今日は某在日外国人教育関係の会議のあと、多文化共生フォーラム奈良の35周年のパーティーに参加しました。で、いろんな人のスピーチを聞きながら、あらためて35年という重みを感じました。
35年前…。1979年。わたしが大学に入る前ですね。そんなころから在日外国人の子どもたちの教育にまっこうからとりくんでおられたわけです。それは単に「教室の中で在日外国人理解の教育をする」などという話ではありません。ひとりの在日外国人の子どもにかかわるということは、その子の進路保障をするということです。で、その進路保障とは、単にその子の進路を保障するということではなく、社会の有り様を変えていくなかですべての在日外国人の子どもの進路を保障するということです。実は第一世代の方のうち何人かはすでに亡くなっておられます。あるいは定年退職を迎えた方もおられます。それでも、今もフォーラムは続いています。
この35年の間、いろんなグループができています。きっと「新しい活動」をされているんでしょう。それはそれで大切だとは思います。ただ、「新しい活動」が見ている課題はあるんだろうけど、フォーラムあるいは全外教が見ている課題が解決しているかというと、何も解決していない。いや、「なにも」ではないか…。解決の方向へ動かしてきてはいる。でも、逆行している部分もある。
35年もやってきた活動って、重いです。それはいろんな意味で重いのです。たぶん、新しく「自分がやりやすい活動」をつくったほうが楽かもしれない。でも、やっぱり、この歩みはとめたらあかんなぁ。そんなことを、焼酎を飲みながらぼんやりと考えていました。
カテゴリー: 考え
なんもない…。けど
朝、仕事に行って、仕事して、昼のおべんと食べて、午後は少しおべんきょもして。6時くらいに力尽きて、家に帰ってビール呑んで寝る。
ま、そんな日常です。
そんなに毎日毎日なにかがあったらたいへんだわ(笑)。
けど…。
この追い詰められ感はなんだろ…。
俵に足がかかって反り返ってる感じです。
このままなら寄り切られて負け。勝ってもしのいだだけ。かなり不利だよなぁ…。
てか、なんで単に生活するのに勝ち負けが必要なんだ?
取り残され感?
ここ数年、おそろしいペースで社会というか世間というか、そんなのが動いているような気がします。で、去年の今頃は、その動きにのって、いろんなことをしてました。そのおかげで、今も動きに呼応した情報がいっぱい入ってきます。それはそれでいいのですが…。
9月以降、1月終わりまでは「あえて動かない」と決めました。なので、情報が入ってくるけど動かないという選択をしています。
うーん。取り残され感はハンパないです。
でも、一方で「これもまた大切なんじゃないかな」と思うこともあります。それは「流れの中にいたのではわからないことや、とりこぼすことがあるのかも」ってことです。
例えば、次から次から「新たな問題」が起こる。それにひとつひとつ敏感に反応をしてしまう自分はいます。でも、そうやって反応すると、次第に自分が継続的に考えていることが「古いこと」のように思えてしまう。すると、相対的な「魅力」が減っていく。
でも、「新たな問題」にシフトしたら、「古いこと」は解決するのか。たぶん棚ざらしというか塩漬けになるだけで、解決しない。なので、例え取り残されたとしても、「古いこと」を考え続けなきゃならない。
まぁ、言い方を変えるなら、新幹線の中からは見えない風景が、歩きの中からは見えてくるってことでしょうか。必ずしも新幹線に乗って遠くに行くことが「いいこと」ではない。新幹線で通り過ぎたところに大切なものがあるかもしれない。
まぁ、わたしはアクティビストじゃないからな(笑)。
みんなどんな話をしてるんだろう…
「「伝える」という当事者」というのを、ふと「ダメダメ先輩」に伝えたところ…。先輩は
「伝えるって、難しいって考えられがちですよね」
とのたまわれて、あらためて
「そうかぁ…」
と気づいた次第でした。「伝える」って、そういう「場」を設定して(もらって)、それなりの言葉を選んで、そこではじめて「伝える」みたいなイメージがあるのかな。で、そういう「場」を与えてもらったり自分で設定したりしてる人は、そういうことに慣れてるけど、そういう機会がなければなかなか…。みたいなイメージがあるのかな。
