おかしいな…。

とにかく、午後から出なきゃならないことがよくあるので、毎年「授業はできるだけ午前中に」ってお願いしてますが、今年は見事に希望通りにしてもらえた関係で、午前中は授業。午後から雑務ってできるので、ものすごく楽になりました。
が、おかしい…。なんか、午後から雑務がはかどりません。なんでだろ…。
今日もいろいろやってるんだけど「これができた!」って感じじゃなくて、「これ、できてるのかなぁ…」という感じで勤務時間が終わっていきました。
ま、そんな日もある。てか、そんな日のほうが圧倒的かな。

さてと。
TLやウォールでは、パレードについていっぱい流れています。みんな楽しそうです。「よかったよかった」と思いながら、なんともいえない思いもあります。
もちろんそれは、「24時間ひとりパレード」をやりつづけている/やらざるを得ないわたしの思いです。
そう言えば、かつて「ブブさん」から「いつきさんがホッとする時って、どんな時間」と質問されて絶句したことがありましたって(笑)。
まぁ、そんなもんです。
関西の片田舎の、誰も知らないところで、今日も明日もひとりパレードをやり続ける。まぁ、だからできることもある。
と、信じること。

と思ったら、これかよ!

部屋の大掃除をしていて、腰が痛くなったので、ひょいとパソコンを開けると、今日はこんなニュースが。
自民・稲田政調会長、LGBTの大会出席へ 自民党3役の出席は初
はい、きました!
まぁ、かつて同性愛者への差別発言をした石原元都知事の元職場でオープニングイベントをされるわけで、隔世の感があるわけです。個人的にはもやっと感があったりするわけですが、それはおいておきましょう。
いや、この「もやっと感」はですね。例えば、第7回GID研究会に日をあわせて開催した「トランス全国交流会」は「日之出解放会館」でやったし、第10回学会の時は「日之出集会所」でやったというわたしのもやっと感なんですけどね。ま、それはおいておきましょう。
まぁ、運動がそれだけ大きくなったってことで、無視できなくなったんでしょうね。
でも、一部のL/G/B/Tにとっては「元から味方」かもしれないけど、一部のL/G/B/Tにとっては自分たちを抑圧してきた張本人が、総括も自己批判もなしで「出席」するってどうよと、わたしなんかは古い人間だから思うんですけどね。

カミングアウト

自民 LGBT理解促進へ自治体に財政支援 法案提出へというニュースがかけめぐる昨今なわけですが。部落差別についても自民 部落差別解消の推進法案まとめるなんていう記事もあるし、ヘイトスピーチ関連法案を提出へ 自民と公明なんていうのもある。
もうね。この間の自民党の「マイノリティ取り込み大作戦」はひどいものだなと思うわけです。
もちろん、それを「一歩前進」ととらえることもできるでしょうけど、ひねくれもののわたしは「なんだかな」と思うわけです。
とりあえず、カミングアウトについて…。
「カミングアウトが必要ではない社会」って、よく言われます。最近もどこかで聞いたな−と思っていたのですが、こないだの全同教でした。レポーターが「カミングアウトの必要のない学校が目標」って発言したんですよね。この手の話、交流会の文脈でも言われるんですよね。子どもたちが「この交流会の目的は、こんな交流会がなくなること」と言ったりとかね。まぁ、子どもが言う分には「まぁまぁまぁ」「そんなことではないと思うよ」でいいんだけど、教員ですよ。しかも、全同教。互いが自分のことを語りあう解放教育をめざしてきた全同教の場においてそれはアカンやろうと思ったわたしは「カミングアウトは、当事者にとっては社会を変える武器です。だから、当事者からカミングアウトを奪わないでください」と発言したわけですが。
でも、たぶんついこう考えちゃうんですよね。で、被抑圧者側にいる生徒が言う分には、まだなんとなくわかる。いや、立場でものを考えちゃいけないってのはそのとおりなんですけど、でも、まだわかる。それに対して、抑圧者側がそれを言うなと。それって、結局、同化じゃんと。まさに、その同化と排除の中でしんどい思いをしているのに、「しんどいでしょ?同化してあげましょ」って、どれだけ上から目線やねんと。そして、その同化が新たな排除を生み出すということへの警戒心がない。いや、警戒心じゃないですね。歴史です。
皮多を排除し、やがて同化する中で、例えばうちなーんちゅやアイヌが排除された。そして、それらを同化する中で在日朝鮮人が排除された。やがて坂中論文に代表されるように在日朝鮮人への同化が進められる中、「朝鮮人ではない外国人」が排除されていく。
常に同化と排除が一体となって進んでいくこの日本社会において、「カミングアウトしなくていい社会」って、いったいなんなんだと思うわけです。

