報道ステーションにて

栃木の小学生の殺人事件。
容疑者のエスニシティは報道しなくちゃならないことなのかなぁ。てか、いらんでしょう。
個人の属性のうち、なにが報道に必要で、なには不要かということをもっともっと吟味しないといけないと思います。
なんしか、とりあえず「生まれ」はいらんやろ!

困った人

まぁ、仕事してると「困った人」はぼちぼちおられます。もちろん「困ってる人」じゃなくて「困った人」です。こういう人がいると、チームワークがうまくいかないどころか、仕事全体がまわらなくなって、へたすると仕事そのものがつぶれてしまうことすらあります。
まぁそんなこと…。経験したことありますねぇ…。ほんとにいままでできていたことが、ことごとくつぶれていって、その弊害は長く残ります。あの時「つくるのはみんなの合意をとったりしてたいへんだけど、つぶすのは一人のわがままでいけるんだ」って身にしみて思いました。
てのはどうでもいいんですが…。
で、その「困った人」なんですけど、たいていの場合、その本人は「困ってない」んですよね。で、まわりが困ってる。だから、本人は変わる必然性なんて感じていない。でも、困ってるまわりの人は変わってほしい。
こういう時、どうすればいいんだろう。
本人が困る時を待つ?
たぶん、それ、ない気がします。だって、今まで困らなかったから変わってないんです。
本人のパーソナリティーを強制的に変える?
基本的にまわりで困ってる人は、そういうおこがましいことは考えないものです。
配置換えを待つ?
なんか、排除してる気がするので、そういうことを考える自分に対して自己嫌悪を感じるんですよねぇ。
ほんとに打つ手がないんです。
まぁ、実は一番現実的なのは「配置換え」だったりするんですけどね。そしてそれは、一番根本的ではない解決方法だったりするんですけどね。
うーん…。

まぁ、でも、うちの職場で一番「困った人」は、わたしなんだろな…(笑)。

圧力を高めること

仕事にしろ、考えを深めるにしろ、それをするための条件はひとそれぞれな気がします。
どこかにこもって、ひたすら集中を高めて出していくタイプもいれば、例えば散歩をしながら考えるタイプもいるかと思います。で、わたしは…。
たぶん「ながら族」ですね。
身体は頭を使わない雑務をしながら、頭は別のことに振り分ける。こうすることで、頭を単独で動かすための、けっこう長い時間が確保できます。でも、頭と身体が同時に動かせる時間はけっこう限られています。
で、そうやって漠然と考えながら、考えの圧力を高めていきます。まぁ、例えて言うならば、時間がペットボトルで、考えが空気ですね。
充分に圧力が高まると、ペットボトルはロケットとして飛んでいきます。それが「言葉」みたいなイメージです。
なので、一番大切なのは、圧力を高めること。でも、これが難しい。バラバラな「考え」や頭の中にちりぢりに存在している「キーワード」を、ていねいに拾い集めて、それを、綿菓子を支えるようにふんわりと持つ。そこまでの過程がなかなかできません。
たぶん、何かが足りない。集めるために中心となる地点?でも、中心はあらかじめあるのではなくて、それは結果として存在するもののはずです。
そんなことを漠然と考え続ける以外、わたしには方法はなさそうです。
でも、それこそが圧力を高めることらしい。

遠くにあるものは実は近くにある

今日は一日出張だのなんだの。
で、午後の出張にて…。
某研究会の議案書を事務局長が読み上げているのを何気なしに聞いていると「ヘイトスピーチ」という言葉が耳に飛び込んできました。瞬間「お!とりあげるのか!」と思って文面を読むと…。なーんかイマイチです。なんだろう。踏み込み方が浅い?ふだん、ツイッターで読んでいるカウンター仲間の肉声とはまったく違う、血肉となっていない感じ?
まぁそれはしかたないのですが、どうせ取り上げるなら、もう少し自分の身のまわりに寄せなくちゃ。
で、小学校のレポートを聞いて、もやもや。
「いじめ」に関する授業実践ですが、一時間の討論を通して「いじめはよくないと思った」とみんなが考えたそうな。いや、それはそうでしょう。みんな「いじめはよくない」と思っていますよ。問題は「いじめが起こったらどうするか」いや、「いじめが起こらないためにはどうするか」という問いかけへの具体的な行動をどう見つけるかでしょう。
ま、そんなことを考えて、
「「いじめはよくないと思った」はいいんですが、その次の一歩を踏み出すためにどうしたらいいかということについて、きっとお考えがあると思うのですが、そのあたり、どうお考えか教えていただければ」
と質問。ところが、答えは
「考えていません。あれは4年の時の実践で、6年になった今も男女なかよくやっているので、それでいいと思っています」
とのこと。一気に頭に血がのぼったのですが、ガマンガマン^^;;。
で、意見発表の時間が来たので、つい挙手。

