もちろん「世界」を股にかけて飛びまわる方もおられるし、仕事じゃなくて純粋な好奇心で世界の隅々まで行っておられる方もおられます。
それに比べて、関西の片隅でゴソゴソ動くだけ、「海外」に行ったことって、韓国に1泊2日しただけのわたしが「世界は広い」なんていうのは「お前のどこが世界やねん」というご批判を浴びることはわかっているのですが(笑)。
でもねぇ。最近「世界の広さ」を実感しています。
わたしはずっと、在日や部落のことを通して「人権」について考えてきました。まぁ、わたしよりずっと詳しくてずっと深く考えておられる方はもちろんおられますが、それでもそれなりに考え、わずかな実践はしてきたという「一寸の虫にも五分の魂」的な自負はあります。
でも、自分の自負は蛸壺のなかのことなんだなって、最近つくづく感じます。
自分はパイオニアとまでは言わないけど、それなりにトップランナーでやってきたことはあります。でも、それは蛸壺の中の話。蛸壺から出ると、似たことをやっている人はたくさんいて、その人たちのほうがはるかに広く深くものごとを考え実践しておられます。もう、リスペクトのひとことです。
でも…。
でも、ほんの少し違う。そこにこそ、わたしのオリジナリティが存在しているはずです。それを探すこと。そしてそれが「世界」とつながること。
蛸壺から出た世界は、とてつもなく風通しのいい広い世界o(^^)o
カテゴリー: 考え
パートナーのストーリー
今日は、「会いたい!」ってたまに言ってくれるお友だちに誘われての呑み会です。お互い、長い時間をかけてトランスをしてきたので、互いに違う環境ではあるけどわかることもまたある。なので、「あー、わかるわかる」「へー、そんなことがあったんや」みたいな話を延々としてました。
でも、一致したのは「パートナーの位置づけ」でした。
たぶん「パートナー」って随伴的というか、メインディッシュの「トランス」がいて、そのメインディッシュがあってこそのパートナーというか、もっと言えば添え物みたいに扱われがちだけど、それさ違うってことです。
実は、パートナーは当事者なんでしょうね。パートナーにはパートナーの語りがある。
そんなことをあらためて感じたので、そのうちKんちゃんな話をしてもらおうということで一致した、とてもいい呑み会でした(笑)。
ニーズ
この1年、ある授業で「ともに考える」ことへのチャレンジをしています。
「考える」ことは、うちの子らの課題だと、わたしは考えています。ヤツは「感覚」は、たぶんあります。なので「思う」ことはできる。共感する力もある。でも、「なぜ?」と問われたら、そこからは前へ進めない。なぜなら「感覚」で判断しているからです。
日常生活を送る上で、ほとんどの場合それでことたります。なので、たぶんヤツらはそれで「よし」としているんでしょうね。
でも、わたしは、できることならもうひとつ踏み込んだ生き方をしてほしいと、おせっかいながら思っています。なぜなら、そのほうがめんどくさい人生を送れるからです。そのめんどくささを経験したうえで、「なぜ?」を考えない人生と「なぜ?」を考える人生のどちらをとるかを考えてもいいんじゃないかと思っています。なぜなら、選択肢が多いほうがいいということです。
ただ、「なぜ?」を考えずにすむ人生をそれなりに送ってきた子らに「なぜ?」を考えることを要求するのは、とてもハードルが高いということが、少しずつわかってきました。
ヤツらは、ある意味とてもマジメです。単純に数学をしたくて選択した「数学」という名前のついた中身のない授業で「ヤツらが数学とは関係ないと考える」中身でとまどっている。そして、どうやら、その中身はとてもめんどくさい。なぜなら、考えることとそれを言葉にして表現することを要求される。さらに、考えるためには他の人の話を聴かなきゃならない。常に聴き、考え、表現すること。言い換えると、常に「参加」が求められる。これは、ヤツらが今まで経験したことがない。あるいは拒否してきた。あるいは経験させてもらえなかった授業なんじゃないかと思います。
しかし、「わたし」は「これが数学だ」と考えます。「なぜ?」と考え、それの答えを探す。ひとりで/みんなで。だからこそ、「数学」という看板の「中身のない」授業の中でチャレンジしました。「なにかが与えられるのを待つ」「与えられたものへの選択肢はわかる/わからない・できる/できない」ではない、それが数学なんだと、わたしは考えます。
でも、ヤツらにはそれはわからない。そして、たぶんとてもしんどい。
それに比べたら、「与えるのは教員」「逃げたいときは邪魔さえしなければ何をしても大丈夫」な一方的な講義はいかほど楽なことか。
そして、ヤツらは「自分の本来のニーズとは違う」と感じ、「参加」から逃げはじめる。
さてと。どうするかな?
