こわい

統一地方選挙の結果について、いろんな人がいろんな分析をしてくれているので、まぁ、いまさらなんですが…。
まぁ、わたしが投票した人は薄氷の思いではあっただろうけど、当選されました。よかったよかった。
で、ふと思うのですが…。
例えば、広島ファンの人って、勝とうが負けようが広島を応援しますよね。ところが、政治だとそうはならない。まぁ、野球と政治は違うから「それは比較がおかしい」って話にはなるんだろうけど(笑)。
ただ、例えば広島ファンだって甘やかすわけじゃないわけですよね。もちろん批判はする。したうえで、でも応援する。で、その担保があれば、広島はブレずにすむ。大切なのは、一時失敗しても、ブレずにやりかたを一貫する。その息の長さを保証することなのかなと。
逆に言うなら、その担保がなければ状況にあわせて迷走するし、結果、ますます泥沼にはまる。

で…。
その「息の長さを保証されていない政党」って、どこかなと。逆に「息の長さを保証されている政党」って、どこかなと。
なんかそんなことをふと考えたりして…。

にしても、やはりこわいです。野球なら「関心ない」ですむことだけど、政治はそうはならない。
投票率が40%台ってことは、半分も行ってない。で、たとえそのうち過半数をとったとしても、全体から見るとせいぜいが20数%。それが全体を決める。そんななか、ブレずに「粛々と」やり続けてきた党がその20数%を握り、あるいは狙い続けてる。
その行き着く先は…。
やはりこわい。

SSTとp4c

なんか今度職場でSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)をしなくちゃならなくて、その研修会がありました。
んー。
たしかにうちの職場、SSTはやったほうがいいかなとは思うのです。思うんだけど、キライなんですよね。特にロールプレイがイヤ。あのわざとらしさというか、予定調和的なところが、どーにも好きになれません。でも、やらなきゃならんからしかたないです。参加しました。
今回のお題は「心地よいあいさつ」だとか。で、笑顔の練習とか。まぁ、わたしは笑ってる時間のほうが長い人間なので、別につくらなくてもできるのですが…。できない人もたしかにいますね。てか、SST、生徒じゃなくて教員が必要なんじゃないのか(笑)?
てのはおいといて…。
かつて「行動療法」がらみのことをおべんきょしたとき、「性格を変えなくても行動を変えればいい」って話を聞いた時、いたく感動した覚えがあって、それはそれでいいかもとは、たしかに思いました。でも、どこかにうさんくささというか、「結局スキルかよ」っていう思いもあったのもたしかです。古風な人間かもしれないけど、内側から滲み出るものはあるんじゃないかと思うし、そのために「人間を磨く」っていうことがあってもいいんじゃないかとも思うわけです。
なんか、そんなことを感じながらのSSTの研修会でした。ま、もちろん、やる限りはベストを尽くしますけどね^^;;

で、夜はp4cがらみの打ち合わせ。
なんかしゃべっているうちに「あぁ、こっちだよ」っていう気がふつふつしてくるんですね。Hんまさんの「スキルじゃないんだよ!」もすんごく来たけど、T橋さんの言葉はよかったです。
「カウンセラーは個々の人の課題に着目する。でも、哲学はそうした課題の先にある共通の問題を問う」
うわぁ、キレッキレ!
うん
うちの子らとp4cのひとときをすごしたら、きっとおもしろいことがいっぱい出てくる気がします。チャレンジだな…。

とあるニュースに触れた時のtweetとか

なんか、「全国的な動き」が起こったらしい。

たぶん、わたしとか過去の人なんだろなぁ。いや、過去の人でもなく、存在しない人なんだろなぁ。

んー
まぁ、社会は自分みたいな小さな人間がやっている小さなことなんて無視して、ブルドーザーのような馬力であたりを均していくんだろうなって、ふと思いましてね。
でも、ほんとはその小さなことを大切にすることが大事なんだと信じてるんだけど。
でも、たまにイヤになる…。

