言葉は誰かがつくってる

昨日のネガティブシンキングなことを思い出して、めいっぱいテンションが下がった朝ですが…。
自分の内側にある力に気づき、それをとりもどすことを「エンパワー」というなら、自分の中にある力を奪われるのは「デパワー」かなぁなどと思った次第です。ちなみに、人権教育の文脈で「デパワー」という言葉は聞いたことがないので、「これは一番乗り!」と思ってググってみたら、出てくるわ出てくるわ。なんか、凧とかヨットの用語みたいです。なんでも、風の力を弱める仕組みみたいです。
と、その時「あ!」と思いました。
わたしの人権学習の教材は、基本的には「自分が話をするならこんなふうにしゃべるだろうなぁ」というのをプリントに落としてあるんですね。つまり、自分用にカリカリにチューンしてあるんです。

例えば、自分用にカリカリにチューンしたバイクは特性が尖ってて、たぶん他の人にとってはとても乗りにくい。もちろん、「同じ方向性」を持つ人にとっては「これわ!」とくるんでしょうけどね。つまり、はまるレンジが狭く、好みの差が大きい。なので、一般的なバイクはデチューンすることで特性をマイルドにして、誰もが乗りやすいものに仕上げています。

そりゃ、わたし用にチューンした教材で授業やれと言われたらきついわな。かと言って、いちから教材をつくれと言われても、それはなかなかきついかとも思います。てことは、「フルパワー」ではなく「デパワー」した教材をつくらなきゃならんということですね。

しかし、これがむずかしいんですよね…。
てか、フラストレーションたまるかも^^;;。

ネガティブシンキング

なんか、まわりとの温度差にすべてを投げ出したくなる瞬間があります。子どもたちに「ベスト」とは言わないまでも、できるだけ「質の高いもの」と、いろいろ工夫し苦労しているんですが、それがダメらしい。
今日はお酒の量が増えそうです。

てなことを、とある人につぶやいたら
「そんなもんでお酒の量が増えたら、ボクなんてアル中になるで」
と言われました。ごもっとも…。

どっちが特殊か?

今日は進路と人権がコラボの研修会です。わたしは久しぶりにここにレポートを出すことになりました。内容は「労働」なわけで、まぁ、いろんな本のパクリ集です。
で、とある学校の「キャリア教育」のレポートを聞いていたのですが、めまいがしてきました。
「修学旅行は生徒たちがすべて企画します。制限は予算で「15万円以内」となっています」
それ、ほぼ無制限じゃん(笑)。
「本校では受験の学力ではなく、真の学力を」
もしや、解放の学力?
まぁいいです。特殊な存在から学べるものはほとんどありません。まぁ、たまに「でっかい気づき」はもらえますけどね。
と思ったんですが…。
もしかしたら、うちのガッコも、いろんな意味で特殊なのかなぁと、ふと思ったり^^;;。

書き出しに悩む

そろそろ、とある連載の〆切が近づいてきたので、とりかかったわけですが…。
出ない(;_;)。
中身は決まっています。エンディングも決まっています。でも、書けない。
何が書けないかというと、出だしの一文です。
一字書いては消し、ひとこと書いては消し。
こう考えると、文豪ってすごいよなぁ…。

木曽路はすべて山の中にある。

たしかに(笑)!ごもっとも(笑)!間違いない(笑)!
そりゃ、木曽路が海辺にあったら笑います。
でも、ここからはじまるんですよねぇ…。
「朝メシを食べながら、こう考えた」
あかんやろなぁ^^;;。

問うことからはじめる

この間、p4cってヤツにすごく興味を持っています。ま、暴言を吐くならば、特段「うわこれなに!」というほどのことはない、というか「斬新!」って感じでもない。「うん(^^)」ってことなんですけど、それを「p4c」という形で提示された時に、例えば授業のあり方やクラブの運営、あるいは交流会なんかについて、新たな角度から光をあてることができて、自分の中にあったモヤモヤとした、でも大切に思ってきたことが突然浮かび上がる。そんな気がしています。

