。
で、とある学校の「キャリア教育」のレポートを聞いていたのですが、めまいがしてきました。
「修学旅行は生徒たちがすべて企画します。制限は予算で「15万円以内」となっています」
それ、ほぼ無制限じゃん(笑)。
「本校では受験の学力ではなく、真の学力を」
もしや、解放の学力?
まぁいいです。特殊な存在から学べるものはほとんどありません。まぁ、たまに「でっかい気づき」はもらえますけどね。
と思ったんですが…。
もしかしたら、うちのガッコも、いろんな意味で特殊なのかなぁと、ふと思ったり^^;;。

書き出しに悩む

そろそろ、とある連載の〆切が近づいてきたので、とりかかったわけですが…。
出ない(;_;)。
中身は決まっています。エンディングも決まっています。でも、書けない。
何が書けないかというと、出だしの一文です。
一字書いては消し、ひとこと書いては消し。
こう考えると、文豪ってすごいよなぁ…。

木曽路はすべて山の中にある。

たしかに(笑)!ごもっとも(笑)!間違いない(笑)!
そりゃ、木曽路が海辺にあったら笑います。
でも、ここからはじまるんですよねぇ…。
「朝メシを食べながら、こう考えた」
あかんやろなぁ^^;;。

問うことからはじめる

この間、p4cってヤツにすごく興味を持っています。ま、暴言を吐くならば、特段「うわこれなに!」というほどのことはない、というか「斬新!」って感じでもない。「うん(^^)」ってことなんですけど、それを「p4c」という形で提示された時に、例えば授業のあり方やクラブの運営、あるいは交流会なんかについて、新たな角度から光をあてることができて、自分の中にあったモヤモヤとした、でも大切に思ってきたことが突然浮かび上がる。そんな気がしています。

そうそう。
そろそろ試験前なので、恒例の勉強会がはじまっています。相互の教えあいの中で、子どもたちはともに考える経験をします。
とかく「すぐあきらめる」とか「考えようとしない」とか言われる子どもたちですが、なんか違うと思っています。それを言葉にしてくれたのがp4cです。p4cのスタートは「sense of wonder」みたいです。ならば、それをもじるなら「sense of awareness」かなぁ。「なぜ?」と小さな子どもたちが「問う」とき、その反対のところに「知りたい」「わかりたい」という欲求がある。わたしはそう思っています。
数学の話にするならば、おそらく、どの子どもたちの中にも「答えを知りたい」「答えにたどりつきたい」「解きたい」っていう気持ちがあります。でも、さまざまな挫折経験の中で、「答えにたどり着けない」と思い込んでしまってる。だから、「sense of awareness」を思い出すことからスタートです。
みんなと教えあっている中で、わたしのところに質問に来る子どももいます。そんな子どもたちに、わたしは教えません。
子どもたちは、自分の中に課題を解決する力があることを忘れているんだと思います。あるいは、その使い方に混乱している子もいます。そんな子どもたちに、課題を明確にすることや、どうすれば課題にとりくむ糸口がみつかるかなんかを、問を発しながら、ファシリテートします。そして、自分の中にある力だけで問題を解かせる。そのことが、次の問題を解けることとつながっていく。
わたしはそう考えています。
だから、わたしのところに質問に来た子は、逆にわたしからの質問に答えることで問にとりくむことになります。

い「この問題はなにを求めるの?」
生「ここの数字」
い「それをするために、何が課題になっているの?」
生「この方程式を解く」
い「その課題にとりくむために邪魔をしているものは?」
生「ここの数字」
い「その邪魔なものをクリアするためにはどうしたらいい?」
生「マイナスをかける。あっ!待って!解けた!」
い「ちょっと待って?なぜその方法で因数分解できると思ったの?」
生「えーと。ここがこうなって、これがこうだから」
い「ふーん、そっかぁ。すごいね(^^)!

さて、生徒も向こうに行ったし、またp4cのペーパーの続きを読もうかな…(^^)。