歴史は繰り返す

今日は午後から出張です。場所は第2のふるさと。内容は「総会」なんですが、こちらはオブザーバー参加なので関係なし。メインはそのあとの記念講演です。今日の講師は、わたしのおべんきょ師匠。楽しみです。
内容は、まぁ「同和教育がなにをしてきたのか」ってことを、若い教員に伝えるってことなんですが、これ、2月にも首がちぎれそうになった話なんですよね。

戦後同和教育がどこからスタートしたかといったら「今日もあの子が机にいない」です。つまり不登校問題です。
で、不登校の背景を探ると貧困があった。そしてその背景に部落差別があった。だから、不登校の問題をなんとかしようと思ったら、部落差別をなんとかする以外方法がなかった。
と、すらっと書くと当たり前のことなんですけど、これ、すごいですよね。とかく「対症療法」でよしとしがちなんですけど、それを「個人の問題」としての貧困から、さらに「社会の問題」としての部落差別まで掘り下げ、しかも「そこ」でやろうとするわけですから、ハンパない話です。
で、奨学金を含め、いろんなとりくみをする中で、不登校問題が一定解決すると、荒れの問題が出てくる。で、荒れの背景を探ると、そこには低学力の問題が出てくる。さらにその背景として進路の問題(どうせ勉強しても…)が出てくる。そこで「同和教育の総和は進路保障である」って言葉が出てくる。
そして、高校進学率があがると、今度は就職差別の問題が出てくる。
こんな感じで、ひとつの課題をクリアすると、その先にそれまでは課題にすらならなかったことが課題として出てくる。
で、まぁ、ラスボスは部落差別なわけです。ところが、じゃ、部落差別だけでいいのかというと、その隣に在日外国人の子どもがいる。こうやって、戦線が広がっていく。

でも、その中で、教員はさまざまなことを学ぶ。それを言葉にしたのが「差別の現実から深く学ぶ」です。
「差別の現実「を」ではなく、差別の現実「から」です」
とは、おべんきょ師匠のお言葉。そこには、教員自身の変革がある。それを言葉にしたのが「生徒の変わり目、教員の変わり目」です。

さて。
そんな歴史を踏まえたうえで、今はどうか?
まさに「子どもの貧困」が喫緊の課題としてある。では、その課題に教員はどう向き合っているか?戦後同和教育の出発点と同じスタンスで向き合っているか?
まさにそこが問われるわけです。
わたしたちは、子どもたちに「勉強せい」と言います。が、わたしたちは学んでいるのか?学ぶとは自己変革だと、わたしは思います。子どもたちに自己変革を迫るわたしは、自己変革しようとしているのか?
そんなことを問われる講演でした。

それぞれのストーリー

今日の夜は阪大の院生さんと打ち合わせです。
なんでも、7月にリビングライブラリをするので本になってほしいとか。久しぶりです。ただ、今回のリビングライブラリがおもしろいのは、ごはんを食べながらやるんだとか。てことは、マジで「リビング(居間の)ライブラリ(本棚)」です。

てことで、京都駅近くの変な店へ。
はじめは「本」がなかなか集まらないので、「いつきさん一冊で」って言われたので、なんとなくそれは違うなと。だって、それでは「いつきさんとごはんを食べながら話を聞く会」になってしまいます。
さて、どうすりゃいいのか?
そうだ。学生さんも本になればいい!
「だって、本になる人ってマイノリティでしょ?」
「いや、そういうわけじゃないですよ」
もちろん、リビングライブラリは、日常なかなか理解してもらいにくい「マイノリティ」から、より近い距離で話をしてもらい、理解するみたいなところからスタートしています。が、デンマークでやってる風景なんかを見たら、警察官なんかも本をやってるみたいです。まぁ、日本とデンマークでは警察官のスタンスの違いはあるだろうから日本でそのままとは言わないけど、たぶん葛藤を抱えていたりして、いろいろたいへんなんだと思うのです。そんな話を聞く。
つまり、誰でもいいっちゃ、誰でもいいんです。ぶっちゃけな話って、誰もが持っている。それを聞くわけです。
問題は、その「誰でも持っている」というところなんだと思うのです。ともすれば、なんかすごいマイノリティがいて、「わたしなんか」となってしまいがちなんだと思うのです。いや、もっと言うなら、その「すごさ」ゆえに、自分の持つ「特質」に鈍感になってしまう。そして、自分は「フツー」と考え、「聞く側でしかない」と思ってしまう。
でも、たぶんそうじゃない。ひとりひとりが自分の「語り」を持っていて、それを口々に語る。それでいいんじゃないかと思うのです。

そんなことを学生さんに話をするうちに、みなさん自分の「特質」を発見しはじめて、結局みんなで本になることになりました。

てことで、7月23日(土)の午後、豊中駅前の国際交流協会の厨房で5冊の本があなたを待っています。どの本もとても魅力的です。ぜひともいらしてください!

