夜、いつものように報道ステーションにチャンネルをあわせましたが…。
いったいなんなんだ、これは。ほんとにこの国の政治はどうなってるんだ。
「ちゃんと質問に答えてください」
「だから答えてるでしょう」
「答えてください」
「答えられないって答えてるでしょう」
みたいなやりとり。
子どものケンカというか、子どものケンカよりもひどいというか。
かと思うと、不倫報道。
「「倫」は「仲間」という意味なんですよ」
と、かつてFぁよんが教えてくれたけど、まさに「仲間にあらず」という「扱い」なんですね。ちなみに「倫理」は「仲間の理」かぁ。厳しいですね。
ベッキーの時も感じたけど、別にどーでもええやん。ゴシップやん。しかも、背景にあるのはモノガミー規範やん。まぁ、ノンモノガミーなのかどうか、そういうパートナーシップをとっていたのかどうかはわからないけどね。
なんかもう…(;_;)。
カテゴリー: 考え
間隙をいかに縫うか
去年、ほんとに「あー、もっとやればよかった」と思うことがありました。それはひとことで言うなら「連携」ってヤツです。
実は、ここ10年、ほんとうに「連携」ってヤツがとてもしにくくなっています。原因のうちのひとつは「個人情報保護」ってヤツです。でも、この「保護」の範囲をどこで設定するかっていう「運用」の問題が、実はほんとうの原因なんじゃないかと思います。
例えば、Aという子どもがいる。この子をサポートしようと思ったら、学校だけでは限界があるとする。必要な資源としてなにが考えられるか。メンタル的なことであればカウンセラー?あるいは社会資源的なことであればSSW*1とか、その先には養対協。GIDだと医療関係者(笑)?で、たぶんこのあたりまでは「個人情報」の共有先になるかな。
でも、このあたりはある種「表の連携先」だったりします。もちろん「専門家」ですから有効な連携先ではあるだろうけど、逆に言えばAという生徒に特化したオーダーメイドではない。
では、オーダーメイドの連携先はというと、もちろんオーダーメイドだから一概には言えないんだけど、例えば昔からAを世話してた隣のおばさんとか、Aが小学校の時に所属してたクラブの指導者とか。あるいは、そんな人たちを有機的につなぐ町内会の役員さんとか。はたまた、子ども会をやってる指導者とか。「専門性」ではなく「地域性」でつながる人たちだったりすることがあります。ところが、「専門性」や「立場性」で「個人情報」の共有範囲を決められてしまうと、こうした人たちはそこから除外されてしまう。すると、そこに連携をお願いしようとしても個人情報を出せなくなったり、仮に出したとしても「なぜあんたが知ってるの?」と言われるのをおそれて結局動けないということが起こってしまう。そうすると、有効な手段が打てないままに時が過ぎていくなんていうことが起こってしまう。
実はかつてはこのあたりを突破することができたケースがあったんですよね。その方策は、「あそこなら連携先だよね」とみんなが黙認する人/グループの存在が共有されるようにしておくってことでした。で、その人/グループのおかげで、どれほどのAが助かってきたか。
「個人情報保護」はもちろん大切です。でも、その言葉がひとり歩きしはじめるなかで、人や地域のつながりが分断されてしまっているんじゃないか。そしてそれは、「つながり」がなくても生きられる人にとってはどうでもいいことかもしれないけど、「つながり」をほんとは必要としている人にとっては死活問題ですらある。ついでに言うなら、「つながり」を必要とする人ほど個人情報を「恥」と感じ隠したがるという問題があるんですよね。
じゃあ、どうすればいいのか。
たぶん、再び「個人情報あるけど、まぁあの人(ら)ならしゃーないな」という「黙認」の人/グループをつくること。そして「助かったわ」という実績をつくること。そんなものをゲリラ的につくるしかないかな。
脳みそ疲れた→先達への敬意
今日はさっくりと職場をあとにして、滝井へ。久しぶりの心理検査です。12月の「まんまるの会」での会話。
Y野さん「心理検査だけでいいですよね?」
いつき「いや、知能検査も(笑)」
Y野さん「(笑)」
