半径1メートルをつなぐこと・「地球のステージ」がやってきた!

今日は朝から緊張しまくりです。なんせ、午後を半日使って「地球のステージ」鑑賞ですから…。
今年度、うちの職場の人権学習のやり方を大きく変えました。これから3年間かけてそれを完成させていこうと思っているのですが、その第一弾が、今日ある「地球のステージ」なんですよね。
にしても、同じ日に「生徒会選挙」があるのが致命的ではありますが^^;;。こんな日程組んだの誰やねん!って、わたしか^^;;。

でも、なんだかんだで無事開演。
うーん、ざわつくなぁ…。なぜだろう。たぶん、一部の人間なんだと思うんだけど…。

たぶん、「聞かない生徒」は「無関心」なんだと思うのです。じゃ、そういう生徒が関心があるのは?もしかしたら「半径1メートル」の範囲の出来事なんじゃないかなと思うのです。なので、そこからはみ出た「地球」には関心がない。アフリカで起こる戦争や、そこで死んでいく子どもの姿、あるいは熱が下がって喜ぶ桑山さんの表情には関心がない。
じゃ、「聞く生徒」や「わたし」の世界は半径2メートルなのか?
それは違うと思います。やはり、わたしたちの世界も「半径1メートル」でしかないのです。じゃ、なぜ関心が起こるのか。それは「半径1メートル」同士が重なる部分を感じるからじゃないかと思うのです。
「半径1メートル」のふたりが、ほんの少し近づくと、「20センチの重なり」ができる。すると、「重なり」の向こう側に「180cm」の「和集合部分」ができる。そうやってできた「和集合」をたどっていけば、やがてそれは100メートル先にまで届く。そうやって「世界」を広げ、そこに感心を持つことができるようになる。
そんな気がするのです。
世界を広げるためには、人と人との距離を少し近づける。のかな…。

うわ。桑山さんが厳しい言葉を!
水を打ったような静けさです。時にはこんなのも必要なのかもしれません。注意を向けることによって関心を持つこともあるかもしれません。
でも、桑山さんが厳しい言葉を向けたのはわかります。自分の「地球旅行」は無関心でも耐えられるけど、「震災」の話は耐えられない。
そんな桑山さんの気持ちを、自分のこととして子どもたちに伝えることで、桑山さんの笑顔と、そして厳しい言葉の裏側に込められた「無関心への悲しみ」と「無関心への怒り」を伝えることができるのかもしれません。そして、それがわたしたちの仕事なのかな。

公演終了後、何人かの生徒が真っ赤な目をして桑山さんのところに行きました。あとで
「「1年生ですが、うちの学校の生徒がすみません」って誤ってくれた」
と、桑山さんは話してくれました。そして
「今日は、とても満足できた公演でした」
と笑顔で話してくださいました。
きっとそれはホントのことなんでしょうね。

うーん。
明日からが勝負です。まずは、授業の雑談からかな…。

エネルギーの処し方とか…

今日も「人生」を聞かせてもらいに行きました。
まぁ、わたしは精神科医やカウンセラーではなくて、一介の教員というか、「おべんきょ途中」な人ですから、人生を聞かせてくれるのは「話してくれることが可能な人」ばかりなんですね。でも、そういう人の話を聞くことが、実は大切なんじゃないかなぁというふうにも思うのです。まぁ言ってみると「問題解決型」の「ソリューションバンク」です(笑)。
なんか、話を聞いていて、内側にどんな形でエネルギーがたまるのか。そのたまるスピードと、そのエネルギーをどう処すのか、そんなあたりがすごく大切なんじゃないかなぁという気がしてきました。