いじめにとりくんだ小学校のレポートを読んだ時、「いじめはいけない」と答えた小学生を、中学や高校でどう育てていくのかということを考えました。
話は少しずれますが、数ヶ月前に神戸の朝鮮高級学校を襲撃する事件が起きました。どうやら暴徒は心神喪失だったらしいのですが、先生に対して「朝鮮人だな」と確認して暴行をふるったとのことでした。
あの事件を聞いた時、「朝鮮人に暴力を振るってもかまわない」という空気がわたしたちの社会にあるから、あの事件が起きたんだと思いました。では、わたしになにができるのか。
あの日を境に、わたしは「京都に差別はいらない」という缶バッチをリュックにつけるようになりました。「差別を許さない」という市民がいるとうこと。そういう市民の声が、この社会にあふれていれば、あの事件は起こらなかったかもしれないと思ったのです。
研究課題の中にヘイトスピーチがとりあげられていましたが、「異なる文化を持つ人等への」とあります。しかし、レイシストたちは、水平社博物館を襲い、朝鮮初級学校を襲い、デイケアセンターを襲っています。つまり、部落や子どもたちや老人、あるいはヘイトスピーチの現場では女性にヘイトが向けられています。つまり、マイノリティへの「いじめ」であると思うのです。
そして、まさに昨日の夜、高校生がツイッターでヘイトをつぶやき、多くの人が抗議するという出来事がありました。その高校生はLINEで連絡をとりあっていたといいます。もうひとつのレポート、コミュニケーションにかかわる課題でもあります。
ヘイトスピーチは遠くにある問題ではなく、わたしたちがかかわっている子どもたちの問題です。「いじめはいけない」と答えた子どもたちが、その後どう育っていくかという問題であると思います。
そのために、あの小学校のとりくみを、わたしたち中学校や高校の教員がどう引き継いでいくのかという問題なんだと思い、ひとこと発言をさせていただきました。
ありがとうございました。

まぁ、ヘイトスピーチを「いじめ」なんていうふうに表現するのは、かなりアカンやろと思うのですが、レポートにからめるための無茶です。

それにしても、たったこれだけのことを発言するために、どれほどの緊張があったことか。
なにしろ、質問も意見も誰も言わない中で、ひとり「かみついている」みたいな構図のわけです。まさに「KY」です。
でもいいんです。「AKY」であり「MKY」です。
ここで「空気」に抗うことも、ひとつのカウンターなんだと思うのです。

発言したあと、手の震えがとまりませんでした。そんな手の震えをとめてくれたのは、facebookの向こうにいる「カウンターなかま」でした。
カウンターに参加しはじめて1年ちょい。「許さない」と具体的に声をあげる人はまだまだ少数です。でも、地球上のどこかで発せられたヘイトの声が、実は身近なところにあることを感じ「許さない」と声をあげる、そんな「なかま」のつながりと力を感じました。

教わる立場

どんどん試験範囲が終わるので、これは困ったなな3年生の授業。しかたないので、文化祭の演目ぎめの話とかしてたら、ある生徒が突然井言いはじめました。
「性別って言葉、おかしいと思うんです。だって、2つにわけられるってことでしょ?でも、ほんとはいろんな性があるんですよね。例えば、自分のことをどう思うかとか、誰が好きになるかとか…」
「そんなん、どこで勉強したん?」
「テレビで見て、すごく興味を持ったんです」
「ふーん(^^)」
ついつい
「他にも「社会の性」ってのも考えられるよね。あとね、身体の性も…」
って言おうと思って、やめました。

なんだろう…。
一生懸命考えながら、自分の中から言葉を見つけて、わたしに考えを伝えようとしてたその子の姿は、「性の多様性」がその子の中に位置づいていることを感じさせてくれたんです。
だから、わたしは「教えてもらう立場」を大切にしたいと思いました。
その時の気持ちは…。
見知らぬ街で、ふいに懐かしい顔と出会えた感じ?
とてもうれしかった。

忘れものをとりに帰る

中間試験までまだ一週間半あるというのに、もはや試験範囲が終わってしまいました。
なにしよう…。
まぁ、週末課題を配って
「今やってもいいよー」
ってことで逃げ切るかな。
てことで、朝からプリントをせこせこつくりました。
で、教室に行ってプリント配付。
と、大切なものを忘れていることに気がつきました。で、あわてて職員室にとりに帰って、再びプリントを配付。
「みんなね。これ、忘れてた。でも、絶対忘れちゃいけないものだった。みんなが忘れそうにになってる今、もう一回思い出そう」

子どもたちは、不思議なほど一生懸命読んでました。
うん、まだまだやれる!

