アレキサンダー・テクニーク

昨日の夜、鈴木重子さんから「アレキサンダーテクニーク」のレッスンを受けたんですけど、すごく印象的でした。
まずは、頭蓋骨がどこで支えられているかってことを教えてもらったんですけど、「へー!そんなところだったんだ!」という驚きです。で、そこに意識を集中して頭蓋骨の位置を調整すると、いきなり頭蓋骨がフリーに動きはじめます。ほんとに力がいらない。
で、今朝、また少しレッスンを受けたんでけど、おもしろい。背骨がいい位置になると、目線がほんの少し上にあがる。で、歩きはじめると、いきなりカクンと落ちる。で、片足だけいい位置にしてもアンバランス。でも、両足をいい位置にするとみごとにバランスがとれます。
「はじめてなのによくわかりますねー」
って言われたけど、そりゃわかりますよ。それほど劇的な変化があります。

ちなみに、重子さんとふとんの上で寝転びながら、あーだこーだダラダラとしゃべっていたのですが…。
「表現」をめぐる話や「考えること」をめぐる話。すごく一致をする。もちろん、質や深さは違うとは思います。あるいは方法や方向性、これは明らかに違う。でも、違いはそんなに大きな問題とはならないのかな。
重子さんは「考える」ときに「身体」と対話しておられるのかな。うん。おもしろい。そう言えば、わたしも重子さんと話しをするときは、身体のあちこちが考える気がします。これはなかなか感じられない感覚です。
もしかしたら、そんなのもアレキサンダーテクニークと関係があるのかなぁ。
なんしか、かなり刺激的な、それもとても静かで深い刺激のひとときが過ごせました。

「違和のありどころ」とか

で、宿舎でやる打ち上げに、なぜかわたしも参加。てか、蓮池さんたち、はじめからそれが織り込み済みだったらしいです。
で、みんなで呑みながら、いろいろ話。で、ついつい「違和のありどころ」の話。
「見習い天使」は、もともと自殺予防のプロジェクトの中で出てきたものらしいのですが、社会の出来事のなかで少しずつ変化してきたようです。そして、3.11で大きく変わって、舞台を福島に移すことになったそうです。
今回の芝居には福島から避難されていて、避難者支援をしておられる方が招かれていました。で、その人のトークもあったのですが…。
福島の話を当事者から聞くのははじめてのことで、いろいろ学ぶところはあったのですが…。
それはそれでいいのですが、やはり「語り口」がなぁ。たぶん震災の話が風化していく、それが特に西日本において顕著であることを肌で感じられるからこそ「西日本の人では」みたいなことを訴えられたのですが…。いや、わかります。その通りです。わたしなんか、その最たるものです。でもね。
例えば阪神淡路大震災の時に東日本の人はどの程度切実だったかってこともある。いや、そんなふうな東日本と西日本を分断しちゃいけないですね。もっと考えなきゃならないのは「絆」という言葉かな。これ、劇中にも出てきたんですけどね。そして「がんばろう日本」。
まさに被災地薄めの言葉だと、わたしは思っているし、それが「風化」の一因ではないかとわたしは思っているのです。
あー、でも、まぁそれをもって「西日本における風化」を正当化しちゃいけないです。
一番の違和は「わからないだろうけど」です。
わかるわけがないです。それは大前提なのです。でも、その大前提であるわかるわけがないことを「わからないだろうけど」と語られると、とてもきつい。そしてそれを散々経験してきたわたしは、その言葉は決して使うまいと決めてきました。それを久々につきつけられたなって感じ。それが違和のありどころだったかな。
たぶん、あの場にはいろんな「しんどさ」を抱えている人がいた。そんな人々の口を閉ざしてしまいかねない「わからないだろうけど」は、やはりしんどいな…。

違和のもう一つは「家族」ですね。
いや、いいんです。大切です。でも、しんどかったな。それはセクマイにかかわるだけではない。「家族」にしんどさとか息苦しさを感じる人にとって、やはり「家族」を自明のこととして提示されると、「う…」となってしまう。

まぁ、そんなことを話しながら、ダラダラと最後まで飲んだら、3時でしたよ。でも、こんなの、懐かしいなぁ(^^)。

アイデンティティ・ポリティクス?