ひたすら仕事、と、その合間
今日は特別時間割で、あさイチから2発やって、あとは作業タイムが確保できそうです。
てことで、サックリ2発やって、サクサクと仕事を進めていきました。
と、職員室の会話。
「選挙年齢、決まったで」
「あー、ほな、目の前のあの子らも選挙権持つんか」
ま、そりゃそうです。
でも、その中には18歳であっても選挙権を持てない子もいます。その子の存在を意識してくれるのかなぁ…。たぶん、言われなきゃ気づかないだろうなぁ。で
「君たちもみんな選挙権を持つことになったよね」
とか言うんだろうなぁ。
昼からもサクサクと作業をしていましたが、2時頃にいきなり白目を剥きそうになったので、いったん休憩。あぶなかったな。あのままだったら「永遠のゼロ」になるところだったわ*1。
夕方からは久しぶりに第二のふるさとに表敬訪問。たぶん、これって大切なことなんで、ちょっとマメにやろうかな。
なんか、穏やかな気持ちで一日が終わりそうです。
*1:キーボードでゼロを打ったまま寝てしまう、ありがちな話。
あり?そうなの?
つくづくわたしは「ものを知らないな」と痛感する昨今でして。
もちろんオリジナルというかスクラッチからいろんなことを考えるのですが、まぁ、たいていのことは誰などが考えているわけです。なので、同じようなことを考えている先人を見つけて、とりあえずその人が考え到達した地平からものごとを進めりゃいいんですが、その「先人」を知らない。まぁ、勉強不足なわけです。
で、今日はこないだ「当事者研究には山のように先行研究がある!それをふまえろ!」って怒鳴られたので、とりあえずは入門書から(笑)。
てことで、ダメダメ先輩からお借りした『当事者研究の研究』を読みはじめました。ふむ。おもしろい!
でも、読みすすめるに従って少しずつ違和感が。あり?こないだ、わたしのスタンスを指して「当事者研究!」って怒鳴られたのに、読めば読むほど「違う」という感じ。というか、わたしはその立場はとらないって決めた、その立場じゃん。
なんというか…。
尼崎から西へ行こうとして気がつくと向こうは神戸に向かってて、自分は福知山に向かってました、みたいな。
なんか、メッチャ混乱してるけど、もしかしたら、それは、自分のスタンスが決まっていないからかもしれない。
でも、ま、いいや。なんか、おもしろそうだし、役に立つ立たない以前に、熊谷さんのファンだから読もう(^^)。
一昨日増やした仕事のメモ
一昨日増やした仕事について、いろいろ考えたメモ。これ、実は5年前に聞いたA○澤さんの話に源流があります。それから5年間ずっと頭の片隅で考えていました。
この話って、自分の問題意識とすごくつながっていたんですね。「なぜ人権という概念が一般化しないのか」「なぜ人権教育が一般化しないのか」「なぜ「人権は難しい」と考える人がいるのか」「なぜ「人権教育は慎重に」と考える人がいるのか」「なぜ人権教育って「またか」ってなるのか」あたりかなぁ。
たぶん、それって、阿K○さんが言っていた通り、「人権そのものについての学習をしていない」からなのかな。
であるなら、「人権そのもの」をわかりやすく伝える必要があるし、わかりやすくするには「可視化する」必要がある。で、どうすればいいのかを考えていたんですけど、こんなところがあるのを知って、いつかはこれをやらなきゃならんなぁと思っていたのです。で、それが花開いたのがこの2月のPククネさんの話だったんです。
で、明日のためのメモ。あくまでも試論/私論です。
- 人権ってなんだろう?