まぁでも、そういうことを考えてなかったら「それ、すばらしい!理想の社会!」って思うだろうな。
だから、歴史を知ることは大切だと思うし、自分以外の被抑圧者の闘いの歴史を知ることは大切だと思うだけど、そんなややこしい人の話は、まぁ誰も聞かないよな。

意識化する/しない

今日は某人権教育研究会の支部会議がありました。ところが、その場のある人の発言に呆然となりました。

伏線はありました。別の人が「まるでジプシーみたいだ」と言ったので、その発言そのものの問題性はあるにしろ「いまは、シンディ・ロマって言いますね」とやんわりと指摘をしました。
その後、別の人が、今度は「手短かに」って発言。なんかもう、切なくなって「別に差別発言ではないけど、そういう表現方法はやめませんか?」って言ったんです。そしたら「え?ダメなんですか?」と。
もちろん「手短か」という言葉そのものは、「手続きを短く」あたりが語源でしょうから、いわゆる差別発言ではないです。でも、少なくとも人権にかかわる会議で使ってほしい言葉ではないというのが、わたしの感覚です。なぜか。それは、その後のその人とのやりとりで明らかになります。
い「いや、もちろん「手続きを短く」あたりが語源だろうから、差別発言じゃないとは思いますよ。でも「バカチョン」の「チョン」が拍子木の音だという理由でその言葉を使っていいということにはならないでしょう」
○「え?」
い「わたしには「手短に」という言葉を聞いた瞬間、サリドマイドの人が思い浮かびます。同じように「君には問題が見えてない」とか「君は視野が狭い」とかいう言葉も使いません」
○「え?でも「足がない」とか使いませんか?」
い「使いません。「交通手段がない」って言います」
○「いつもそんなこと考えてるんですか?」
い「はい、考えてます」
○「やってないなぁ。24時間ですか?」
い「はい、24時間です。それが人権でしょう」
○「できないなぁ」
てことで、とりあえずは、そこのやりとりは終わって、会議にもどりました。
ところが、それから1時間ほどたった時
○「まぁ、これは視野が狭いことなんですけど」
みたいな発言が出た。それに気づいた何人かの人が「クスッ」と笑いました。わたしも苦笑い。すると
○「なにかまずいことを言いましたか?」
気づいてない。
なんか、腹立ちを通り越して悲しくなりました。

意識してないんですね。
いや、別にわたしの感覚が絶対的に正しいと思ってはいません。なので、わたしへのアンチとして、あえてその発言というのは「あり」です。でも、そういうわけでもない。かと言って、わたしの感覚に賛同しているとも思えない。つまり、考えてない、意識化してないんですね。自分の一挙手一投足、身体の隅々にまで神経を行き渡らせて、センシティブに生きるということをしてない。
あの会議の場にいるということは、各学校の人権教育を担当しているということです。人権教育の担当をしているということは、その学校において人権を牽引する人であるということ、人権について一般教員とは異なる立場にあるということです。そのことがわかってない。
せめてその役にいる間は、そのことに意識的に生きてほしい。生きるとまでは言わないけど仕事をしてほしい。少なくとも勤務時間の間だけでも。いや、それができなくても、せめて会議の時間くらいは。
ということがわかっていない。