でも、わたしが考える「伝える」はまったく違うイメージです。例えば、こないだのリビングライブラリが終わった昼休みに他のクラスの友だちとごはんを食べる。
「あんたのクラス、どんなはなしやったん?」
「うちのクラスはな、こんなんやってん。あんたのクラスは?」
みたいな会話のことを「伝える」と考えているんです。つまり、経験や出会いを自分一人のものにしない。シェアする。それを、日常の生活の場でおこなう。
それは、別に学校の中だけで存在しているわけじゃなくて、家であったり、友だちとの会話であったり、例えば就職してからの会話であったり。ありとあらゆるところで可能なわけです。
そんなことをやりとりしていたのですが、ふとダメダメ先輩が
「みんな、どんな話をしてるんだろう。なにを伝えてるんだろう」
という、これまた深遠な問いかけを返してこられました。
「例えば、子どもって家に帰って「今日こんなことがあったよ」って言うじゃないですか。でも、だんだんそれがなくなる。大人になって、みんなどんな会話をしてるんだろう」
なるほど…。
で、振り返って、職場で自分はどんな会話をしてるんだろう…。お、思い出せない^^;;。仕事の話。昨日飲みに行った話。んー、他愛もない話です。こんなことは「伝える」ではない。
昨日のテレビの話。そこで考えたこと。
あるいは昨日のカウンターの話。そこで聞いたヘイトスピーチの話。ビラを受け取ってくれた人の表情。終わって飲みながらしゃべった在日の友だちの話。
うん。伝えたいのはこっちです。
何が違うんだろう…。
「考え」を伝える?経験や出会いをそのまま伝えるのではなく、それを通して考えたことを伝える。あ!それか…。
そう言えば、こないだのリビングライブラリの講師さんのレジュメの中に「考えるのをやめないこと」っていう一文があったな。
あれなのかな…。
「聴くことの力」「語ることの力」
今日は昼前に、うちのガッコでは初の試み「リビングライブラリ」がありました。
リビングライブラリを終えて、あらためて「リビングライブラリってなんだろう」ってことを何度も何度も考えました。かつて「本」をやった立場とはまた違う「司書」の立場から考えることはたくさんありました。
そのきっかけは、ある教員のひとことでした。
「あの人は苦労をしていない」
この言葉への強烈な違和感が、自分の中にずっとあります。その違和感を言葉にするのにものすごく時間がかかります。でも、あえてひとことで言うなら
「被差別の立場にあるものは苦労しなくちゃならないのか」「被差別の立場にあるものが語れるのは苦労だけなのか」
でした。
今回「本」になってくださった一人ひとりは、たぶんそんなに大きな被差別体験はもっていません。でも、小さな被差別体験は持っている。そこに敏感であることが大切なんだと思うのです。「生きるか死ぬか」「ヤクザかカタギか」という波乱万丈もいいです。でも、そんなのばっかり聞いていたら、鈍感になります。被差別体験のインフレーションを起こしてしまいます。
ではなく、日常の中にこっそりとたたずんでいる差別に出会う感覚。やり過ごすことも可能だけど、やり過ごせない心の痛み。そんなところにある「小さな」差別にこそ着目したい。
そして、もうひとつ。
それは「可視化」なんだろうなって思ったんです。
遠くにある被差別者が遠くでしゃべるんじゃなくて、隣にいる人がふとつぶやく。それを聞く。「この人にもこんなストーリーがあったんだ」ってことに気づく。
たぶん、最初にあげたひとことを言った教員はステレオタイプ化された「語り」を期待していた。でも、それはなかった。だから「イマイチだった」んじゃないかと思います。
では、わたしはどんな聞き方をするのか。
わたしは基本的に、何も期待していない。ただ、聞く。そしてその人の語りから考える。そして見つける。
この人は何に引っかかっているんだろう。その引っかかりにどうやって気づいたんだろう。いま、その引っかかりとどう向き合っているんだろう。なにかアクションを起こしてるのか。起こしてないのか。起こすならなぜ?起こさないならなぜ?