みたいな。
てことで、久しぶりにこんなことをやりました。にしても、途中で脳みそが疲れはじめて、しかもやめられない。で、たまにルールを誤解してて脳みそがフリーズしたりして、なかなか脳みそがさびついてる感じがしました。ま、Y野さん
「いえいえ、なかなかですよ」
となぐさめてくださいましたけどね^^;;。
時間があるので宿題は待合室でさっくりすませました。この宿題も「おまえ、性に関する質問、好きやな」と思わずツッコミたくなる設問がたくさんあるのですが、まぁ、変態であることを引き受けていたら、それなりにOKってもんです。
で、O田さんの勧めにしたがって、バスで大阪駅まで移動。ネットカフェに1時間ほどこもって仕事です。まぁ、サテンでもいいんですけど、靴が脱げないというか寝転べないというか。なので、やはりネカフェで仕事なんですね。
で、頃合いよしと福島へ。今日は『にじ色の本棚』の打ち上げです。
とりあえず編集担当のS村さんと合流。やがて原ミナ汰さんと大江さん@LOUDが登場。大江さんがわたしのことを知っておられて、ビビると同時に、かなりうれしかったです。
はじめは本のことについてあーだこーだと話していたのですが、やがて「ぶっこむ質問」が出てきたりして、そのあたりからディープゾーンに突入です。互いが「なぜこういう生き方をしているのか」なんていう交流はなかなかできるもんじゃないです。それを互いにブッコミあい、それをガチで受ける、とても濃いぃ時間を過ごしました。ちなみに、ブッコむ相手は、別にLGBTじゃなくてもいいんですよね。人がつながるのは「属性じゃなくて葛藤の量」って言葉がかの名作(笑)に出てきますが*1、まさにそんな感じの夜でした。
にしても、先達の歩んでみた道は、とてつもなく険しく自由ですね。それをあらためて感じました。そのあとに続くわたしの世代は、やはりそこを知りながら、自分の道を歩まなきゃならんなぁと。
*1:ちなみに、これはRささんの発言です。
ちょいとグチをば
今日はとある新聞社の記者のH房さんという方から取材を受けました。
なんでもH房さんは2007年くらいから「家族」というシリーズでわたしのことは知っておられたとか。恐縮だなぁ。
で、教員の立場からいろいろ聞きたいと言われたので、まぁいろいろと話をしました。
「教職員向けのLGBTのハンドブックを各地がつくっているんですが、どう思われますか?」
みたいな質問。H房さん、よくわかっておられて「マニュアルはいけない」っておっしゃってました。その通りです。最低限踏まえなくちゃならないことを提示してもらえばいい。
でも、一方で各地のハンドブックの意義なぁ…。
例えば、「○○は教育の課題だ。だから学校で」っていう言説がある。そりゃ当たり前です。子どもたちは原則的にはみんな学校に通っている。だから、子どもに関する課題は「学校教育の課題」です。ちなみに「○○」にはトレンドがあります。かつては部落問題。その後、例えば自死者が出たらイジメ問題。スマホの登場でネットリテラシー。そして、特別支援教育の導入で発達障害。障害者差別解消法に伴って合理的配慮。そしてLGBT。最近では主権者教育。
それらの間を縫うようにして、本来の仕事である不登校の子どもの対策や、進路保障や、低学力の子どもの学力保障や、さまざまな生徒指導がある。
学校はパンク寸前で疲弊しています。
そして、カバーする範囲が増えれば増えるほどミスが出る可能性が高くなる。ミスをしたら叩かれる。叩かれると、本能的にガードします。すると、そのガードを理由に「教育委員会制度があかん」とか言って管理強化を進めようとする。
北風政策ですね(笑)。
さらに、LGBTを例にして言うなら、100人の教員がいたとして、その中の一人だけが当事者が傷つく発言をしたとする。他の99人はしていない。でもらその当事者にとっては「教員に傷つけられた」という記憶だけが残る。そしてそれは記憶なんですよね。例えば30歳の当事者であれば12年前。時は2004年。そんなころの「ある教員」の話を持ってきて「今」の「学校」を批判する。
これは割の合わない話です。
じゃ、どうすればいいのか?