にしても、ほんとにみなさん、しんどかったことも話してくださいます。それだけに、恐縮もするし、なんか、びびってしまいます。でも、感謝なんでしょうね。

ネタはいたるところにある

今度、車いすユーザーを含む飲み会をすることになりました。で、店を探すわけですが…。
その過程で、いろんなことに気づかされます。
いや、かつて「電動車いす3台縦列駐車」な飲み会をやったことはあるので、その気になればバリアを参加者一同で踏みつぶすことも可能だってわかってるんですけど、それは車いすユーザーさんの「意思」というか「趣味」というか「ノリ」というか「茶目っ気」というか、そういうのにかかってるんですよね。で、今回は「踏みつぶしタイプ」じゃないので、車いすユーザーがあたりまえに一緒に飲める店にしようと思いました。
で、探しはじめたけど。
わからない!
「ない」とか「ある」とかじゃなくて、そもそも情報がない。いや、探せばいろんな人がそういうサイトやブログをつくっているみたいなんですけど、例えば、食べログとかぐるなびとか見ても、わからない。例えば、「バリアフリー対応」って書いてあっても、それが「どの程度のバリアフリー」かがわかりません。てか、そもそも「バリアフリー」についての記述がない。いや、店としたら情けない話なんだろうけど、「バリアフリー非対応」と書いてあれば、それはそれでひとつの情報です。でも、書いてなければ、いちいち問い合わせないといけない。
まぁ、結局は「あそこなら大丈夫だろう」と思ったところに実際に行って、店の予約をして、ユニバーサルトイレの確認をして…。ユニバーサルトイレ、施錠されてます。「事務室までインターホンを」って、自然がガッツリ呼んでる時はどうすんねん(;_;)。
まぁ、そんなこんなで、数日いろいろ悩ませてもらいました。というのと、いかに「障害がない状態」を前提に社会がつくられているかということの一端を教えてもらいました。
でも、こんな経験しなければわからないよなぁって思った時、これ、授業のネタになるなと。15分はもつなと。
そんなことを考えてしまうわたしですわ^^;;。

「すべてのわざには時がある」

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

とは、旧約聖書の伝道の書の中の有名な一節なんですが…。
この一節をふと思い出す瞬間があります。今日もそんな瞬間があった日でした。
仮に、トランスというもののひとつの側面が「内と外の不一致を一致させる作業」だとします。あくまでも「仮に」ではありますが…。
で、通常、この「内」と「外」は固定されたものと捉えられている。そして、「一致させる作業」とは、一方を他方にあわせること、具体的には「外」を「内」にあわせると考えられているのかもしれないなと。
でも、実際には「内」も「外」も動いている。で、動いている「内」と「外」の一致は、単に片方を片方へとあわせるだけでは不可能で、あるいはそういう作業ではなくて、「内」と「外」が重なるタイミングをはかることなのかもしれない。そして、タイミングをはかりながら、「ここぞ」という「時」を掴んだ時に「飛び移る」ことなのかもしれない。早過ぎたら届かなくて落っこちてしまう。タイミングを逸する「次のタイミング」を待たなきゃならない。イメージ的には「SASUKE」か、はたまた「マリオ」みたいな(笑)。
まぁでも、「落ちる」より「待つ」ほうが安全ではあるな^^;;。

他者の人生に触れる

わたし個人の「おべんきょ」も、本腰入れないといけない段階になりつつある今日この頃です。とりあえず、いろんな人の話を聞かなくちゃ。
ふだんしゃべりまくってる(笑)わたしが、他の人の話を黙って聞くって想像できないかもしれないけど、お酒飲んでなければ聞けるんです(笑)。

