TPP

この間、tokyo rainbow prideのサイトの用語解説のページのTransgenderにかかわる記載について論議されています。まぁたぶん「ごく一部」の話なんでしょうけどね。
たぶん、レズビアンムーブメントやゲイムーブメントについてひとことで言うのが難しいのと同様に、トランスジェンダームーブメントについても、それ相応の歴史があります。
そうそう。これを書いた時も、「うわこれめんどくさ」と思いながらも、端折るわけにはいかないから、必死で要約しましたね。あるいはこちらを書いた時は、字数制限がきつかったので、サラリと書いたらHがしさんから
「これでいいの?!」
って怒られたので、これまた必死で考えて最小限度の文字数で書きましたね。
ちなみに、わたしの守備範囲はトランスジェンダーにかかわることなので、それ以外のことには極力越境しないようにはしています。が、書かざるを得ないこともあるので、今度出るこれでは少し越境させてもらいましたが、各所から飛んできそうな批判は真摯に受けとめる以外方法はないかなと。
ま、それはおいといて…。
なんか、そんなことを考えているうちに「トランスジェンダー・プライド」ってなんなんだろうなってところに考えが行き着いちゃいました。
わたしは自分自身を「トランスジェンダー」として位置づけてきました。それは、自分が性別を移行しようと考えた頃から一貫しています。もちろん、わたしの場合は「医療を利用したい」と考えるトランスジェンダーなので、医療者としては「トランスセクシュアル(性転換症)」という疾病名をつけるだろうし、ビョーキを説明するときは「インフルエンザになって」というのと同程度に「トランスセクシュアルで」って表現は使うことはあるにしても、アイデンティティとしては「トランスジェンダー」です。
でも、あらためて「トランスジェンダー・プライド」とか「トランスジェンダーアイデンティティ・ポリティクス」とかいうことを考えると、やはり「不勉強やなぁ」となっちゃいます。
でもまぁ、そんなことを日々考えている、例えばゲイって、どれくらいいるだろうって考えるとこの人たちくらいか?って思ってしまったり。
で、そういうふうに考えると、「プライド」ってのを深く追求している人は、たぶんそんなにはいない。でも、その代わりに「プライド」を表現する場がある。そこで、たぶん「直感的」にではあるだろうけど、「プライド」を実践している。
ただ、その場において「トランスジェンダー・プライド」があるかどうか。実践できるかどうかとなると、甚だ疑問で、それが「用語解説」にまつわるいろんな話とつながっているのかなと、ふと考えたわけです。
で、「不勉強なわたし」が「論考」に至っていないのであれば、それに代わるものとしてできるのは「表現の場」づくりになるのかなと。てことは?
トランスジェンダー・プライド・パレード」か?
「Transgender Pride Parade」…。略称TPP。
うーむ。やるのか?
ダメダメ先輩からは「どうどうどう」って言われましたけどね(笑)。

希望という名のー♪

朝、いつものようにtwitterのTLを見ながら電車に乗っていると、通販生活がすごいことになっているってことがわかりました。

なんか、これを見て、ふと思いました。
このメチャクチャな時代をどうにかして乗り切ることができたら、もしかしたらわたしたちは少しは賢くなるのかもしれない。そしてもしかしたら、少しはマシな社会をつくることができるかもしれない。
そんなかすかな希望を持った朝でした。

明日のテーマは決まったな

熊本には友だちがたくさん住んでいます。というか、わたし個人は会ってはいないけどこの本を出さなきゃならない出発点となった人が住んでおられるところです。
とても心配です。
なのに、関東大震災の時に流れたデマをおもしろ半分でツイートしているヤツがいる。流しているヤツはおもしろ半分かもしれないけど、そこにいる在日朝鮮人、在日外国人にとって、その言葉がどれほどの脅威となるかわかってるのか?
考えてみれば、1995年の阪神淡路大震災では、そんなデマは流れなかった。それどころか、外国人と日本人が協力しあう姿があった。そしてそれを授業で伝えてきた。
でも、今は逆行している。いや、逆行ではなく、そういう時代にしている。
もちろん、それに怒りの声をあげるたくさんの人もいるんだけどね。
あしたのテーマは決まったな。

ダンスのはじまり

いよいよ今日から授業がはじまります。
わたしの最初の授業はガイダンス。わたしの授業のやり方や、その授業の受け方をみっちりと伝えます。

いつも思うのですが「授業の受け方」って、みんな習ってるんだろうか。たぶん習ってないんだろうな。なぜなら、授業をする側が「授業の受け方」に対応した「授業のしかた」を意識してないんじゃないかと思うからです。