ひとつは「教育の課題」という言葉の理解が違うってことです。教育には2種類ある。ひとつは「学校教育」ですが、ほんとは「学校以外で行われるすべてを網羅するもの」としての「社会教育」がある。こちらをあまりにも軽視している。つまり、「子ども」の「教育の課題」を学校に丸投げしないってことです。
それから、現状を正しく認識するということです。過去のある地点での経験を普遍化しない。
さらに、個々の教員がカバーできる範囲には限界があるということも知る必要があると思います。例えばAという教員は在日外国人については詳しいけどBという教員は発達障害について詳しい。その時、Aに発達障害をやらせてBに在日外国人をやらせるのはキツイです。それは、会社組織を考えればすぐわかる。だから、それぞれの教員の得意分野がカバーしあえるような仕組みをつくる。そのためには「できないことを批判しない」という姿勢があらゆるところに必要となる。
きっと、他にもいっぱいあるだろな。
ま、結論を言うなら、学校はいま疲れてるってことです。そして、疲れさせてるのは誰かってことです。
あー、グチったグチった(笑)。
孤独感
なんか、土日はめっちゃ飲んでたけど、どこか孤独感が漂っていました。なんなんだろう、これ。
そうか…。
たぶん、まわりと「目」があってない。世界の見え方が違う。
いや、もちろん、誰だって他の人とは見え方が違うんだろうとは思います。が、その違いに気づくかどうかは、もしかしたら人による。
世界の見え方が「違う」の思った瞬間に、会話がとてもしんどくなります。言葉が伝わらない感がハンパなくなる。それは孤独感につながっていきます。そしてそれが耐えられないほど大きくなることがたまにある。
たぶん、どうしようもないですね。
とにかく、これが過ぎるのを待つしかないかな…。
なるほどなぁ
家に帰って新聞を見たら、こんな記事が…。
「(世界発2016)体と心の性不一致、米で高まる関心 「トランスジェンダー」著名人ら公表」
なるほどなぁ。かの国では、そういう感じなんだ…。翻って、日本は…。どうも同じような感じってのがない。なんでだろ…。
歴史に求めるのもひとつの解でしょう。あるいは、「病理化することによって」というのも、またひとつの解かな。人権教育の広まり?あるいはマスコミの影響?
でも、「フツーの人」にとっては、もしかして「関係ない」からなのかも…。つまり、トランスジェンダーの存在によって、どの程度自分の日常がおびやかされるか。
それが端的にあらわれるのが、もしかしたら更衣室・トイレ・公衆浴場問題なのかな。日常がおびやかされると感じる。
逆におびやかされない範囲であれば「どうぞ、お好きに。みんな違ってみんないい」となる。冷たい優しさ?
人のことは言えないけど
今日は散々な一日でした。なんか、いろんなところから「あれはまだか」「これはどうした」「これやって」「あれやって」とせっつかれまくり。しかも、別にそれ、わたしの本来の仕事とちゃうし。わたしも、日によってはほとんど限界のところで生活してるから、そこにほんの小さなものでも積み重なった時、あっけなくひっくり返ってしまいます。
なんか、たぶん、人にものを頼むって、簡単なんです。例えば「これ、調べて」「これ、翻訳して」「こんなの、できない?」。すべてワンセンテンスです。でも、それにこたえるためには「考え」「調べ」「整理し」「返す」といった、いくつものステップを踏まねばなりません。考えたり整理したりするためには脳みそのリソースを使います。調べたり返したりするためには時間のリソースを使います。つまり、それなりの労力を使います。そして、それがいくつか集まると、それなりに大きなリソースを必要とします。
ところが、「気軽に頼む人」は、たぶんそれを簡単なことと思っている。まぁ「できるだろう」と思っているんでしょうね。そして、たぶんさらに、その人にものを頼んでいるのは「自分だけ」と思ってる。だから「これくらいできるだろう」と思っている。だから、気軽に頼める。
ところが、そんな依頼がいくつか集まると、「なんなんだ!これは!」となってしまう。わたしにはわたしのやらなきゃならないことがあって、そのリソースを割いてそれをしなきゃならないのに、そこへの「申し訳なさ」がないと、ほんとうにイヤになってきます。
ちなみに、頼まれてもイヤな気持ちにならないこともあります。それはどんな時かというと、人にものを頼んだ時、相手がそれに対してどれほどのリソースを使っているかがわかっている人からの依頼です。
たぶんそういう人は、ものを頼む前にずいぶんと考え、調べ、整理をしている。つまり、リソースを使っている。そのうえで、やはりどうしようもないから頼む。すると、こちらのリソースの使い方はずいぶんと軽減されます。そしてなにより、「頼まれる側」のリソースを使わせることへの申し訳なさがにじみ出ています。例えばそれは言葉の選択であったり、文章の構成であったり、その他さまざまなところに出てきます。そういうものを受けとると「あー、こたえよう」という気になる。