なんか、今度、前のセンセも含め、「エライ人たち」相手に話をしなくちゃならんハメになりました。テーマは「アイデンティティ・ポリティクス」らしいです。
んなもん、無理です。だって、聞く人たちは、そのスジのプロだし、「アイデンティティ・ポリティクス」についての研究もしてるだろうし、そもそも「アイデンティティ・ポリティクスを超え」ちゃってるような人たちだし。そんな無理な話をなのに、なぜか引き受けてしまう。この悪いクセをなんとかしないとアカンなあと思うのですが、なかなかなんともなりません。
でも、考え方を変えるなら、この手の無理を引き受けることを通して、「考える」ことができるとも言えます。ま、合理化か^^;;

なんしか、先行研究には少しあたらなきゃならないだろうけど、別に「発表会」じゃないわけだから、「私見」が入っても怒られないだろうし、考えてきたことを話そうかなぁ。

未熟であること

帰りの電車の中で、今年度はじめて本格的に授業をする人と一緒になりました。で、いろいろしゃべってたんですけど、
「不安なんですよね」
って言われます。
「なにが?」
「ちゃんと教えられてるだろうかって」
うーん。
どう答えたらいいんだろ…。
なんしか昔話なんぞをしばらくしていたのですが…。
そう言えば、わたし、1年目はムチャクチャでした。ある項目を教える意味も、それと別の箇所の前後のつながりも、なーんにもわからないままに教えてましたねぇ。単純に不勉強でした。で、いま勉強しているかというと勉強していないです^^;;。まぁ、マニュアル読まずに機械をいじるタイプですから^^;;
なので、その人に
「まぁ、ちゃんと教えられてるかどうか考えても意味ないと思います。ちゃんとは教えてないです。だって、1年目ではちゃんとは教えられないから。だから、指導書通り教えたらええんとちゃいますか?」
とアドバイス(笑)。
「でもね。ライブで授業をすることの意味って、そこになにかひとつつけ加えることなんだと思うんです。それは、例えば散歩した時に見たものとか、いままで勉強してきたことから考えたこととか。そういうことをほんの少し入れることで、話がふくらむ。でも、逆に言うなら、そのほんの少しで充分じゃないかなぁ」
なんか、そんな気がしたんですよね。
未熟なんだから「ちゃんと」なんて考える必要はないと思います。でも、「精一杯」は考えてもいいかな。
うん。
のびのびやりましょう(^^)。

じりじりと

今日は原稿を書かなきゃならない日ですが、なかなか気が乗りません。なので、原稿書きと双璧である部屋の片づけに着手。でも、ずっと大阪の住民投票が気になってます。
で、9時過ぎから開票開始。一進一退の中、最終的に僅差で反対が賛成をうわまわって、「大阪市分割案」は否決されました。
にしても、開票中に「区ごと」の開票結果を見ながら「ここは反対が勝つやろ」と予想したところが、やはり反対が勝ちました。てか、その予想があまりにも簡単すぎる。結果はこんな感じになっているわけです。
まぁ、そりゃそうだろうなと。この選挙結果に大阪にいまある課題とかがはっきりと浮かび上がってきているように思います。
わたしはかつてから「大阪はしんどい人に優しい街」って思ってます。だから、全国学力テストの平均点が悪いのはあたりまえ。生活保護率が高いのもあたりまえ。
で、それに不満を持つ人がいる。基本的には「社会は互助」だと、わたしは思っているけど、新自由主義はそうじゃなくて、そういう層ももちろんいるわけで。
で、問題は、そういう状況の克服のために「しんどい人を、どうしんどくない状況にするためにサポートするか」という方向ではなく「しんどい人をいかに排除してしんどくない人だけで街をつくるか」という方向に、この間舵を切ってきたこと。

これ、わかるんですよね。学校(高校や大学)がまさにそれです。
「いかにして「いい子」を集めるか」
という発想で考える。同じことだなと。
でもねぇ。これ、根源的な解決ではない。それは例えば「葬儀場建設お断り」の住民運動と同じこと。

てのはおいといて。
でも、今回の選挙結果の意味は大きいんだろうな。
同じ日に沖縄の県民集会で35000人集まったとのこと。
沖縄もまた「大阪のミナミ」なんだろな。いや、もっと打ち捨てられた地。

闘いの炎は、そういうところからじわじわと広がっていく。

未来予想・ある日不意に

今日もなんか、ダラダラ仕事をした。でもまぁ、そんなに悪くない一日だったかな。職員室では相変わらず浮いてるけど(笑)、子どもたちは優しい。なので、授業は楽しいし。
で、特に飲み会もなく(笑)家に帰って、家族でごはん。うまいなぁ。ビールが(笑)。
ごはんのあとは家族全員で片づけ片づけ。さっさと片づけてテレビを見なくちゃ。今日は木曜日。9時からケンミンショーですよ。
よし、間に合った。相変わらず大阪はディープです。
あれ?テロップ?
なになに
「本日21時15分、○○国と交戦状態になりました」
へ?
でも、ケンミンショー、普通にやってるやん…。