まぁ、こんな情けない話を30代〜40代くらいの教員が見ていたわけで、それはそれで感じるところがあったかもしれませんね。そこに期待することにしましょうか。

TPP

この間、tokyo rainbow prideのサイトの用語解説のページのTransgenderにかかわる記載について論議されています。まぁたぶん「ごく一部」の話なんでしょうけどね。
たぶん、レズビアンムーブメントやゲイムーブメントについてひとことで言うのが難しいのと同様に、トランスジェンダームーブメントについても、それ相応の歴史があります。
そうそう。これを書いた時も、「うわこれめんどくさ」と思いながらも、端折るわけにはいかないから、必死で要約しましたね。あるいはこちらを書いた時は、字数制限がきつかったので、サラリと書いたらHがしさんから
「これでいいの?!」
って怒られたので、これまた必死で考えて最小限度の文字数で書きましたね。
ちなみに、わたしの守備範囲はトランスジェンダーにかかわることなので、それ以外のことには極力越境しないようにはしています。が、書かざるを得ないこともあるので、今度出るこれでは少し越境させてもらいましたが、各所から飛んできそうな批判は真摯に受けとめる以外方法はないかなと。
ま、それはおいといて…。
なんか、そんなことを考えているうちに「トランスジェンダー・プライド」ってなんなんだろうなってところに考えが行き着いちゃいました。
わたしは自分自身を「トランスジェンダー」として位置づけてきました。それは、自分が性別を移行しようと考えた頃から一貫しています。もちろん、わたしの場合は「医療を利用したい」と考えるトランスジェンダーなので、医療者としては「トランスセクシュアル(性転換症)」という疾病名をつけるだろうし、ビョーキを説明するときは「インフルエンザになって」というのと同程度に「トランスセクシュアルで」って表現は使うことはあるにしても、アイデンティティとしては「トランスジェンダー」です。
でも、あらためて「トランスジェンダー・プライド」とか「トランスジェンダーアイデンティティ・ポリティクス」とかいうことを考えると、やはり「不勉強やなぁ」となっちゃいます。
でもまぁ、そんなことを日々考えている、例えばゲイって、どれくらいいるだろうって考えるとこの人たちくらいか?って思ってしまったり。
で、そういうふうに考えると、「プライド」ってのを深く追求している人は、たぶんそんなにはいない。でも、その代わりに「プライド」を表現する場がある。そこで、たぶん「直感的」にではあるだろうけど、「プライド」を実践している。
ただ、その場において「トランスジェンダー・プライド」があるかどうか。実践できるかどうかとなると、甚だ疑問で、それが「用語解説」にまつわるいろんな話とつながっているのかなと、ふと考えたわけです。
で、「不勉強なわたし」が「論考」に至っていないのであれば、それに代わるものとしてできるのは「表現の場」づくりになるのかなと。てことは?
トランスジェンダー・プライド・パレード」か?
「Transgender Pride Parade」…。略称TPP。
うーむ。やるのか?
ダメダメ先輩からは「どうどうどう」って言われましたけどね(笑)。

希望という名のー♪

朝、いつものようにtwitterのTLを見ながら電車に乗っていると、通販生活がすごいことになっているってことがわかりました。

なんか、これを見て、ふと思いました。
このメチャクチャな時代をどうにかして乗り切ることができたら、もしかしたらわたしたちは少しは賢くなるのかもしれない。そしてもしかしたら、少しはマシな社会をつくることができるかもしれない。
そんなかすかな希望を持った朝でした。