もちろん、わたしもずいぶんと人にものを頼む人です。なぜなら、わたしひとりでできることはたかが知れているからです。人に頼まないと動かない。そんなことをたくさんしているからです。
せめて、頼まれた人が「いいよ」と快く引き受けてくれる頼み方をしなきゃなと、あらためて思います。
当たり前のことを当たり前に
朝、なんとか起きました。
昨日は夜8時に寝て、一度1時に起きて、そこからまた寝たから、9時間くらいは寝てますね。でも、寝たりない。とにかく眠いまま出勤。眠いまま仕事。でも、眠いから、淡々と仕事ができて、いらんこと考えないからかえって雑務は進みます。
で、夕方、やるのはめんどくさいけど、どうやらやらなきゃしゃーない雑務に突き当たりました。それはなにかというと、「授業アンケートの分析」らしいです。
これ、前から「あまりやる意味ないよなー」と思っているムダ仕事です。だって、そんなん、生徒の顔を見たらわかることです。でも、どうやらそういうものではないらしい。
ちなみに去年はあまりにも忙しくてほったらかしていましたが、今年は口実もないからやらなきゃしゃーないなと。で、同僚が集計してくれたデータを見たのですが…。まぁ、はっきり言ってうれしいのはうれしいですね。ふだん心がけていることが数値となって返ってきたわけですから。
例えば…。
「先生は、生徒の発言や意見など反応を大事にしている」に対して「そう思う64.1%」「だいたいそう思う33.33%」「あまり思わない2.56%」「思わない0%」です。これ、母集団が39人なので(笑)、2.56%は、言い換えると一人ってことです。まぁ、一人いることはそれはそれで大事に受けとめなきゃならないわけですが、でもまぁ、相性ってものがあるので、そんなこともあります。おおまかな傾向としては、大事にしてると考えてくれている生徒がほとんどってことです。
でもこれ、当たり前のことを当たり前にやれば、当たり前に出てくる数字です。
子どもが質問できるような雰囲気をつくる。子どもの質問を拾う。子どもの質問に答える。それだけのことです。
で、授業なんてのは質問でつくられるものだと思ってます。だって、質問がないんだったらビデオテープ(笑)を流せばいい。テレビですら双方向なんだから、授業は当然双方向です。
だから、うれしいけど、それは「当たり前のことをやろうと心がけていたら、子どもたちが受けとめてくれた」といううれしさなんです。
そして、当たり前のことを当たり前にやったら、子どもたちはそれにこたえようとしてくれる。だから雰囲気は学習しやすくなるし「41.03%、53.85%、5.13%、0%」、知識や学力が身についたとも感じてくれる「28.21%、48.72%、17.95%、5.13%」。
でもこれ、逆に言うなら、子どもたちががんばったおかげでこの数値になるわけです。
だから、集計してくれた同僚が「すごいですね」って言ってくれた時のわたしの答えは「だって、あのクラスだもん」でした。
さてと。
分析、どうするかな(笑)。
セーフと参加、参加とセーフ
今日は最後のp4cの日です。これまで1年間p4cをリードしてくれたFぁよんさんと、いろいろ打ちあわせ。
F「今回は最後なので、「友だち同士」じゃない2つのグループにして、そのかわりみんなが興味を持つ話題でやってみたいと思っています」
I「でも、みんな「話題」の問題じゃなくて、「メンバー」の問題って言ってるよ」
F「あーそうでしたねぇ。じゃぁ、友だち同士にしてみますか…」
I「うーん、でも最後だしなぁ。どうする?無難に行くか、攻めてみるか…」
F「そうですねぇ…」
I「やっぱ最後だし、攻めてみるか」
F「そうですね。攻めましょう」
てことで、グループはくじ引きで、話題は「最近気になったこと」を出し合うということになりました。やはり、ものすごい緊張です。でも、笑顔(笑)。
はじめにFぁよんさんがこれまで半年やってきた中身を再度説明。そして、わたしからもp4cへの思いを少し語りました。
なぜ、この「考える」って言う授業をしてきたか。それは、「不思議」って思うことを考えてほしいと思ったから。そして、それはひとりでやるものじゃなくて、誰かとやるものだっていうことを知ってほしいと思ったから。
例えば、わたしは数学の授業をやってる時、生徒が「わからない」と言ったとする。そしたら「なぜわからないんだろう」と思う。そして、その「わからない」ということの答を知っているのは「「わからない」と言った生徒」だから、どこがわからないのかを教えてもらう。そうやって、生徒から教えてもらうことで「教え方」を考えてきた。わたしは、ひとりで考えるんじゃなくて、生徒達と考えてきた。君たちに教えてもらったんだ。