いやぁ、わたしの座右の銘は「一寸の虫にも五分の魂」ですよ。

さてと
今日も10年やってきたちっちゃな集まりをしてきた。ちょい寒かったけど、いい花見だった。新しい人も来た。
10年にはね、それなりの重みがあるんだよ。

親和性

基本的に、わたしは職場の中に友だちはほとんどいません。連絡先すら知らない人が多数です。なぜなら、興味が違うし、行動パターンも違うからです。
わたしの興味は、ほとんどが「ガッコの外」にあります。また、行動パターンも「ガッコの外」です。に対して、同僚の多くは「ガッコの中(あるいは延長)」で生きている*1
だから、こないだの「おさんぽ」に同僚が来たことが大きな驚きだったわけです。ちなみに、わたしが話があうのは「常勤講師」の「女性」が多いみたいです。まぁ、ベテランと言われる年齢の教員と若い女性の常勤講師との間にある「権力関係」って言われたら、身も蓋もないのですが^^;;。でも、たぶんそれは違うと思います。
で、なんでこんなことになるのかなと思ったのですが…。
「もしかしたら」と思ったのは…。たぶん新採の教員のほとんどは、単に教科だけではなくクラブ指導も期待されて採用されているんじゃないかと。だって、高年齢化していく現在の学校現場では、たぶんクラブ指導してくれる教員が不足しているから、当然そうなるんじゃないかと。ちなみに、クラブ指導は「本務」ではないので、元来おかしいことなんですが、でも、そういう状況がある。
で、「クラブ指導」をはじめると、放課後と土日がベッタリととられてしまう。しかも、近年「土曜活用」とか言って、勤務時間外労働も日常化している。すると、放課後や土日に「ガッコの外」に出ることができなくなってしまう。あるいは、そこに関心を持たない人が採用されることになる。当然、わたしの「興味」や「テリトリー」とは異なる人が多くなる。
でもねぇ。
これはまずいと思うのです。だって、例えば「人権」の研究や実践の交流は「ガッコの外」にある。いや、「ガッコの中」にもあるけど、でも、例えば「おさんぽ」の場所は「ガッコの外」なわけで、そこに行かなきゃどうしようもない。で、その時間をクラブ指導は奪ってしまう。あるいは、あらかじめ奪われることを前提で採用される。いや、奪われていることに、少しずつ少しずつ慣れていって、奪われていることを忘れてしまう。
で、若い女性の常勤講師って、「若い=忘れる前」で「女性=往々にして体育系クラブ指導を期待されていない」で「常勤講師=継続性の問題があるのでクラブ指導を前提に雇用されていない」から、いままで述べた人とは異なるところにいるのかなと。
で、仮にそうだとして…。できれば正規採用になった時に、「慣れ」たり「忘れ」たりしてほしくないなぁと思うわけです。
っていうオチでした^^;;

*1:もちろん「多くは」ですから、少数そうではない人がいるし、そういう人は「興味」の中身は違えども「すごい」人たちだとリスペクトしています。

記録更新のコツ

ま、こんなところ誰も読んでないだろうから、何を書いても別にどうということはないだろうということで(笑)。
わたしがどうやって記録を更新しているか、いろいろ考えたのですが…。
もちろん、「わたしが一番大切にしていること」は、おそらくはすべての「教員」と名のつく人が大切にしていることだと思います。でも、なかなかうまくいかない。
たぶん、それは「やり方」が違う。
みなさん、ほんとにていねいに、かつ手をかけて、いろんなことをしておられる。それこそ、小テストとか補習とかね。
わたしはかつてはそれをやっていたけど、今はまったくしなくなりました。でも、記録は更新される。なぜだろう…。
たぶん、やり方が違う。わたしは「個への対応」はしなくなりました。その代わり「集団」をどう運営するかってことを考えるようになりました。
例えば、子どもたちが「教える/教わる」関係になれるようにするためにはどうしたらいいかとか、ひとりの「質問」を全体で共有するためにはどうしたらいいかとか。全体を個に返し、個を全体で共有する。
それは「数学の教え方」とはまったく違うことです。わたしが考えている、あるいは意識しているのはそこなんです。
いや、もしかしたら誰もがそれをしているかもしれないけど、それを意識化することが大切かなと思うんですよね。
で、そうやって勉強した結果は、生徒本人のものだから、本人も「助けてもらった」とか思うんじゃなくて「がんばった」って思える。それが次へのモチベーションになればいいなと。
ま、そんなことを考えてるんだけど、毎年ヒヤヒヤもんですわ…。

