今年、職場で新たなとりくみをいろいろやっているのですが、どうもうまくいきません。いや、なんとかかんとか前へ進めてはいるのですが、うまく動かない。まぁ、わたしの準備不足とかいろいろあるのはわかっているのですが…。ただ、それだけでもないような。
基本的にはわたしは「先がわからないところ」へ突っ込んでいくのがさほど苦にならないタイプです。てか、スキーなんかだとそっちのほうが好きなくらいです。で、もちろんスキーだけじゃなくて、ものの考え方や自分の行動全般にそれはあります。ま、
「やってみなきゃわからんやろ」
「やってから考えたらいい」
って感じですか。
もちろんそうじゃない人がいることはわかっているんですが、にしてもなぁ…。みなさん、慎重です。石橋を叩かれます。なんでなんだろ…。
まぁ、いろいろ考えられます。例えば、未知のものへの不安。自信がない。あるいは、生徒の反応や動きが読めない。
その気持ちはわからんわけでもないのですが…。そのリスクを回避したいみたいで、それもわからんわけでもないのですが、収束する方向が、なんとなく
「事前に正しい知識を教えて」
ってなるんじゃないかという、漠然とした予感がするんですね。
仮に自分が話をするとして、基本、事前学習はいりません。というか、もっと言うなら「誰が来るか」もいりません。「どんな人か」もいりません。なぜなら、事前の知識によるバイアスこそが、わたしがもっとも対峙したいものだからです。あるいは、出会いと驚き、そこから生まれる気づき。そういうものこそが「学習」だろうと思っているからなんです。「事前の正しい知識」は、そういうものを根こそぎ奪ってしまう。
ある友だちがこんなメールをくれました。
「人権が予定調和として伝わることから、人権教育の形骸化や生徒たちから人権が奪われてくと思うんです。生きたものとして、人権にふれられたら、いいなぁ」
あぁ!予定調和!それです。
生徒だけでなく、教員も、予定されないところで生きるからこそ、学校はおもしろい。
なーんてことを言ってるわたしに、問題の所在はわかるわけないわなぁ(笑)。
カテゴリー: 考え
「考える」について考える
かつて「考える病」という病名を教えてもらって、自分がどうやらその「病」にかかってるらしいことを知って、まぁ入院なんぞして…。
ふと、その「考える病」について考えることがあります(笑)。いや、いつもなにかを考えなきゃならなくて考え続けていて、そうやって考えている自分について考えるってことなんですが…。
前にも書いたかもしれません。「考える」ことと「〜について考える」ことの違い。わたしにとっては、後者は前者に含まれています。というか、一部分、あるいは結果といえるかもしれません。
昨日は「あること」について考えなきゃなりませんでした。なので考えていたのですが、やがて煮詰まってきました。これはヤバイなと。どうしようかと。とりあえず、元ネタになるものを目の前において、そこから「考え」のレンジを少しずつ広げていきます。焦点をぼやかしていく。考えをまとめない方向へ持っていく。
ぼんやりしていると、いろんな「もの」があちこちからやってきます。それを対象となるものにはめてははずし。そしてピントをはずす。
もちろんそれだけにかかわっているわけにはいかないので、別のこともするわけですが、その間も頭の中ではピントがずれたままの「考え」がゆっくりとまわっています。
と、「はまった!…かな…?」という瞬間がきました。そこからフォーカスを絞り込んでいきます。やがてくっきりと「像」が形を結びはじめます。
そんな感じ。
もしかしたら「考える」って、綿菓子をつくるようなものなのかもしれません。
綿菓子をつくる機械のスイッチを入れる。モーターがまわる。これが「考える」こと。そこにザラメが入る。「考える素材」かな。それに熱が入る。砂糖の雲ができる。「焦点をぼやかした」状態かな。でも、それだけでは形にはならない。そこに割り箸を入れてクルクル。「素材の芯」みたいなものでしょうか。そして綿菓子ができる。
綿菓子をつくることだけにとらわれると、つい「割り箸」にとらわれてしまう。でも、ほんとはザラメがあり、その前に熱があり、そしてモーターの回転がある。それなしでは、いくら考えようとしても考えられない。
わたしが「考える」と呼んでいるのは、この「モーターの回転」のことなのかもしれません。
ていうの。
子どもたちに伝わるだろうか…。
限界かな?