もちろん、例えば数学と日本史では「授業のしかた」は違うかもしれません。でも、数学には数学の、日本史には日本史の「授業の構造」はあるはずです。あるいは、「伝達のステップ」と言い換えてもいいかもしれません。それを見つけ出す。そして、それを意識しながら授業をする。それができれば、その「ステップ」を子どもたちに伝えれば、子どもたちは授業を受けやすくなる。すると「伝わりやすく」なるし、それは結果として成績につながる。
わたしはわたしなりに、自分のやってきたことを振り返ると同時に、いろんな校種の授業を見る中で
「あー、自分はこういうふうにやってきたんだ」
って気づいたんですよね。で、それに気づくことで、理解のために足りないところもわかったし、理解の妨げになることもわかった。で、無駄は削いで必要なものを足して、自分なりの「伝達のステップ」をつくりました。
もちろん、その「ステップ」が絶対的に正しいわけじゃないです。それは授業者によっても変わるし、生徒によっても変わる。ただ、大切なのは、その「ステップ」を意識化することと、それを子どもたちに伝えることです。そうすることで、共通の時間の流れの中で授業の時を過ごすことができる。
考えてみれば、そんなことを考える前のわたしの授業ってひどかっただろうなと思います。「慣れ」だけです。メリハリは声の大きさだけ。中身にはない。よくそんな授業に子どもたちはつきあってくれたなと思います。
だからこそ、最初の授業のガイダンスで魔法をかけるんです。授業の構造を子どもたちに伝えることを通して、苦手な子も「もしかしたら、解けるようになるかもしれない」って思ってくれるかもしれない。その魔法が解けないように1年間授業をする。解けそうになった時こそ、わたしも子どもも基本に帰る。もう一回「授業の構造」を思い出し、その「ステップ」を踏む。決して立ち止まらずに、呼吸をあわせながらステップを踏む。
そんな営みを1年間続けた先に、学年末試験がある。

授業開きのガイダンスは、その最初の一歩です。子どもたちに魔法をかける時間です。
さてと。1年間の長い長いダンスがはじまった。

新入生のはじめての人権学習?

今日は1年生のオリエンテーションの日です。去年までは「まぁええか」と思っていましたが、なんか「このままではアカンなぁ」と思いはじめたので、今年度から思い切って攻めることにしました。
とは言え、みんな「人権は大切」っていいながら、うしろまわしになっている現状です。例えば、教務部が30分、生徒指導部が30分、保健部が30分、進路指導部が30分と、すでに例年通りのタイムスケジュールがあります。そんな中で、生徒指導部の中で5分だけもらうことにしました。まぁでも、みんな長々としゃべるだろうから、逆に5分でサックリ話をした方がいいかなとも思います。
オリエンテーションをやっている会場に着くと、案の定、すでに時間がおしてます。てか、どんだけしゃべんねん(笑)。しかも、会場を見渡すと、みんな服は黒!子どもたちは制服なのでもちろん黒ですが、教員もみんな黒。そんな中、わたしひとりがピンク(笑)。目立つな…。
で、わたしの順番。こんな話をしました。

はじめまして、人権教育担当です。
みなさんは「人権」と聞いて、どんなことを考えますか。
「あー、差別のことか」
「差別したらあかんのやろ」
「そんなことはわかってるわ」
もしかしたら、そんなことを思うかもしれませんね。「なになにしちゃいけない教育」ってね。
でも、もしも「人権」が「差別しちゃいけない」ってことならば、わたしの担当は「差別しちゃいけない担当」になってしまいます。でも「人権教育担当」なんです。てことは、たぶん「人権」って「なになにしちゃいけない教育」じゃなさそうですね。
じゃ、「人権」とはなにか。
それは、これから3年間かけて担任の先生から学ぶだろうと思います。が、ここではひとつだけ、「人権が守られている状態とはどんな状態か」ということだけは言っておきます。「人権が守られている状態」とは「みんなが幸せな状態」です。ね?ハッピーでしょ?
で、人権教育担当の仕事はふたつあります。
ひとつは、「人権が守られていない状態にある生徒の話を聴く」ことです。
じゃ、どんな人が人権が守られていない状態にあるか。例えば「イジメられているひと」です。ね?イジメられていたら幸せじゃないですよねー。これはわかりやすい。でも、本人は気づいていないけど、社会的にイジメられている状態にある人がいます。それはどんな人か。それについては、国がリストをつくっています。一番はじめにあるのは?それは「女性」です。ね?ここにいる中の半分くらいの人がそうですね?それから「子ども」「高齢者」「障害者」「同和問題*1」「外国人」「HIV感染者」「ハンセン病回復者」などと続きます。でも、それだけじゃないですよね。例えば「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」あるいは「シングルマザーの状態で生活している人」とかね。みなさんの中にもみなさん自身がそうである人もいるだろうし、みなさん自身はそうじゃないけど、親やきょうだいや親戚がそうである人もいるかもしれない。
別にそんな人がいつも不幸なわけじゃない。でも、ふとした時に心にトゲが刺さることがある。もしもそんな時、その気持ちを伝えたいなと思った時に、そして「誰に伝えたらいいんだろう」と思った時に、人権教育担当のわたしの顔を思い浮かべてもらったらうれしいです。
これがひとつ目の仕事です。
そして、もうひとつの仕事は「人権が守られた状態にある社会をつくるためにはどうしたらいいかを学ぶ学習」を企画することです。つまり「人権学習」の企画です。
「人権が守られた状態にある社会をつくる」ためには「考える」のではダメです。「つくる」ということは「動く」ということです。でも、「動く」ためには「道具」が必要です。そのためには「どんな道具があるのか」を知ることと、その道具の「使い方」を知らなきゃならない。それを学ぶのが「人権学習」です。そして、それを学ぶためには、いろんなことと「出会う」ことが一番効果的です。例えば、すでにそんな社会をつくるために動いている「人」。あるいは「知識」や「歴史」。これから3年間、君たちにいろんな人や知識や歴史との「出会い」をつくろうと思っています。どうか楽しみにしていてください。
これで「差別しちゃいけない担当」ではない「人権教育担当」からの話をおわります。