確かに「話しやすいメンバー」だと楽だね。だって、「○○だよね」「そうそうそう」で話が通じるから。でも、こんな実験がある。白人ばかりのグループと、白人・黒人・ヒスパニック・アジアといったさまざまな人がいるグループで同じテーマについて論議させたら、さまざまな人がいるグループの方がよりクリエイティブな討論ができたんだよね。つまり、「異なる視点」があることが、より考えを深めることになるんだ。だから、「話しやすいメンバー」ばかりと話していたのではダメなんだ。もちろんしんどいよ。でも、そのしんどさの先に、クリエイティブな論議がある。
だからね。これが最後。あと80分でこの授業は終わる。この80分間、一度「わたしがやりたい」と思ってみたことにつきあってみて。子どもの頃に感じた「なぜだろう」という気持ちを思いだして、子どもに返ったつもりでつきあってほしい。
さてと、どうなるかな。
みんなで出し合った「最近気になること」。「お金はなぜ減るのだろう」「どうせ死ぬのになぜ生きているのだろう」「スマップの解散」「ベッキーの不倫」「なぜぷにゅぷにゅのおなかは人気があるのか」といった「気になること」が出て、多数決。そして、コミュニティボールを使って話しあい。今日はなんかみんな話をしてくれます。誰も「別に」とか「わからん」とか言いません。すると、話が深まっていく。深まっていくと、みんなの表情に変化がでてきます。わからない時は「わからない」という顔。おもしろい時は笑顔。「変だ」と思った時は「変だ」という顔。表情がくるくる変わっていく。
そして、結局80分。話題を変えながらも最後までみんなで話ができました。感想を見たら「今日はおもしろかった」と書いてくれた子がたくさんいました。
きっと、みんな「いつきちゃんがああ言ってるんだから、最後ぐらいつきあってやるか」って思ってくれたんだろうな。そして、つきあってみたら、案外おもしろかった。きっとそんなもんだと思うんです。
でも、そこからわかったこと。
Fぁよんさんもわたしも、「セーフな空間」をつくろうと思ってきた。でも、それは「話しやすいメンバー」としかつくれなかった。だからみんな参加できなかった。でも、そうじゃなかったんだ。「参加すること」を通して「セーフな空間」がつくられるんだ。順番が逆だったんだ。
最後の最後。もうこの授業はありません。が、ひとつ大切なことに気づけた気がしました。また、そのうちやりたいな…。
コミュニケーション能力?
今日は午後から出張、会議でした。
そこで考えたこと。
なんか、最近の就職試験ではコミュニケーション能力が重視されるらしいです。なるほど、なんとなくわからないわけでもない。てか、最近なんてことは言わなくても、例えば「気が利く」なーんてことは昔から言われてたし、そんなのも、一種のコミュニケーション能力なのかな。で、たしかに最低限のコミュニケーション能力があったほうが、たぶん楽なんでしょうね。「きちんと受け答えができる」とか「考えたことをきちんと話してくれる」とか。逆に「何を考えてるかわからない」「こちらが言ったことに対してどう反応してくるかわからない」なんていうのはキツイのかな。
でも、そんな話を聞いているうちに、だんだん嫌気がさしてきました。なんか、「住みにくい世の中になってきたなー」と。そりゃ、「診断されないアスペルガー」が増えるわけです。
コミュニケーションなんてとれなくていいじゃん。大切なのは、必要なことが伝わることで、それはコミュニケーション能力の問題じゃなくてコミュニケーション方法の問題なんじゃないか?で、コミュニケーションとりたいと思う人が、相手にふさわしいコミュニケーションの方法を考えればいい。たぶんそれを「合理的配慮」っていうのかな。まぁ、そんなことを言わなくても、
「暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけましょう」
って言いますからね。
例えば、会話のやりとりが苦手な人ならメールやチャットでやりとりすればいい。逆に履歴が残っていいかもしれない。こちらがいうことに的確に答えてもらえないなら、チェックリストを用意すればいい。そしたら、漏れが減ってかえっていいかもしれない。というより、チェックリストをつくる過程で、チェックリストをつくる側がいろんなことを考えられる。
なんか、そんなこんなの工夫をすっぽかして、コミュニケーション能力という、ある種あいまいなところに依拠するのはあかんのとちがうかなぁ。
というか、もっと言うなら、きちんとやりとりができるヤツなんてつまらないです。予想に反する反応が返ってきた時の驚きからものごとが生み出される。こちらが「どうコミュニケーションをとればいい?」と考えるところにこそ発見がある。
根底にあるのは同化主義。それを担保するのは単一民族主義。
なんてことを考えてたんだけど、たぶん、そこにいた人々、けっこうコミュニケーション能力高そうな「いい人」っぽかったので、まぁ、こんな話は通じないだろうなぁとか思ってました(笑)。