「困る」ということ・管理職との面談にて

かつて管理職なんてケンカ相手だと思ってたわたしですが、最近はめっきり丸くなりまして(笑)。もちろん管理職になりたいなんて気は毛頭ないですが、それでも「ご苦労さんやなぁ」とは思うわけです。
そんな中でも、教職員評価なんてものが導入されて、管理職の仕事量が激増しているみたいです。
そもそも「管理職」が「管理」するものはなにか?どうも「評価せい!」とか言っている人々は「教職員を管理する」って誤解してるんじゃないかなぁ。じゃなくて、学校全体の管理責任者なわけで、その仕事はもっと多岐に渡るし、そのすべてを「一人で管理」ってやると不可能だから、役割分担があるわけです。もっと言うなら
「ボク*1が管理者なんだから、みんな言うこと聞け!」
では学校は動きません。じゃなくて、各セクションから出てきた話を総合的に調整したり追認したりして「最終責任をとる」ってのが、おそらくは管理職なわけです。

ま、そんなことはいいんですが…。
で、教職員評価の関係で、年2回の面談と年1回の授業参観がありまして、まぁそれだけでもたいへんだなと。だって、講師以外の教職員、うちのガッコだと60人くらいいて、面談ひとり1回30分と授業が50分。うわぁ(笑)。

ま、そんなことはいいんですが…。
で、今日、管理職と面談をしたわけです。
で、開口一番
「去年、やってほしいと頼んだこと、覚えてる?」
^^;;。
忘れました(笑)。
ま、いいんです。それを直接は忘れても、課題は同じですから。基本的に「経験の継承」です。
これは難しい。なにせ、最近雇用される人は優秀です。そつなくこなすんです。わたしのような大量採用時代の粗悪乱造教員が3年とか10年かけてできるようになったことが、1年とか2年でできるようになります。
でも、なにかがちがうんですよね。それは、たぶん雑味かな。灰汁といってもいいかな。
そんなことを考えながら、校長に
「あの子ら、困ってないんじゃないでしょうかねぇ」
と言ってみると
「われわれとはベースが違うから」
と同意されてしまいました。あ、そうか。困るところまで行ってないというか、困ることをしていないというか。
同和教育で何を学んできましたか?」
って聞かれたので、いろいろ考えたけど
「「保護者や地域の思いを聞く」って、やはりすごくおおきかったですね。最近は保護者や地域の思いや願いを聞くというより、「学校の思いや願いを聞いてもらう」みたいな感じな気がしますからねぇ」
っ言ったら、笑われてしまいました。
「「学校の思いを聞いてもらう」その通りですね」
って。
保護者や地域の思いを聞くと、困るんです。できることとできないこと。できるけど困難なこともある。現実との乖離もある。その狭間でもがくのがわたしにとっての、教員というか担任というか、そんなのの役割でした。それが雑味や灰汁を育ててくれました。
学校の思いを伝えるなら困りません。なぜなら、子どもや保護者にとって、学校は権力を持っているからです。ふたつの「正しさ」がぶつかった時、権力側の「正しさ」が勝つとは、月曜日の金城さんの言葉です。だから、どう伝えるかという困り感はあっても、「自分の価値観そのもの」に揺るぎはない。だから困らないんです。
てことは、どう困ってもらうのか…。あるいは、困った体験をどう共有するのか。
今年のテーマにしてみようかなぁ…。