ところどころ飛ばしてしまったけど、それはセリフが入っていなかったからです。
まぁ、でも、ここから長い長い3年間があります。その最初のとっかかりってだけのことです。さぁ、いっぱい出会いをつくろう。そしてできれば、子どもたちと出会いたいな(^^)。

*1:他の課題は「人」を指すけど、部落だけは「問題」なんですよね。これは「問題」だと思っています。まぁ「法」が切れるということはこういうことなんですよね。

行く人来る人

今日は今年度最後の職員会議。それに先立って「離任式」があります。今年も「行く人」を見送る立場です。今回は、とても大切な同僚がほとんど転勤です。しんどいな。
去っていくものは美しい。そして、残り続けるものは醜いです。でも、その醜さを引き受け続けることを選択したんだから、それはしかたないですね。
そして、セクション会議。帰ってきた人、新しく来た人。そんな人たちと、新たに何ができるのか。
今日からしばらくかけて、舵は切られていきます。

空気

今日は前のおべんきょ場所の卒業式だとか。で、ランチのお誘いが。
なので、今日はお弁当を持たずに出勤。近くのうどん屋さんでランチです。
にしても、新しいおべんきょ場所に行くのはとてもたいへんなので、結局こっちによく来るんですよね。で、なぜ来るかというと、空気が吸いたいからなんです。
おべんきょ場所と仕事場とは空気が違う。その空気は「思考」とか「価値観」と言い換えてもいいかもしれません。そういったものがぜんぜん違うんですね。仕事場にいると、自分の思考がどんどん削がれ、価値観が崩れ、感性が衰えていくのがわかります。それに耐えられなくなった時に、「おべんきょ場所」に来る。そしてたっぷり「空気」を吸って復活する。
だから、みんなにはずいぶんとお世話になりました。今日、ランチに来たのはそのお礼です。そして、きっと今日卒業した「おべんきょ仲間」も、わたしの感覚がわかる日が来るんじゃないかな。そんな時は、ここに来ればいい。
てことで、たぶんこれからも顔を出すでしょうね。

「倫」

1月のおわりに、Fぁよんさんが
「「倫」って「なかま」っていう意味があるんですよね」
としみじみ言っておられました。つまり「倫理」とは「なかまのことわり」なわけです。てことは、「不倫」とは「なかまにあらず」あるいは「なかまのことわりをやぶっている」ってことになるのかな。
でも、「なかまのことわり」っていったいなんだろうと思うのです。どこかに明文化してあるのか?たぶんしてないですよね。たぶん、空気のようにそこにあるし、「なかまのことわり」の中で生きている人はそれを自由に改変しながら使えるし、そこに生きていない人にとってはそれは脅威でしかない。
ここ半年ぐらいで、その「なかまのことわり」で断罪された人がたくさんいます。なぜこんなに断罪されるんだろう。というか、明文化された「規則(例えば憲法ね)」に明らかに違反している人がいるのに、マスコミはそれを叩かず、明文化されていない「なかまのことわり」に乗っかって人を叩く。
でもね。「なかまのことわり」の中にいない人/いられない人は、たぶんいるんです。そして、その人のものの考え方は「なかまのことわり」の中にいる人にはわからない。
まぁ、でも、「叩く」行為によって、「なかまのことわり」を明確化し、「なかま」であることを確認する。それって、構造として差別と同じじゃん。

心が騒ぐ

火曜日に、ちょいと耳打ちされた情報について、昨日一日考えて、少し決意めいたものが芽生えてきたので乗ろうかなと。
と思ったけど、もう少し調べると、これは無理だなと。
なんというか、たぶんわたしは「ルート」を間違ったんでしょうね。今のことを進めてその先に「X」が存在するには、わたしは歳を取りすぎてる。でも、「X」を目指すにはルートが違う。
なんか、好きなところを掘ったんでは温泉はわかず、温泉がわくところを掘らなきゃならなかったんだなと。でも「好きなところ」も、もっと掘れば温泉はわくかもしれないけど、それをするには時間がない。かと言って、もう一回場所を変えて掘り直すにも時間がない。
じゃ、どうするか…。
基本は「温泉がわく」と信じて掘り進めるしかないです。その上で現実的なことを考えるなら、掘ってる場所を単に深さだけを追求するんじゃなくて、少し広めに掘る。
たぶん、そんな感じなんだろな。

さてと。前を向こうかな…。