で、今日はHくんの話を聞かせてもらってたんですけど…。
「話を聞かせてもらう」って、ある意味残酷なことなんだなって、あらためて感じました。
「当事者から搾取する行為」と言ってしまえば、とてもクリアなんですけど、そういうポリティカルな、ある意味定形的なひとことにはまりきらない「残酷さ」をHくんに強いているということを感じながら過ごす時間でした。
なんだろ…。
話を聞かせてくれる人って、基本的にはなんらかのしんどかった過去を持っているんですけど、でもその「しんどかった過去」に一定の評価をするところまではきていて、まぁ「冷温停止状態」までは持ってきているんですよね。でも、その「しんどかった過去」を聞かせてもらう、しかも「意図を持って」「掘り下げて」あるいは「しつこく」聞かせてもらうという行為は、「しんどかった過去」を「臨界状態」くらいまで持ってこさせてしまうことなんじゃないかなぁと思うんです。
でも、そのしんどい行為につきあってくれるわけです。なぜなんだろう。どうやって返せるんだろう。まぁ「形にする」なんていうのも、これまた定形的な言葉で、たぶんそんなものでは返せない。というか、返しようもないんでしょうね…。
まぁ、その日については「ごはんをおごる」くらいのことでごまかしてるんですけど^^;;。

なんてことを考えながら、Hくんの言葉に耳を傾ける半日を過ごしました。
Hくん、ありがとね!
って、読んでないよな(笑)。

4月のはじめ

4月のはじめは桜が咲いたりして、「心新たに!」みたいな感じが世間の感覚なのかなぁ。まぁあるいは、マスコミがつくった妄想ってだけかもしれないですが…。
わたしにとっては、4月は、まずは「不安」の季節です。
わたしにとっては、毎年毎年が「チャレンジ」です。居心地のいい空間はひとりではつくれなくて、「相手」との相互の営みの中で「偶然の産物」として成立するものだと思っています。これまで何年もの間子どもたちとの間にそういう関係がつくれたのは、もちろん最大の理由がわたしが「評価権を持つ権力者である」ということなんですが、でも、それだけではなく、そういう「偶然」が連続しただけのことであると、わたしは思っています。
逆に言うなら、そんな偶然が今年もあるとは思っていない。「今年も偶然は起こるのだろうか」という不安はとても強いのです。そしてこの不安は、もしかしたら「偶然」を幾度となく経験しているからこそ強いのかもしれません。
それからもうひとつは…。「焦り」でしょうか。今、自分ができていることと、やらなくちゃならないことと、やりたいことの間にあるズレ。「4月」という「レールのかけかえ」の時に、そのズレを目のあたりにさせられます。その「ズレ」をいかにして最小限に留めるか。あるいは「ズレ」がある中で今後修正していくか。他の仕事との折り合いをどうつけるか。課題は山のようにあり、その前で立ち尽くしてしまいます。
そして「孤独」。もちろん、決して孤独ではないのです。でも孤独を感じてしまう。新たな仲間を得、その心強さは同時に孤独を感じさせてしまうのです。

でも、4月が来ちゃいました。とりあえず、それでも一歩を踏み出す以外方法はありません。
そんな4月のはじめです。

フィールドワーカー?

起床は8時。もうろうとしています。今日の受付はたしか9時開始だっけ。たぶん間に合いませんね。ま、いっか。
ということで、チャイをいただきながら、またまた野入さんと話。いろいろ話しているうちに、話は「アメラジアンスクール」関係へと移行していきます。
なんでも、アメラジアンスクール、けっこうお客さんが来られるとか。で、みなさん質問攻めにされるとか。きっとまじめなんでしょうね。
そう言えば、わたし、夏にアメラジアンスクールに連れて行ってもらった時、ぜんぜん質問しませんでした。まぁ、質問できるほど事前の知識がないというのはまぁあるわけですが、わたしの関心事は「そこにただよう空気に身を任せる」ことなんですよね。廊下に並んでいる本や、ふとしたスペース。教室のつくりや、そこにおいてあるもの、飾ってある展示物。そういうものを見ながら、ここでどんな営みがされているのかということに思いをめぐらせるのが好きなんです。それはアメラジアンスクールだけじゃなくて、昨日の夜の町並みを見る時も同じです。
しかも、質問の内容が
アメラジアンスクールの設立の趣旨は?」
みたいなものだったりするみたいで、それは違うだろうと。
「だって、そもそも「こんなもんをつくろう!」って考えてできたものじゃなくて「必要に迫られてつくったら、それがアメラジアンスクールになって、必要に応じて変化してこうなった」みたいなもんなんでしょ?」
「うん!」
「けっきょく、沖縄のというか日本の教育を取り巻く状況がアメラジアンスクールをつくってるんですよね?」
「そう!」
てな話をしながら
「わたし、いまは教育学の場所にいるけど、教育社会学に行きたいんですよね」
みたいなことをつぶやくと、野入さんのひとこと。
「いつきさんは社会学
あー、社会学、そこまでいってまうのかぁ(^^)。