この間、ずっと考えをまとめなきゃならない状況が続いています。すると、自分の意識はどうしてもそちらにいってしまう。
もちろん、その考えは「社会」とのかかわり抜きにはありえない話ではあります。でも一方、歴史や積み重ねられてきた思想、あるいは手元にある素材を自分がどういうコース料理へと仕上げていくかという話なので、やはり自分の中へ深く潜っていく必要がある。
自分の中へ潜っている時は、耐えられないほどの苦しさはあるけど、同時に静寂に包まれていてとても心地よい。ところが、グッと潜って、息継ぎのために浮かび上がっていると、そこは、とにかくおそろしいまでの喧騒です。そして、あまりにも流れが早い。取り残され感もあるし、ギャップもあるし。そんな感覚にめまいがします。
でも…。と思います。
ほんとはその喧騒を少し俯瞰したところから眺める必要があるんじゃないか。流れの早さに惑わされずに、でも流れの早さを感じられる距離で、そしてそこに翻弄されるひとりの人間として、その喧騒をとらえたとき、少し違う風景が見えるんじゃないか。もしかしたらその場所は静的ではなく動的な距離の保ち方なのかもしれない。そのバランス。
深く潜りつつ、時に流れの近くに行き、あるいは流れに巻き込まれ、でもそこからほんの少し離れて俯瞰し、そして常に考え続ける。そんなことしなきゃと思うのですが、そのバランスをとるには、どうやら、今の自分の脳みそのキャパは限界のようです(笑)。
まったく、どうしたものやら…(;_;)。
仕事の流儀
いま、仕事が立て込んでいます。てか、ほんとは立て込んでないのかもしれないけど、なんか立て込んでます。てか、毎年放ったらかしにしていて、年度末に慌てふためくる仕事もあるし(;_;)。
ま、そんなことはあるのですが、当面、目の前にそびえ立つ「壁」をなんとかしなきゃなりません。
で、この「壁」が仮に2枚あるとして、これをどう砕いていくか。
今までのわたしはこれらをふたつ同時に砕いてきました。もう少し具体的に言うなら、片方を砕きながら、もう一方の砕き方を考える。で、反対を砕きながら、逆の砕き方を考える。まぁ、「考える」と「行為」をテレコにしていた。
でも、どうやら今回の壁はそんな生半可なものではなさそうです。「考える」時は、手を止める必要がある。「行為」の時は、「考える」ヒマなどない。というより、「考えながら行い、行いながら考える」必要があるようです。
実はこの壁、今年の4月くらいからずっと突き当たっているのですが、半年たった今日、このことにようやく気づきました。
てことで、片方には頭の3割くらいは残しますが、7割は今急ぐ方に投入することに決めました。で、出来る限り早くそいつをやっつけて、本格的にもう一方にとりくもう。
たぶんその方が、全体として早く、かつクォリティがあがる気がします。
ありのまま?
今日は大阪で呑み。で、いろいろ話しながら、ふと考えました。
「ありのままの自分で生きようと思った」
これ、まぁ、GIDギョーカイにおける常套句な気がします*1。あー、そう言えば
「本来の自分にもどる」
ってのもありました。某映画でも、某外科医が言ってました(笑)。
んー、なんでしょう。この違和感。
例えば、
「ありのままの自分で生きようとしてジェンダークリニックを受診した」
これ、成立するのかなぁ…。ジェンダークリニックって、ガイドライン上は「精神科領域の治療」であると同時に身体改造のゲートですよね。でも、まぁさきほどのようなことを言う人って、後者のために行くことが多いんじゃないかと。てことは
「ありのままの自分」=「身体改造」
てことになる。「身体改造した自分はありのままか?」って話です。
「ありのままの自分でいるために二重まぶたにする」
って話が出てきたら「それはありのままとちゃうやん」ってツッコミが入ると思うんだけどなぁ。
あ!そう言えば、
「男/女として生きようと思いジェンダークリニックに来た」
みたいな話もありがちでして。でも、これも変だなと。だって、さっきの話とくっつけると
「男/女として生きる」=「身体改造」
ってことになる?いや、「男/女として生きる」のって、別に病院に行かなくても、体を変えなくてもできるじゃん。
いや、もしかしたら「医療のお墨付きが必要/ほしい?」。んー。でも、性別って精神科医が「認める」もの?いや、あの人たちは、基本的に本人が言ってることを追認してるだけで、あの人たちが認めることは、本来ほとんど意味がないはずなんですよね。
まぁ、これらの言葉は、もしかしたら「はやりの常套句」なのかもしれません。だから、いろいろ深く考える必要なんかないのかもしれない。
でも、「はやりの常套句」を使うことは、すでに「ありのまま」からはずれている。あえて「はやりの常套句」とは逆のことを言う、あるいはあえてそれを使わないということが、実はとても大切なんじゃないかなぁ。
21世紀は…。
教室に入ると、
「今日、9.11やなぁ」
と声がかかりました。ヤツら、わたしのツボを知ってます(笑)。
てことで、ほんの少し話。
でも、たしかにあの日を境に世界は変わりはじめました。それを、単なる「犯人探し」などではなく、冷静に見つめなくちゃならないなと、あらためて思いました。
経験から学ぶこと
今日も一回生徒をどなりつけたけど、まぁそれでもなんとか終わりました。
終わってからのミーティング。ひとりひとりに
「できたこと・できなかったこと・気づいたこと」
を話させたのですが…。「できたこと・できなかったこと」は話せるのですが、「気づいたこと」が出てこない。これは深刻だなと。なので