今日、帰りの電車の中で四条河原町で街宣行動やってるのを知って、あわてて駆けつけたのですが、すでに終わったあとでした。大阪でも東京でもやってるけど、今から御堂筋に行くのはきついので断念。地下道を烏丸までトボトボ歩いたのですが…。
みんな普通に会話してます。地下道に座ってるホームレスのおっちゃんを見た瞬間、なんか、ものすごい怒りがお腹の底から湧き上がってきました。
なんでこんな国になってしもたんやろう。いや、してしもたんやろう。
なんか、「こうやって戦争への道を歩むんだ」ということを、いま経験してるんだなぁ。わたしが子どもの頃は「なぜ戦争をとめられなかった」と、きっと誰もが思っていた。でも、とめられない。いや、とめようとみんなしてる。でも、とまる気がないヤツは人の話を聞こうとしない。だからとまらない。
アベノミクスに希望を託した結果が、アベノミクスの恩恵は一部にしか行かず、全体は戦争への道を歩んでる。
これが自民党に一票を入れた人の望む社会だったんだなと、あらためて問いたいけど、たぶん「うん」って言いそうでこわい。
夜、報道ステーションを見てたら「仕方ない、亡くなる人もでるかもしれないが、覚悟しなければならない」という発言がありました。これ、やらせ?やらせであってもなくても、あまりにもひどい発言。
わずか15分見ただけで血が沸騰したので、寝ることにしました。
寝ようと思ったらしゃっくりがとまらない。
くっそ!安倍のせいや

#安倍はやめろ!
#安倍を倒せ!

これがポピュリズムか?

今日、とある選挙がありました。
過去は信任投票ばかりだったけど、ここ数年は選挙になることもありおもしろかったのですが、今回はちょっと様相が違いまして。どうなるかと思ったのですが、見事に予想を覆すというか、なんというか、まぁそういう結果になりました。
で、終わったあと「有権者」に「誰に入れたの?」「理由は?」とたずねました。すると「なんとなく」との答え。「政見放送、ちゃんと聞いた?」「聞きましたよ」との答え。
ま、選挙公約を浸透させる時間を確保してこなかった「やり方」そのものの問題はとても大きいです。そりゃ、パッと聞いて理解できるものではない。でも「なんとなく」はないだろうと。
でも、思ったのが
「なんとなく、この人ならなんとかしてくれるんじゃないか」
みたいな基準で選ぶこと、あるんじゃないかと。で、ここの問題は「なんとなく」と「この人」と「くれる」かなと。
実際に社会を動かしていこうとすると「なんとなく」ではなく明確で現実的なというか事務的なものが必要だし、「この人」ではなく、事務方やさらには有権者どころか選挙権がない人間もかかわらざるを得ないし、それは「くれる」じゃなくて自分もかかわるわけです。
でも、そうはならない。
そう考えた時、今回の選挙結果はよかったなと。選挙とはなにかとか、何を基準として選ぶのかとか、選挙の結果についてどう責任をとるのかとか、そんなことが学べるのかなと。そんなことを思いました。
にしても、これからしばらくがめんどくさいなぁ…。

問われるのはこれから

朝、「今日は忙しい一日になるだろうな…」と思いながら出勤です。
とりあえず2時間授業をさっくり終えて、一息つきます。と、内線電話。来られたか…。
てことで、今日は午後から「人権公演」です。去年は桑山さんをお呼びしての公演。今年はちゃんへんさんです。
実はちゃんへんさん、8年前にお会いしています。てか、放送担当しただけなんですけどね。でも、あの時からぜったいに呼びたいと思っていたんですよね。で、今日、それが実現するわけです。

とりあえず体育館で準備開始。ちゃんへんさんは入念にウォームアップされます。
途中、「覚えてはりますか?」と無茶ぶりをすると「覚えてますよ」と、これまたうれしい答が返ってきました。
そんなこんなしているうちに、いよいよ開始です。
ひとつひとつのパフォーマンスにみんな大喝采です。そりゃそうです。世界屈指のパフォーマーですからね。生徒だけじゃなくて、教員もみんな食い入るように見つめています。
そしてトーク。日朝関係史からはじまって、自分の生い立ちやそこで考えたこと。笑いを交えながらも、ずきんとする話が続きます。気がつくと、前にいる生徒が泣いています。
で、ラップ。いろんなものがつながっているんですね。
あっという間に2時間が終わりました。