→人が生まれながらに持っている権利
正確には「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」(世界人権宣言第1条)
- 人権って誰が決めたの?
→世界中の人々が長い歴史をかけて
- 人権って具体的にはどういうもの?
→世界人権宣言にリストが書いてある。そのリストは「権利がない」ということを主張する人たちが発見していった。先にあげた世界中の人々とは、そうした人々やそうした人々とともに生きようとしている人々のこと。
- 差別ってなに?
→リストが保障されていない状態。それは個人に対してもあるし、構造的にあるグループが保障されていないこともある。
- 具体的にどんなグループが差別されてるの?
→「人権教育をすすめるために」にリストがある。そのグループは「人権のリスト」のうちのいずれかが保障されていないグループ
- 人権の専門家っているの?なにをしてるの?
→いる。リストを具体化するにはどうしたらいいか。それを人に伝えるにはどうしたらいいか。リストが保障されていないグループがいるか。そのグループはどのようにして保障されていないか。そのグループが保障されるためにはどうすればいいか。なんかを研究し、実践している。
- なぜ人権って疎んじられるの?
→権利を持っている人が、持っていることを責められるの感じたり、自分の権利のパイを奪われると感じたりするから。
- 人権は権利のパイのとりあい?
→違う。宇宙に果てがないのと同じように、ある人(グループ)に保障されていない権利を回復するだけ。
- なぜ人権が必要なの?
→その方が長期的には社会がうまくまわる
- なぜ差別があるの
→その方が短期的には得をする人がいるから
- なぜ人権ってむずかしいと考えられるの?
→人権のことをなんとなくしか理解していないから
あえて仕事を増やす
まぁ、何も言わなければ「ない」ままで終わるわけで、そうすれば楽は楽です。でもねぇ。もう限界かな。「これではあかんやろう」と。あまりにもないがしろにされているというか、「なくてもいい」とされているというか。
てことで、とある同僚に苦言を呈しに行きました。
みんな、人権ってわかった気になってるみたいだけど、ほんとにわかってるのかって気がいつもしています。
まぁこんなことを言うと「わからないから人権学習は人権担当がすべき」みたいな「逃げ」の口実に使われるから、あまり言いたくないけど、そして言わずにきたけど。
でも、そんなに簡単にわかることができるものなら、人権についての研究なんてしなくていいはずですよね。でも、実際には研究者もいるし、多くのルポもある。てことは、「わからないこと」があり「知らないこと」がある。思考の深みや経験の有無に差がある。それも圧倒的な差がね。
てことで、マジで少し仕事を増やそうかな。ほんの少しだけだけど(笑)。
あー、雑務の完成は遠のくなぁ(;_;)。
仕事仕事の合間に
なんか、カントクとか採点の祭典とか、書類つくったりとか、いろいろ仕事な日でした。
にしても、若い衆の話を聞きながら、考え込んでしまいました。
あまりにも見方が一元的。まぁ、そりゃそのほうが楽だし、理解しやすいし、合意も得やすい。でも、「それではあかん」とわたしたちは教えられてきました。
わたしたちに「教える機会」をつくってくれなかったから、いま断絶があって伝わらない。だって、みんな、わたしらみたいなややこしくてめんどくさいことをしなくても、一元的な見方でみんな合意をとれて理解してるから、「ややこしい見方」なんかに興味がない。
まぁ、でも、あれか。最前線にいると「背景」なんて考えないほうがいいんだろうし、そういう人間を求める人たちがいて、まんまとそういうふうになっているのかな。
家に帰ったら、ケーブルテレビ屋さんが来ました。TAの交換、本来は作業員がやるらしいんですけど、こっちにやらせてくれました。あっという間に終わりますわいな(笑)。
「いまどき、NTTの回線とVOIPを切り替えて使ってる人なんていないですよ」
と聞くと
「いないですねぇ(笑)」
とのこと。たしかにサポートセンター、大混乱してたからなぁ。
まぁ、無事にすんでよかったよかった。