「気づいたことを誰も言ってない。気づいたこと・学んだことはないのか?」
と提起。でも、なかなか出てきません。うーん。これはますます深刻だなと。
「何回か怒られたね。なにを怒られ、その時何を言われたのか言ってみて」
と話すと、ようやくポツポツと出てきました。
うーん。うちの子らに何が欠けているのか。もちろん山のように欠けているところはあります。でも、決定的なのは「経験から学ぶ」ことかな。じゃあ、どうすれば「体験」から「経験」へと変化できるんだろう。たぶんそれは「反芻する」ことかなぁ。それから「観察する」こと。まずはすべてを「意識」の管理下に置くこと。逆に言うなら、「なんとなく」を一切排除すること。
じゃ、それをするためには、具体的には何をすればそれができるようになるのか。
日誌かなぁ…。
放送部の活動日誌、ちゃんとやらそうかなぁ…。
「信用できへんやんかぃ!」
今日は文化祭0日目。開会式と準備の日です。とりあえず、メイン会場の放送セットをすべて組んで、ホッと一息。
放課後、軽音楽部のリハの時に「それ」が起こりました。
基本的に演劇をやっている時は特に何もないのですが、2日目の午前の最後、吹部→合唱→軽音と舞台でやる時は、ひたすら放送セットを組み替えなきゃなりません。こういう時が問題で、どのマイクがどこに行って、今使っているのは何番のマイクかってことを常に把握しておかなきゃなりません。
で、軽音のリハをやってる時、ボーカルが大きいので、ボーカルのマイクをいじっていたのですが、まったく音量が変わらない。おかしいなと思ってミキサーの入力をチェックしたら、マイクの番号とミキサーの番号が対応していません。
限られたリハの時間に致命的なミス、しかも超初歩的なミスです。ブチ切れました。
「お前らな!なんちゅうええ加減なことやってるねん!こんな初歩的なミスしてな!信用できへんやんか!ええ加減にせんかい!」
放送セットを組むってことは、誰かがそれを使うわけです。それを使う人は、そのセットを信じて使う。もしも信じられないなら、イチから自分で組んだほうがはるかに信頼できます。そのことがわかっていない。とにかく仕事がええ加減。
ひとつのミスが誰かに迷惑をかけている。そのミスが信用を失うという厳しさ。それを感じながら信頼を積み重ねるということ。そこから必然的に生まれるピリッとした空気。それを実現するために、具体的に、なにをどうすればいいんだろう…。
出会いをつくる人
今日はトランスジェンダー生徒交流会がらみで保護者の方のランチタイム。
おひとりはお酒が苦手ということで、ランチバイキングのお店に行くことになりました。とは言え、わたしは当然のことながらビール→ワインを注文するわけです(笑)。
ま、それはいいとして。
もちろんトランスの保護者にもいろいろおられるとは思うのですが、なんか、みなさんすごいなぁと思いました。
自分の子どもが「まさかトランス?!」みたいな、たぶんすごいショックなんでしょうね。で、拒否と受容の間を大きく振れながら日々を送られます。いや、あるいは「拒絶≒無視」かもしれない。ある時は証拠探しのために子どもの過去を振り返りながら「徴」を探したりする。なんか、そんなのをくぐり抜けて到達した場所で発せられる言葉にはすごい重みがあります。それは、当事者本人には到達できない地平なのかもしれません。
「あの子が今日の出会いをくれた」
「あの子がいなければわたしはもっと狭い世界で生きていた」
「あの子がわたしの世界を広げてくれた」
すごいなぁ。
うん。親にこんな思いを抱かせる子どもにぜひ会いたいなぁo(^^)o。
自分の言葉をとりもどす
ほんとに瑣末な日常を過ごしていると、特段ネタもないので何を書こうかと。で、たまにはこのエントリかなと。
まぁ、おおげさなタイトルですが、たいした話ではないです。
いままで、いろんなところでいろんな人と出会ってきました。で、そのたびにいろんな言葉を発してきました。もちろんそれらの言葉、すべてがオリジナルではない。誰かの言葉を借りてきたり、誰かの言葉にヒントを得たりしたものもあります。でも、基本的に「単なる借り物」ではなく、自分の中を一度くぐらせて、自分の経験や考えを経過させて、その上で出典を明らかにしながら発してきたつもりです。
何が言いたいかというと、「それらの言葉はわたしにとって血の通ったものであり、切実なものである」という、単にそれだけのことです。
問題はここからでして…。
それらは時として消費される。あるいは搾取される。そして、誰かの分析や解釈を加えられてしまう。その時の主体は誰か?それはわたしではなく、分析し解釈を加える「その人」です。
もちろんそんなことは織り込み済みですやってきたわけですが、なんかある時、ふと「ん?」と思ったんですよね。
で、そうなった時、とる道はいろいろあります。「口をつぐむ」「それでも語り続ける」「単著を出す(笑)」「分析する側にまわって、自らを分析する」etc
もちろんどれかが正解なわけでもなく、どれかひとつしか道がとれないわけでもない。
で、わたしはたぶん「おべんきょ」という道を、新たに選択した。それは、自分の言葉を自分の手のうちにとりもどすためらしいです。
ずっと、なぜ自分が「おべんきょ」をしたいと思ったのか、その心の奥底がわからなかったんです。でも、いろんな人といろんな言葉のやりとりをし、「言葉」について考え続ける中で、もしかしたら「こう」かもしれないと思った、その一里塚です。
でも、この一里塚は、忘れちゃいけない一里塚です。