そうそう。
そろそろ試験前なので、恒例の勉強会がはじまっています。相互の教えあいの中で、子どもたちはともに考える経験をします。
とかく「すぐあきらめる」とか「考えようとしない」とか言われる子どもたちですが、なんか違うと思っています。それを言葉にしてくれたのがp4cです。p4cのスタートは「sense of wonder」みたいです。ならば、それをもじるなら「sense of awareness」かなぁ。「なぜ?」と小さな子どもたちが「問う」とき、その反対のところに「知りたい」「わかりたい」という欲求がある。わたしはそう思っています。
数学の話にするならば、おそらく、どの子どもたちの中にも「答えを知りたい」「答えにたどりつきたい」「解きたい」っていう気持ちがあります。でも、さまざまな挫折経験の中で、「答えにたどり着けない」と思い込んでしまってる。だから、「sense of awareness」を思い出すことからスタートです。
みんなと教えあっている中で、わたしのところに質問に来る子どももいます。そんな子どもたちに、わたしは教えません。
子どもたちは、自分の中に課題を解決する力があることを忘れているんだと思います。あるいは、その使い方に混乱している子もいます。そんな子どもたちに、課題を明確にすることや、どうすれば課題にとりくむ糸口がみつかるかなんかを、問を発しながら、ファシリテートします。そして、自分の中にある力だけで問題を解かせる。そのことが、次の問題を解けることとつながっていく。
わたしはそう考えています。
だから、わたしのところに質問に来た子は、逆にわたしからの質問に答えることで問にとりくむことになります。

い「この問題はなにを求めるの?」
生「ここの数字」
い「それをするために、何が課題になっているの?」
生「この方程式を解く」
い「その課題にとりくむために邪魔をしているものは?」
生「ここの数字」
い「その邪魔なものをクリアするためにはどうしたらいい?」
生「マイナスをかける。あっ!待って!解けた!」
い「ちょっと待って?なぜその方法で因数分解できると思ったの?」
生「えーと。ここがこうなって、これがこうだから」
い「ふーん、そっかぁ。すごいね(^^)!

さて、生徒も向こうに行ったし、またp4cのペーパーの続きを読もうかな…(^^)。

個人と組織、批判と非難

とある場所で目にした光景なんですが…。
ある人が、とある組織を批判する文章を書きました。
それはかまいません。批判は大切です。
ところがそこからのコメントがひどい。いつの間にか組織への非難となり、それはその組織に属する人々への非難になっていって、結論は「こいつらが悪い」となっていきました。
しかも、組織への非難の途中には、デマとも言える内容すら含まれていました。

まぁ、こんな構図、よく見ます。
「とある組織」を「とある業種」に変えると、あちこちでやられてるし、「とある国家」に変えると、これまたあちこちでやられてる。あるいは「とある民族」にすると、これまた。

個人の問題を組織の問題にすり替える。あるいは組織の問題を個人にすり替える。そして、批判を非難へとすり替える。
こうしたすり替えにより、「叩く」相手を見つけ、悪者にし、「原因」をみつける。
それで得られるものは?
つかの間の「安心」?それとも「自分が正義であることの確認」?それとも…。
でも、その先にあるものは、今の日本のあちこちにある状況だと、わたしは思います。

すり替えない。
悪者をつくらない。
「原因」を見つけたら疑う。
もしも誰かを非難しそうになったら、その「誰か」をつくりだす構造があるのではないかと考える。
そして、その構造をつくりだすことに自分は加担していないかを考える。
常に「自分」へと返す。そして、動く。

不合理か?