*1:ここはあえて「ボク」(笑)。

京都府民の人権意識調査からわかること

今日は某研究会の総会です。眠い目をこすって(笑)参加しました。まぁ、事務局やってるから当然のことです。
で、午後は記念講演。講師は「おべんきょのセンセ」です。
講演の内容は、個人的にはすでに2回ほど聞いていますが、でもだからこそ「みんなに聞いてほしい」と思う内容でした。
とても簡単に言うならば、京都府民の部落への忌避意識は、10年前も20年前も現在も、さほど変わっていないということです。となると「んじゃ、やっても意味ないじゃん」となるのですが、実はそうでもない。それは地域差があるからです。有り体に言うなら、京都府中部・北部は忌避意識が低く、京都市内と南部はそれが高い。なぜなら、中部や北部は人権啓発をかなりていねいにしておりるからなんですね。ま、それ以外に、「部落のありよう(周囲の捉え方)」みたいなのも関係するんじゃないかと、なんとなくは思いましたが、それはおいといて…。
では、どんな啓発が有効かというと、ここで「接触仮説」というのが出てきます。簡単に言うならば「差別と闘っている人間と出会ったことがある」という回答と「差別はいけない(「どちらとも言えない」とは回答しない)」という回答の相関関係があるってことです。で、この時の「差別と闘っている人間」は、別に当事者である必要はない。てことは、例えば、学校で言うなら当事者ではない教員でもいいし、社会教育で言うなら、当事者ではない人権擁護委員でいいわけです。
これはとても気が楽です。だって、自分がやればすむわけですからね。
また「魅力ある啓発」としては、やはり当事者の講演はとても有効です。
つまり、このあたりを組み合わせていくことで、学校教育の中での人権教育のヒントが手に入るわけです。
まぁ、ぶっちゃけな話をするなら、直感的には感じていたし、結局昔からやっていたことなんですけど、昨今の状況の中でくじけそうな気持ちになることもあるわけです。それをデータとして見せてもらうことは、ちょっと後ろから背中を支えてもらえる気がして、やはり元気になるんですよね。
「これまでやってきたことを、もう一歩前へ」
って。

朝起きると、やはりめっちゃしんどいです。この体調で…。悩みます。しかも、なんだか仕事が詰まって、やりたい仕事がろくにできない状況です。頭の中を「おべんきょー」という言葉がよぎります。行くべきか行かざるべきか。
とりあえず、お友だちのS納さんに
「今日の集まり、出席連絡してないんですが、頭数に入ってるんですか?」
とメール。すると、電光石火で
「もちろん!二次会もさくっと」
という返事。
「り、りょうかい」
「ふひひ」
というわけのわからんやりとりがあったので、すべてを振り払って行くことにしました(笑)。
向かった先は、関西沖縄文庫。今日は「ちゃんぷるーを食べながら、戦争と平和の境目について語る会」という謎の集まりがあるとか。ちなみに話題を提供して下さるのは金城馨さんと辛淑玉さん。いやがおうにも期待が高まります。
ちなみに、金城さんの話は何度か聞いていますが、辛淑玉さんの話を聞くのははじめてです。どんな話をされるんだろo(^^)o。

会場に到着すると、いきなりS納さんが辛淑玉さんに
「カウンターの闘士」
とかいう紹介をされます。いや、ちゃうし^^;;。でも、リュックについてる缶バッチを見て、辛淑玉さん、「おぉ!」みたいな反応されていました。普段はいきなり殴られるんじゃないかなんて思うこともあるだけに、いいこともあるもんだなと。

で、おふたりの対談。
硬と柔、急と遅。クリスタルブレードのような輝きを持つ辛淑玉さんの言葉。かたや、金城さんの言葉はしなやかに届いてくる、なんと表現すればいいのか、例えようがない感じです。
そんなおふたりの話を聞いていると、自分の中から「考え」が引き出されてくる感じです。
辛淑玉さんの
帰化した韓国人も日本人とみなされていない。沖縄も日本人とみなされていない。たぶん部落もそうでしょ。セクマイだってそう」
という言葉は、実はストンと落ちてくるものでした。かつて金城さんの講演で聞いた話とつながるものでした。初めて会ったふたりとは思えません。

にしても、金城さんのものの考え方、好きですねぇ。
「深く考えると疲れて考えるのをやめちゃうので、「もう少し考える」んです」
なるほどなぁ…。「少し考える」ことを続けていくことで、いろんなことを考えることができますよねぇ。
ま、そんなこんなで、30分ちょいのセッションのはずが1時間近くになって、晩ごはんタイムです。まさに「ちゃんぷるー」な食卓にさいぼしの差し入れがあったりして、めっちゃ豪勢です。オリオンを飲みながら、今度は自己紹介。ひととおりまわったところで、突然辛淑玉さんからの金城さんへの質問タイム。これがいいツボついています。聞いてる人、みなさん爆笑しながらも「なるほど」を連発です。

で、9時をまわったところで二次会会場へ。
ここでわたしはちゃっかり辛淑玉さんの隣に陣取って、あれやこれやと話。テンション高く見えるけど、情が深い人ですね。
うーん。この場を去るのがあまりにも惜しいです。結局、最終電車を見送って、デッドライン電車で帰りました。
でも、一点の悔いもないです。
素晴らしい企画をありがとうございます→S納さん!