うちの生徒の中には当然「ウトロ関係者」がいます。なかには
「センセイ、なんで知ってるねん」
「いや、風のうわさでな」
みたいな話もあるのですが、せっかくなのでちゃんへんさんに会わせにいったり。

崩しの間、ちゃんへんさんはクールダウン。そこにクラブをしに来た生徒が寄ってきます。ステージの上とは違う、目の前で繰り広げられるディアボロのパフォーマンスは迫力が違います。思わずみんな
「握手いいですか」
「写真いいですか」
さらには
「サインいいですか」
おいおい。うらやましいから、わたしも便乗(笑)。

さてと、楽しい時間は終わった。
でも、ここからなんですよね。ちゃんへんさんの力を借りて、次に自分たちが何を伝えられるのか。力は借りるだけ。頼っちゃいけない。

がーんばーろう♪!

仕事の合間、ネットを見ていたら「性的少数者の子に配慮求める通知 文科省、対象範囲拡大」なるニュースが飛び込んできました。ふぅむ、出たか…。まぁ、通知なんてものは現場に降りてくる前に「アクティビスト」にわたるみたいです(笑)。実物の写真をあげてくださる人もおられたりして「ふむふむ」と読んで…。そのうちに文科省のサイトにあがってることも確認しました。

いや、これね。喜ばしいことです。だって、これを読んで、真っ先に浮かんだのは、実際に学校の無理解に悲しみと怒りを覚えている中学生です。あるいは、受け入れられるかどうか、カミングアウトするかどうか悩み続けている小学生です。あるいは、カミングアウトしたけど、その要求の実現のために、常に学校から要求され続けている小学生です。
その子らのためには、きっと喜ばしいことです。

でも、一方で、なんとも言えない虚脱感に襲われました。
おそらく、わたしは2006年頃から「学校の中のトランス」にもっとも力を入れて、地方都市の片隅で「雪かき仕事」を続けてきました。でも、そこから考えるさまざまな蓄積があります。
今回の通知は、そんなことをすべてすっ飛ばしてブルドーザーで均すようなものな気がしたのです。
この通知の結果
「あー、いつきさん言ってるみたいにゴチャゴチャ考えなくても、ちゃんと配慮しますよ」
みたいな世界が来るんじゃないか。本質を置き去りにしたまま「ノウハウ」だけが求められる世界が来るんじゃないか。そして、そのノウハウは誰が持ってるかというと、これが「専門家」だったりするわけです。となると、「診察は不要」とする、ある種画期的な通知であるにもかかわらず、グルリと一周まわって「専門家主義」じゃんかってことになるんじゃないか。
その時、交流会に集う子どもたちとともに積み上げてきた本質はどこかへ飛んでしまう。
そんな気がしました。

でもね。
きっとこの通知は、うちの交流会の子らも含め、全国各地で声をあげ、自分のまわりの社会を少しずつ変えたトランスの子どもたちの声の上にある。そんな気もするのです。
なので、たぶん一番大切なのは、そのことを忘れないこと。
2003年にはじめてわたしのところに送られてきた一通のメール。学校がとても好きで、勉強もしたいのに、制服が着られず、ジャージすら認めてもらえない子の、淡々とした絶望のメール。それに対してなにもできないわたしがいたこと。そこから出発していること。そして、やがて各地から相談メールが来て、それぞれの地の友だちに連絡をしながら、その子らのサポートが少しずつできるようになったこと。その先に、交流会がある。
そのことを忘れないこと。
そして、ブルドーザーではなく「雪かき」をしているからこそわかることがある。それを発信し続けること。

そんな気持ちにさせてくれたのは、尊敬する先輩や大切な仲間たちのエールでした。

ブルドーザーで雪かきすると、大切なものもいっしょに捨ててしまうような気がします。

ブルドーザーには、狭い路地裏の雪かきは出来ないのです。

そしてブルはゴミもたくさんの雪を海に捨てて環境破壊までします☆
しかしそれをしないと交通麻痺。何が正解なのか、どこに鍵があるのか、悩みながら雪かきをします。

よし、がんばろう。ここからだ。

もうひとつのこわさ

今回、批判層の受け皿となった、とある「躍進をとげた」党ですが…。
まぁ、古い人だと言われそうですが…。
あの「黙ってオレについてこい」的な「自己中」が、どれだけの人や運動を切りつけてきたか。
少なくともわたしは、わたしやわたしの大切な仲間が受けてきた仕打ちを忘れないし許さない。
というか、自分たちのためなら平気で人を裏切る。そこもまたブレてないんだよね。