今日の「おべんきょ」は、わたしたちのグループの発表です。過去2回、他のグループに「優しい質問」をし続けたので、今日はやり返されるんじゃないかと、心臓バクバクです(笑)。ま、でも、相方さんがそうとうしっかりした方なので、安心といえば安心なんですけどね。というか、発表内容をつくってくれたの、ほとんど相方さんです(笑)。いやぁ、楽でした^^;;。
わたしたちの発表内容は「同性愛」。
「じゃ、次、同性愛グループ」
と言われて
「お、おぅ^^;;」
ってなったりはしたのはご愛嬌です。
ま、それぞれ担当の15分をパシっとやりきって、無事終了。その後の質疑応答も強気に押しまくって乗り切りました(笑)。

で、後半は部落問題。
教材はおもしろいし、展開もおもしろいんですが…。今回もひとことに引っかかってしまいました。
「差別が不合理であることに気づかせる」
なんか気になります。じゃ、「合理的な差異は差別ではなく区別」ってこと?
実は、「差別→不合理」ということは、対偶をとると「合理的→差別ではない」。言い換えると、「合理的な差異は差別ではなく区別」。でもそうかなぁ。その「合理性」って、不変のものなのかなぁ。解釈の余地は入らないのかなぁ。
「差別は不合理」という命題を真にすると、同時に対偶も真にしてしまい、「何が不合理か」という解釈を経て、差別に理由を与えるんじゃないかと思うのです。
例えば。
「国籍の違い」は「合理的な差」であるという解釈は成り立ちます。とするなら、そのことによる処遇の差は差別にはならない。
ということです。「いや、国籍の違いは合理的な差ではない」という主張をしたとしても、いずれも解釈の問題にしかならない。逆に、今行われている差別的な処遇は、「だって合理的な差があるんだもん」っていうところに担保されているように思うのです。
「肌の色の違い」や「性別の違い」が「合理的な差」として法的に処遇の差を与えられていた時代があります。その当時は、それを差別とは考えられていなかった。逆に、「処遇の違いは合理的」とすら考えられていたのではないかと思うのです。
であるなら、「差別は合理的におこなわれる」というふうに考え、「その合理性を問う」としたほうが、より現実に近いんじゃないかと思ったりするわけです。

日常生活で「NO!」

「差別しちゃいけない」ということが「規範意識」にまでいった今、逆に「そうはいっても」と心の奥底で感じる人がそれを「足かせ」と認識する。その根底にあるのは「自分はマジョリティ」なんたけど、その「マジョリティ」の中身は「ふつう」という言葉に置き換えられて表現されている。そんな中で「人権」は、ごく一部の過激な人がやってることになってしまう。そして、善意の人からは「すごいね」「えらいね」って言われることで「ふつう」からさらに差別化されてしまう。
だからこそ、「人権」を「ふつう」の中に入れなきゃなって思うのです。

なんか、朝鮮高級学校への襲撃事件というヘイトクライムについて、一晩たって、再びそのことを考えた時、「一市民がカウンターしてます」から「カウンターやってる市民がここにいます」へとステージを変えなきゃならんのじゃないか。そうやって、生活の場で存在を顕在化させることが必要なんじゃないかと思うのです。
心の中で思っているだけでは、自分の思いは表明できない。とするなら、缶バッチとか、バンダナとか、マフラーとか。とにかく「NO!」の徴をみにつけること。「NO!」があふれる街をつくっていくこと。
そしてそれは、まずは、わたしから。
てことで、缶バッチつけたリュックにバンダナくくりつけて、マフラーして出勤しよう(^^)。
これでフラッグまとえば完璧やな^^;;。

時代はあきらかに逆行している

今日のつぶやき

神戸の朝鮮学校に金属棒持つ男侵入 – 47NEWS(よんななニュース) http://t.co/Pf8YeY8aYC

1月17日に「阪神淡路大震災の時は、朝鮮学校に日本人も避難していた。関東大震災から70年あまり、たくさんの人の力で社会を変えてきたんだ」って話したのに…

1923→?→1995→?→2011。
「?」にはなにが入るんだろう。