明日のテーマは決まったな

熊本には友だちがたくさん住んでいます。というか、わたし個人は会ってはいないけどこの本を出さなきゃならない出発点となった人が住んでおられるところです。
とても心配です。
なのに、関東大震災の時に流れたデマをおもしろ半分でツイートしているヤツがいる。流しているヤツはおもしろ半分かもしれないけど、そこにいる在日朝鮮人、在日外国人にとって、その言葉がどれほどの脅威となるかわかってるのか?
考えてみれば、1995年の阪神淡路大震災では、そんなデマは流れなかった。それどころか、外国人と日本人が協力しあう姿があった。そしてそれを授業で伝えてきた。
でも、今は逆行している。いや、逆行ではなく、そういう時代にしている。
もちろん、それに怒りの声をあげるたくさんの人もいるんだけどね。
あしたのテーマは決まったな。

ダンスのはじまり

いよいよ今日から授業がはじまります。
わたしの最初の授業はガイダンス。わたしの授業のやり方や、その授業の受け方をみっちりと伝えます。

いつも思うのですが「授業の受け方」って、みんな習ってるんだろうか。たぶん習ってないんだろうな。なぜなら、授業をする側が「授業の受け方」に対応した「授業のしかた」を意識してないんじゃないかと思うからです。

もちろん、例えば数学と日本史では「授業のしかた」は違うかもしれません。でも、数学には数学の、日本史には日本史の「授業の構造」はあるはずです。あるいは、「伝達のステップ」と言い換えてもいいかもしれません。それを見つけ出す。そして、それを意識しながら授業をする。それができれば、その「ステップ」を子どもたちに伝えれば、子どもたちは授業を受けやすくなる。すると「伝わりやすく」なるし、それは結果として成績につながる。
わたしはわたしなりに、自分のやってきたことを振り返ると同時に、いろんな校種の授業を見る中で
「あー、自分はこういうふうにやってきたんだ」
って気づいたんですよね。で、それに気づくことで、理解のために足りないところもわかったし、理解の妨げになることもわかった。で、無駄は削いで必要なものを足して、自分なりの「伝達のステップ」をつくりました。
もちろん、その「ステップ」が絶対的に正しいわけじゃないです。それは授業者によっても変わるし、生徒によっても変わる。ただ、大切なのは、その「ステップ」を意識化することと、それを子どもたちに伝えることです。そうすることで、共通の時間の流れの中で授業の時を過ごすことができる。
考えてみれば、そんなことを考える前のわたしの授業ってひどかっただろうなと思います。「慣れ」だけです。メリハリは声の大きさだけ。中身にはない。よくそんな授業に子どもたちはつきあってくれたなと思います。
だからこそ、最初の授業のガイダンスで魔法をかけるんです。授業の構造を子どもたちに伝えることを通して、苦手な子も「もしかしたら、解けるようになるかもしれない」って思ってくれるかもしれない。その魔法が解けないように1年間授業をする。解けそうになった時こそ、わたしも子どもも基本に帰る。もう一回「授業の構造」を思い出し、その「ステップ」を踏む。決して立ち止まらずに、呼吸をあわせながらステップを踏む。
そんな営みを1年間続けた先に、学年末試験がある。

授業開きのガイダンスは、その最初の一歩です。子どもたちに魔法をかける時間です。
さてと。1年間の長い長いダンスがはじまった。

新入生のはじめての人権学習?

今日は1年生のオリエンテーションの日です。去年までは「まぁええか」と思っていましたが、なんか「このままではアカンなぁ」と思いはじめたので、今年度から思い切って攻めることにしました。
とは言え、みんな「人権は大切」っていいながら、うしろまわしになっている現状です。例えば、教務部が30分、生徒指導部が30分、保健部が30分、進路指導部が30分と、すでに例年通りのタイムスケジュールがあります。そんな中で、生徒指導部の中で5分だけもらうことにしました。まぁでも、みんな長々としゃべるだろうから、逆に5分でサックリ話をした方がいいかなとも思います。
オリエンテーションをやっている会場に着くと、案の定、すでに時間がおしてます。てか、どんだけしゃべんねん(笑)。しかも、会場を見渡すと、みんな服は黒!子どもたちは制服なのでもちろん黒ですが、教員もみんな黒。そんな中、わたしひとりがピンク(笑)。目立つな…。
で、わたしの順番。こんな話をしました。