最後の授業

今日の授業は20分が2コマ。試験返しです。ま、採点ミスがないかどうかとか、提出してくれたノートの返却とか、いろんな「処理」の時間ではあります。でも、わたしにとっては総括の時間です。

まずは、君たちと過ごしたこの一年、ほんとうに楽しかった。ありがとう(^^)。
きみたちの会話を聞いている時、わからないことを隣の人に聞いていることがあったね。あれ、すごくうれしかった。わたしにはできない教え方をしてくれてるんだと思った時、「ありがとう」って思ってた。
それからね。しんどいことがあってね。今日ここにいない子がいる。とてもとてもつらい。それは、君たちも一緒だと思う。もしもこの中に教員をしたいと思っている人がいたら、いまのつらい気持ちを忘れないでほしい。
それからね。もうひとつあります。
たぶん選挙権が18歳に引き下げられる。ここにいるのは全員日本国籍を持っているから、みんな選挙権を持つと思う。選挙権というのは、先人たちが命をかけて勝ち取ってきたものなんだ。だから、必ずその権利を行使してほしい。そして、それは「戦争をしない」ために行使してほしい。

そんなひとときを過ごしました。
これが教員なんだろな(^^)。

「声」はそこにある

今日は、とある雑誌の取材で鼎談をすることになりました。わたしに与えられた任務は、いつもの「仲間探し」です。
今回の中身にふさわしい「仲間」…。
いちおう、「LGBT特集」らしいので、トランスばかりというわけにはいきません。てか、すでにオープンにしているトランスを集めてもおもしろくないし(笑)。
てことで、レズビアン/ゲイの人を探すことにしたのですが、これがなかなか思いつきません。瞬間、平野さんとかも浮かんだのですが、今回については違う気がします。
ちょっと思い当たる人がいたので、とりあえずメールを送ってみたのですが
「自分は完全なクローゼットで、まったく誰にもオープンにしていない。せっかくのお誘いだけど絶対に無理」
という返事がかえってきました。
そうなんだ…。コミュニティで会う時は、とても気さくでオープンな感じだけど、普段は違うんだ…。なんか、すごく厳しい現実をつきつけられた気がしました。
でも、なんか、今回の中身は「クローゼットな人」に話をしてほしい気がしているのです。というのは、クローゼットな人の声は、なかなか伝わらない。でも、そんな人にも「声」はある。きっと隣にいるであろう人の声なき声。そんな「声」にこそ耳を傾けるべきだろうと、わたしは思うからです。
そんなことを考えている時、ふと何人かの知り合い、それもほんとうに「ふいに出会った人」が何人か浮かびました。そうだ。あの人たちに頼もう。
すると、みなさん、快く引き受けてくださいました。
で、今日迎えた鼎談。
すごくよかったです。
名前のない存在、いや、存在しないものとして扱われることへの怒りや悲しみ。
言いたいけど言えない。でも、信頼できる人へのカムアウトの実現、そしてそのカムアウトを受けた人の変容。「自分のことを言うことはできないけど、なんらかのことはしたい」という思いを聞けたことは、すごくよかった。
そうそう。
街角でレインボーを見た瞬間「あ、自分を「存在するもの」として考えてくれる人がいるって思える」って話がありました。当事者じゃない人がレインボーをつけることの意味を、なんか、教えてもらった気がしました。