学ぶことは山のようにあります。それを学ぼうと思うなら、あらかじめの「期待」は邪魔です。もしもあるなら「何が起こるだろう」という期待だけです。
そういう聞き方をしている。
リビングライブラリって、たぶん、そういう聞き方をするものなんだろうなって思いました。
これは、例えば、生徒の相談に乗るときの姿勢と共通しているかもしれません。
ある生徒が相談に来る。
たぶん、多くの教員は「その生徒が知らないことを言ってアドバイスする」んじゃないかと思います。でも、わたしは、「その生徒の中にある答えをその生徒自身が見つける手伝いをする」ものじゃないかと思っています。本人は「それ」が答えとは思っていない。だから、わたしは聞く。その子から言葉を引き出す。そして、「そうだったんだ!」って、わたしが気づく。その気づいたわたしの姿を通して、その子は「これだったんだ」って気づく。
このことは、リビングライブラリが「本」にとっても大切な場であることを示唆しています。「聴く人」に向けて「語る」。「語ること」を通して整理する。そして、「聴く人」を通して気づく。そういう相互作用の場であるということです。
リビングライブラリという場にかかわるもの。それは「本」であれ「読者」であれ。そこに必要なのは、おそらくは「誰からも学びうる」という姿勢なんじゃないかなぁ。
ここでしか通用しない常識
前回欠席した子にテストを返そうとしたら、メッチャ不機嫌そうに
「点数知ってるし、いらん」
とか言います。かなりムッとしたので、テストは押しつけて、不機嫌に授業をしていたのですが…。30分ほどして
「さっきの態度にムッとしている。なぜあんな態度をとった?」
と聞いたら
「寝起きで機嫌が悪かった」
とのこと。
あのね…。
てことで、みなさんに注意。
「「寝起きで機嫌が悪かった」で通用するのはここだけやしな。地下鉄で乗り越しそうになって、誰かが起こしてくれたとして、その人に「なにんするねん!」とか言って「寝起きで機嫌が悪かった」は通用せんよ。ケンカになるよ」
世間では当たり前のことでも、ここでは通用しないことがあって、そんな中で日々生きてるんだなぁと…。
能動的な学習
昨日の楽しかった夜のせいか、朝はメチャメチャ眠いです。というか、ここ一週間の自分の行動を考えたら、眠いのはあたりまえです。自業自得というか自暴自棄というか(笑)。
てことで、ゆるゆるペースで一日スタート。
とりあえず、最初のタスク、祭典をサクリとこなして、授業だのなんだの。
午後からは研究授業とやらで、若手の授業の見学です。
実は、わたしは昔から授業研究ってのがあまり好きではない。いや、人の授業をのぞき見するのは好きですけどね(笑)。そのあたりはこの人がよく書いておられることと共通しています。
だけど、なんしか今日のは義務っぽいので行ってみました。ちなみにこういう時のわたしは「いかに数学を教えるか」とか「黒板をどう使ったか」とかいうあたりには関心がまったくありません(笑)。てか、そんな個別的な観点で授業研究をしても、マニアックなつつきあいにしかなりませんからねぇ。
で、今回のテーマは「能動的な学習」らしいです。
…。
能動的な学習?
意味がわかりません。もちろんわかるのですが、中身がわからない。というか、それってひとコマの授業で実現できることなのか?