はじめまして、人権教育担当です。
みなさんは「人権」と聞いて、どんなことを考えますか。
「あー、差別のことか」
「差別したらあかんのやろ」
「そんなことはわかってるわ」
もしかしたら、そんなことを思うかもしれませんね。「なになにしちゃいけない教育」ってね。
でも、もしも「人権」が「差別しちゃいけない」ってことならば、わたしの担当は「差別しちゃいけない担当」になってしまいます。でも「人権教育担当」なんです。てことは、たぶん「人権」って「なになにしちゃいけない教育」じゃなさそうですね。
じゃ、「人権」とはなにか。
それは、これから3年間かけて担任の先生から学ぶだろうと思います。が、ここではひとつだけ、「人権が守られている状態とはどんな状態か」ということだけは言っておきます。「人権が守られている状態」とは「みんなが幸せな状態」です。ね?ハッピーでしょ?
で、人権教育担当の仕事はふたつあります。
ひとつは、「人権が守られていない状態にある生徒の話を聴く」ことです。
じゃ、どんな人が人権が守られていない状態にあるか。例えば「イジメられているひと」です。ね?イジメられていたら幸せじゃないですよねー。これはわかりやすい。でも、本人は気づいていないけど、社会的にイジメられている状態にある人がいます。それはどんな人か。それについては、国がリストをつくっています。一番はじめにあるのは?それは「女性」です。ね?ここにいる中の半分くらいの人がそうですね?それから「子ども」「高齢者」「障害者」「同和問題*1」「外国人」「HIV感染者」「ハンセン病回復者」などと続きます。でも、それだけじゃないですよね。例えば「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」あるいは「シングルマザーの状態で生活している人」とかね。みなさんの中にもみなさん自身がそうである人もいるだろうし、みなさん自身はそうじゃないけど、親やきょうだいや親戚がそうである人もいるかもしれない。
別にそんな人がいつも不幸なわけじゃない。でも、ふとした時に心にトゲが刺さることがある。もしもそんな時、その気持ちを伝えたいなと思った時に、そして「誰に伝えたらいいんだろう」と思った時に、人権教育担当のわたしの顔を思い浮かべてもらったらうれしいです。
これがひとつ目の仕事です。
そして、もうひとつの仕事は「人権が守られた状態にある社会をつくるためにはどうしたらいいかを学ぶ学習」を企画することです。つまり「人権学習」の企画です。
「人権が守られた状態にある社会をつくる」ためには「考える」のではダメです。「つくる」ということは「動く」ということです。でも、「動く」ためには「道具」が必要です。そのためには「どんな道具があるのか」を知ることと、その道具の「使い方」を知らなきゃならない。それを学ぶのが「人権学習」です。そして、それを学ぶためには、いろんなことと「出会う」ことが一番効果的です。例えば、すでにそんな社会をつくるために動いている「人」。あるいは「知識」や「歴史」。これから3年間、君たちにいろんな人や知識や歴史との「出会い」をつくろうと思っています。どうか楽しみにしていてください。
これで「差別しちゃいけない担当」ではない「人権教育担当」からの話をおわります。

ところどころ飛ばしてしまったけど、それはセリフが入っていなかったからです。
まぁ、でも、ここから長い長い3年間があります。その最初のとっかかりってだけのことです。さぁ、いっぱい出会いをつくろう。そしてできれば、子どもたちと出会いたいな(^^)。

*1:他の課題は「人」を指すけど、部落だけは「問題」なんですよね。これは「問題」だと思っています。まぁ「法」が切れるということはこういうことなんですよね。