ブルドーザーとのかけっこ

なんか、いつも、ほんの少しタイミングが遅いと感じるわたしです。あと少し早ければ、こんなにきつい思いをしなくてすんだんだろな。
でも、まだ追いつかれてない。
当事者特権は使わない。権力は使わない。そこから出てくる内容こそが普遍性を持つ。わたしはそういう場所で闘うと決めたんだ。だから、そこでやる。
しかし…。
なんか、ブルドーザーの前を必死で走ってる気がする。
まぁ、追いつかれたらキャタピラの隙間に潜り込んでやりすごして、必死で走って追い抜いて、おしりペンペンしてから、また逃げればいいってわかってるんだけどね。

ボヤキ

いろんなところで、いろんな人が、いろんなことを発言し、論議が起こっています。
いろいろ考えることはあるし、それに反応しようかとふと思うことはあるのですが、あえて沈黙することもあるのです。
別に考えてないわけではない。いや、逆に、考えています。考えているからこそ、ネットではあえて沈黙する。
ま、わたしが言わずとも「正しい」ことは、論議の中ですでに出されている。だから、できるのはせいぜい「イイネ」です(笑)。
なんか、うらやましいですね^^;;。ネット上で活発に表現できるのが。
わたしが発言するのはネット上の言葉の届かない、リアルな世界においてです。同じ意見を持つ人が、そこにいるかどうかわからない。誰も「イイネ」ボタンを持っていないところ。そこでわたしが発言したとしても、それが瞬時に世界に広がるわけではないところ。そこがわたしの発言する場所なんだと思っています。
だから、わたしの発言なんて誰も知らない(笑)。
ま、ボヤキです(笑)。

「枠組み」を拒否する

この間「ある言葉」を探し続けています。『社会学事典』なんていうのにも手を出したのですが、でも見つかりません。
で、昨日はとうとう「パラムの会」の文章に手を出してしまいました。とある特殊業務の予行中、安田直人さん、くらしげうひさん、片田孫朝日さんの文章を読みました。やはりおもしろかったです。もっとも、今探している「言葉」に変わる「言葉」を探すためには「あ、方向、間違った」と思いました。そりゃそうです。わたしが探している「言葉」とパラムの会が目指す方向は真逆でした。
パラムの会の方向は「既存の枠組みに自分をあてはめない」でした。
しかし、たぶんその前に「在日朝鮮人」「日本人」「日本籍朝鮮人」という枠組みがあって、それに「あてはまらない」という実感が、「パラムの会」のいう「叙述的自己表現」の原動力なんだと思います。
逆に言うと「日本籍朝鮮人」という「既存の枠組み」がまだ存在していなかった時に、たぶんその枠組みをつくりだしてきた人たちーー具体的には「民族名をとりもどす会」かなーーは、既存の「朝鮮人」「日本人」という枠組みに自分の居場所のないという実感があった。それを原動力として「日本籍朝鮮人」という新たな「枠組み」をつくりだしたんだと思います。そういう意味では「居場所のなさの実感」は、新たな「枠組み」をつくりだす原動力となる。で、その「枠組み」そのものを拒否したところに「パラムの会」のラディカルさがあったということなのかもしれません。でも、「あの時代」を考えると、むしろそのラディカルさが必然だった気もします。

んー
でも、いつも思うんですけど、「枠組み」があるから「拒否」できる。「枠組み」のないところには「拒否」はない。
つまり「拒否」は先行事例への批判であるということです。
問題は、継承するにしても、その「枠組み」を批判的に継承するのか、「批判なき継承」なのか。あるいは、新たな枠組みをつくるにしろ、枠組みを拒否するにしろ、先行事例へのリスペクトと批判が、正当になされているか。
なんかこのあたりが大切なのかなぁ。
難しい…(;_;)。