で、昨日届いた1次校正の原稿を家族に紹介。うーん。二日酔いの時のほうが尖ったことが言えるんだ…。
アレキサンダー・テクニーク
昨日の夜、鈴木重子さんから「アレキサンダーテクニーク」のレッスンを受けたんですけど、すごく印象的でした。
まずは、頭蓋骨がどこで支えられているかってことを教えてもらったんですけど、「へー!そんなところだったんだ!」という驚きです。で、そこに意識を集中して頭蓋骨の位置を調整すると、いきなり頭蓋骨がフリーに動きはじめます。ほんとに力がいらない。
で、今朝、また少しレッスンを受けたんでけど、おもしろい。背骨がいい位置になると、目線がほんの少し上にあがる。で、歩きはじめると、いきなりカクンと落ちる。で、片足だけいい位置にしてもアンバランス。でも、両足をいい位置にするとみごとにバランスがとれます。
「はじめてなのによくわかりますねー」
って言われたけど、そりゃわかりますよ。それほど劇的な変化があります。
ちなみに、重子さんとふとんの上で寝転びながら、あーだこーだダラダラとしゃべっていたのですが…。
「表現」をめぐる話や「考えること」をめぐる話。すごく一致をする。もちろん、質や深さは違うとは思います。あるいは方法や方向性、これは明らかに違う。でも、違いはそんなに大きな問題とはならないのかな。
重子さんは「考える」ときに「身体」と対話しておられるのかな。うん。おもしろい。そう言えば、わたしも重子さんと話しをするときは、身体のあちこちが考える気がします。これはなかなか感じられない感覚です。
もしかしたら、そんなのもアレキサンダーテクニークと関係があるのかなぁ。
なんしか、かなり刺激的な、それもとても静かで深い刺激のひとときが過ごせました。
「違和のありどころ」とか
で、宿舎でやる打ち上げに、なぜかわたしも参加。てか、蓮池さんたち、はじめからそれが織り込み済みだったらしいです。
で、みんなで呑みながら、いろいろ話。で、ついつい「違和のありどころ」の話。
「見習い天使」は、もともと自殺予防のプロジェクトの中で出てきたものらしいのですが、社会の出来事のなかで少しずつ変化してきたようです。そして、3.11で大きく変わって、舞台を福島に移すことになったそうです。
今回の芝居には福島から避難されていて、避難者支援をしておられる方が招かれていました。で、その人のトークもあったのですが…。
福島の話を当事者から聞くのははじめてのことで、いろいろ学ぶところはあったのですが…。
それはそれでいいのですが、やはり「語り口」がなぁ。たぶん震災の話が風化していく、それが特に西日本において顕著であることを肌で感じられるからこそ「西日本の人では」みたいなことを訴えられたのですが…。いや、わかります。その通りです。わたしなんか、その最たるものです。でもね。
例えば阪神淡路大震災の時に東日本の人はどの程度切実だったかってこともある。いや、そんなふうな東日本と西日本を分断しちゃいけないですね。もっと考えなきゃならないのは「絆」という言葉かな。これ、劇中にも出てきたんですけどね。そして「がんばろう日本」。
まさに被災地薄めの言葉だと、わたしは思っているし、それが「風化」の一因ではないかとわたしは思っているのです。
あー、でも、まぁそれをもって「西日本における風化」を正当化しちゃいけないです。
一番の違和は「わからないだろうけど」です。
わかるわけがないです。それは大前提なのです。でも、その大前提であるわかるわけがないことを「わからないだろうけど」と語られると、とてもきつい。そしてそれを散々経験してきたわたしは、その言葉は決して使うまいと決めてきました。それを久々につきつけられたなって感じ。それが違和のありどころだったかな。
たぶん、あの場にはいろんな「しんどさ」を抱えている人がいた。そんな人々の口を閉ざしてしまいかねない「わからないだろうけど」は、やはりしんどいな…。
違和のもう一つは「家族」ですね。
いや、いいんです。大切です。でも、しんどかったな。それはセクマイにかかわるだけではない。「家族」にしんどさとか息苦しさを感じる人にとって、やはり「家族」を自明のこととして提示されると、「う…」となってしまう。
まぁ、そんなことを話しながら、ダラダラと最後まで飲んだら、3時でしたよ。でも、こんなの、懐かしいなぁ(^^)。