と思いながら授業を見に行ったら、グループ学習させていました。そうですか。これが「能動的な学習」ですか…。そう思ったので、近くのえらいひと*1に
「これ、能動的な学習なんですか?」
と聞くと
「うん。能動的な学習」
って答えられちゃいました。そうなんか…。なんか、教師の考えることはよくわかりません(笑)。
てか、そもそも「授業」そのものが「受動的な学習」じゃんか。それをどう取り繕っても、しょせんは「ちょっとだけ受動的ではない学習」くらいにしかならないじゃん。てな発想はないのかなぁ。
孤独感が増します(笑)。
いや、若手の人、がんばってます。いい授業をされています。でも、「枠」の中なんです。ドラスティックに発想を変えるところにはない。経験がないからしかたない?じゃあ「若い人の発想で」とかいうのもやめたらいい。
発想の転換ということ、あるいは新しい発想というのは、ゼロから生まれるものじゃなくて、すでにあるけど、「まさかそれがつながるか」と誰もが思うような、一見関係ないことをつなげるところからスタートする。少なくとも、わたしたちの世界でいう「新しい発想」「発想の転換」は、たぶんその程度のものです。その「一見関係ないもの」を見つけつなげるということをするのに必要なのは、若さではなく経験だとわたしは思ってるんですけど、どうやらみなさんそうは思わないらしい。孤独感が増します(笑)。
ま、いいけどね…。
*1:≠管理職
腹立つ
例の法律の運用基準を閣議決定したそうな。「説明する」って言ってるらしいけど、また、形だけでなし崩しにするんだろ。
ろくでもないな。
人権の専門家
よく職場で「人権の専門家」とか言われます。たぶん、ものすごくいろんな意味が込められてるんだろうと思います。まぁ「鬱陶しい」とか「めんどくさい」とか「好きもの」とか、その他諸々(笑)。
でも、ずっとわたしは「人権の専門家なんていないよ」と思ってきたのですが…。
あえて「人権の専門家って存在する」って言ってもいいような気がしてきました。
例えば…。
野球の専門家がいるとします。豊富な知識もあり、豊かな実践を重ねている。そこには、もしかしたらいろんな他のことよりもそれを優先し、それにかけ続けた結果として得られる膨大な経験と理論がある。
じゃ、人権の専門家がいるとします。豊富な知識もあり、豊かな実践を重ねている。そこには、もしかしたらいろんな他のことよりもそれを優先し、それにかけ続けた結果として得られる膨大な経験と理論がある。
たぶん同じです。でも、前者は専門家として自他ともに認めることは可能かもしれないけど、後者はどこかに「?」が入り込む。
ま、野球は普遍ではなくて人権は普遍ってことはあるかもしれない。でも、そこでいう普遍さと専門性の有無は少し違う。
で…。
おそらくは専門家同士の間には、いろんなことはあるだろうけど、やはり謙虚さと尊敬がある。例えば、人権を専門的に追求している人たちの間にもそれはたぶん(笑)あります。
逆に言うなら、専門家と非専門家の間には専門家同士の間にある「それ」はなかなかない。なぜなら、「わからない」からです。
そして、イーブンに論議をしようとする。でも、それはきついと思うのです。
これ、教育を語るときにも同じようなことがある気がします。
なんか、「教育」も「人権」も、いまや居酒屋談義で語れてしまうレベルって意味で、同じなのかもしれない。
あとからジワジワくる
ふいに出会ったフォビアは、その瞬間は「キョトン」なんですけど、あとからジワジワきます。そしてそれはなかなかひかない。もしかしたら、一生ひかないかもしれませんね。仮にひくとしたら、そのフォビアを打ち消す「なにか」があった時、それに相殺される感じで消される。
「ひく」という受動ではなく「消す」という能動。そこには打ち消してくれる「他者」と、消そうとする「わたし」の両者の意志が働く。
いや、「消す」は消えるからなくなることになる。そうではなくて、そこに存在し続けるけれども、「つ」になるということ。「無化」かな。
とりあえず、まだ「つ」にはなってないけど、「やる」ことが「つ」へとつながる行為。そこに「他者」はいるはず。そしてすでにいる。