きっとわたしはダメなんだろな・どこまで続く?(5日目)

まぁ、わたしがダメ人間なのは既知のこととして、プラス何がダメなのか…。
今日は校内セクションの忘年度会です。わたしが所属しているセクションは、部長を筆頭にとてもいい人たちで、仕事もバリバリとやる。で、ギャグのセンスも切れてるし、笑いが絶えない。まぁ、ここを逃げ場にする教員も多々いるみたいなところです。なので、その呑み会なら楽しくないわけがないです。ひたすら
「んま!」
「笑」
の繰り返しです。
で、わたしも一緒に笑っていたのですが…。なんか、徐々に「差」が明確になってきます。その「差」をひとことで言うなら「クラブ」です。ほんとに部活が楽しくてしかたない。そして、その部活を通した子どもたちとのつながりをほんとうに大切にしている。そして、子どもたちとのつながりが深い。ほんとうに
「先生なんやなぁ」
と思ってしまえる人たちなんです。
翻って、わたしは…。
部活は放ったらかしです(笑)。クラブは子どもたちの場所だと思っているので、「自分たちが居心地よく楽しめるように、自分たちで考えろ」ってスタンスです。なので、子どもたちとのつながりは薄い。
まぁ、体育系と文系って違いはあるでしょうけどね。
でもまぁ、そんな差を目の当たりにして、でも
「まぁいいか…」
と思ってしまった複雑な気持ちのひとときでした。

あ…。でも…。
トランスジェンダー生徒交流会に来てる子どもから卒業式の写真が「今から家族で飲み会です」というメッセージと一緒に送られてきました。その写真のかわいさに、思わず笑顔がこぼれました。
ま、そんなつきあいをしてるんだな、わたしは…。

「自然」と「反自然」の線引き・どこまで続く?(4日目)

今日の夜はトランス関係のミーティング。当然その後は飲み会なわけですが…。
まぁ、トランス関係の人と飲んでいるわけですから、話題はトランス関係になるわけです。で、話題はホルモン療法のことになっていって、そこではたと考えたわけですが…。

例えば、わたしみたいな年とってからのMTFのホルモンって、まぁ「効き」はたいしたことないです。すでに変化し尽くしたあと、ちょいと変化する程度です。でも、MTFであっても、例えば2次性徴直前あたりのホルモンは、おそらく劇的に効くんじゃないかと。そうすると、放っておいたらあっちにいくであろう成長の曲線を人為的に曲げることになる。そして、身体の形をコントロールしていく。例えば、胸の大きさはこれくらい。身長はこれくらい。声の高さはこれくらい。
しかし、そうした身体の形にはモデルがある。そのモデルは、おそらくは社会のあり方に規定されている。そして、その社会のあり方は、女性のあり方を規定している。そして、その規定に沿わないネーチブ女性の生きづらさをつくっている。
とするなら、「モデル」にあわせて身体の形をコントロールすることは、「モデル」からはずれたネーチブ女性の生き方を抑圧することにつながる。
トランスがトランスとして生きることを決意する時に「ありのままの自分で生きようと思った」なーんていうタームが出てくることがあります。でもその「ありのままの自分」が、実は「モデルとしての女性/男性」であるとしたら、そしてそのためのホルモンや手術ならば、それはほんとうに「ありのまま」なのか?っていうことなんですよね。

じゃぁ、わたしがやっていることは?
程度の差はあれ、同じことと言えるし、でも、違うとも言える。なぜなら、その「程度の差」こそが問題になるんじゃないかと思うからです。
トランスなんていう行為は、基本的に「反自然」なんだと思います。でも、その「反自然」の中に、どの程度「変えないもの=自然」をブレンドするのか。そのことで「モデル」からはずれた身体の形を持つ女性への抑圧を少しでも緩和することができ、そのことは最終的には(モデルからはずれざるを得ない)MTFへの抑圧を緩和することにつながるんじゃないかな。

モヤモヤ…

今日からこんな連続セミナーがはじまります。
今日はその第一回目、康さんvsSam Winterさん*1です。テーマは「子どものトランス」です。さてさて、どうなるやら。
とりあえず、仕事を終えて難波まで。遠いわ…。

で、セミナースタート。
康さんは3人の症例を紹介しながら、具体的な話を展開されました。
子どもの場合は身体治療の話はほとんど関係ないので、どちらかというと「サポートのあり方」と「カムアウトの是非」の話になります。結論的には「ケースバイケース」なんですが…。でも、出された症例に限って言うなら、カムアウトしてる子のほうがうまくやってるように見えますねぇ。なんというか…。ノンカムの子の「やり過ごし方」は、常に「ウソ」が伴うんですよね。それがすごく気になった。ま、「方便」っちゃあ、それはそうなんですが…。
続いてWinterさん。
いきなり「脱医療」です。「Gender DysphoriaではなくGender Different」とか「Trans GenderではなくTrans Gifted」とか、なかなかおもしろい言葉が並びます。で、話は当然DSMとかICDの話になるわけですが…。まぁ、それぞれ脱医療の方向に向かっているのはいいんだけど、DSMやICDに入っている時点で「病理」だと。そこの矛盾をどうするか。で、「Zコードに入れたらええやん」と。ま、そんな話でした。
(ここから追加)
そうそう。とても印象的だったのは、「子どものトランスジェンダーをもしも社会が受け入れられないなら、それは社会の側がGIDであるといえるのではないですか」という言葉でした。
わたしもたまぁに人前で話をするときに「子どもたちが社会に適応不良を起こしているのか、社会が子どもたちに適応不良を起こしているのか」って言いますが、そうなんですよね。
(追加、ここまで)

で…。
なんか、モヤモヤしちゃいました。ま、Winterさんが客層を把握しきれてないってことはあったかもしれません。が、それよりも大きなモヤモヤの原因は「脱医療と言いながら、論議されているのは医療者としてのサポートの方法」ってあたりなんでしょうね。まぁもちろん、スピーカーが医療者なんで当たり前っちゃあ当たり前なんですけど。でも、会場からの質問も、医療者にHUBの役割を期待するような感じなんですね。
このあたりにモヤモヤを感じるのはなぜかなぁと考えると、きっとそれは、わたしが在日外国人の交流会や隣保館学習会にかかわってきたからなんでしょうね。
おそらく医療者にHUBであることを期待する根っこにはやはり「専門家」っていう意識があるんじゃないかなぁ。
でも、隣保館学習会も在日外国人生徒交流会も、部落外であり日本人である「わたしたち」がやってきました。やる人に専門性や当事者性がなくともできるというところからスタートしたからこそ、「広がり」ができたんだと思います。

考えてみると、例えばサポート体制をつくることや、専門家を育てることって、「他者を動かすこと」です。でも、交流会を企画することは「自分が動かすこと」です。前者と後者では、後者が圧倒的に楽だと、わたしは思います。だって、やろうと思った「わたし」が「やろう!」と手をあげればすむからです。
そんなことを、わたしは解放運動や在日朝鮮人教育運動から学んだ気がします。

うーん。
このモヤモヤ、どうしよう…。まぁ、「第3回」があるか(笑)。

*1:≠うぃんた(笑)。って、見てねーよな^^;;。