「おっちゃん」という存在

今日はダメダメ先輩と河原で焼肉(笑)。とはいえ、場所探しに難航。ちょうど日陰になる木を見つけたので「ここにするか」と陣取ったのですが、まもなく小学生ギャルがふたり登場。こちらに敵意むき出しの目線を送ってきます。
はじめのうちは木の向こうにいたのが、少しずつ気に近づき、最後は木登りをはじめました。
うーん、あの子らのテリトリーを侵略したか?
と、そこに「おっちゃん」登場。
すると、ギャルふたりがいきなり元気になりました。
「おっちゃん、ロープ投げて!」
「おっちゃん、ブランコ!」
「おっちゃん、食べ物ないん!」
おっちゃんは「待て待て」とか言いながら、ハンモックをつりはじめておられます。
いったいなんなんだ?
でも、だんだん「これはすごいもん見てるんじゃないか?」と。思わず、焼き鳥が5串あったので、みんなで一本ずつわけわけして、少し仲間に入れてもらったり。

あとで聞くと、ギャルふたりは6年生だとか。他にもいっぱい小学生が「木」で遊ぶんだとか。
おっちゃん曰く。
「中学生になったらふたりとも来んようになるわ」
と。
「でも、また他の小学生が来んねん」
と。
別に寂しそうな感じはないです。
「おっちゃん」は、学童なんかをやってるわけでもなく、単に公園で子どもたちと遊ぶだけ。でも、子どもたちのことを把握しておられるんですね。そして、子どもの姿の向こうに親の姿もまた見てる。たぶん子どもたちも「不思議」とも思わず、単に楽しむだけ。
子どもたちにとっては、おそらくは人生のひとつの時期を一緒に過ごし、やがては離れていく。そして、忘れる。
単にそれだけなんだけど、横で見てると、なんとも不思議で印象深い存在なんですよね。
にしても、あの「おっちゃん」はなんなんだろう。なにが「おっちゃん」を生み出し、なにが「子ども」を生み出すんだろう。
やはり謎は深まります。それをメランコリックに見るのか、時代や状況の分析まで持っていくのか。問われますね。

背中が語る

今日も一日、バタバタと仕事をして、帰りにパーカーをゲットして。
いや、今着てるパーカーは演歌歌手みたいになった時に買ったレインボーポート向日葵のものです。いくら鹿児島とは言え、2月に着るものです。んなもんを5月に着たら暑いに決まってます。
で、どこで買うか?
UNIQLO→働き方がヤバイ&シャチョーがパナマ文書に掲載されてる
無印良品→丈が短い
Right-on→気に入ったのがない
てことで、GAPへ。まぁ、diversityな企業だからいいでしょう。しかも、2枚買ったら40%引きだし(笑)。

てことで、家に帰って、ビール呑んだり洗濯したりして、テレビを見てたのですが…。
今日の報道ステーションのトップは沖縄の殺人事件です。
またかです。
でも、報道ステーションの姿勢は久々にまともでした。後藤さん以外はね。それがかえって後藤さんの偏向ぶりというかあの番組に対して送られた刺客性というか、そういうのを浮き立たせてました。なにせ、立つ位置がまったく違う。他の人はみんな沖縄の人々の話を伝えてるけど、後藤さんひとり政府側に「事態の収拾をすべき」みたいな話をしている。そんなのは中立とは言わない。政府への擦り寄りでしかない。
さらにひどいのが、政府の面々。みんな後藤さんと同様、人ひとり殺されたということへの認識がない。
そしてなにより、首相官邸での首相の態度。コメントせずに背中を見せる。あの背中が「国民の命を守る」という言葉が嘘っぱちであることを物語っていました。
人が死んで浮き彫りになることがある。
しかし、人が死ななきゃわからないのか。
いや、人が死んでもわからないのか!

なんでこうなるんだろ

ヘイトスピーチ対策法案」が、全会一致で参院法務委員会を通りました。ほんの少しだけではあるけどカウンターに参加したりしてきたわたしとしては、やはりうれしい気持ちはあります。が、やはり釈然としない。それは、あまりにも「小出しにしてる感」があるからです。
特例法もそうだけど、とにかく、できるだけハードルをあげることで、その法律の適用範囲を極端に狭めるようにしているとしか考えられない。
今回の対策法案への問題点はすでにあちこちで論議されているけど、ものすごく簡単に言えば、在特会が勢いづいた最初のきっかけとなった、蕨での「カルデロンさん一家」へのヘイトスピーチは対象外です。あるいは、水平社博物館へのヘイトスピーチも対象外です。まぁ、附帯決議をつけることで、そこを少しは回避しようとしてるみたいですけどね。
でも、なぜこうやって、極力適用範囲を狭めようとするのか。
与党は「表現の自由」とか言ってるけど、「「放送」や「教員」への表現の自由は規制している/しようとしているお前らがどの口でそない言うてるねん」と思うのは、きっとわたしだけではないと思うのです。
にもかかわらず、適用範囲を狭める。
たぶん、ほんとうはこんな法律つくりたくないんです。でも、外圧(人種差別撤廃条約)と事実(ヘイトスピーチ)の前でつくらざるを得ない。単にそれだけのことのように思います。
今回の「ヘイトスピーチ対策法案」に、果たしてどれだけの当事者が呼ばれて参考意見を言ったのか。そんな機会をつくったのか。そもそも聞く気があったのか。
ここでも「Nothing About Us Without Us」の精神が無視されている。

で…。
このことで、またまた当事者が悩まなくちゃならなくなる。
その悩みは、法案をつくった与党の悩み、イコール「どのように骨抜きにするか」とは質の異なる、身を切るような、痛みを伴う悩みです。
かつて、その痛みは、わたしたちトランスが味わってきた。そんな痛みに無頓着な「マジョリティ」のありようは、なにも変わっていない。

予想通り→よくぞここまで

案の定、今朝はメッチャしんどいです。なので、少し遅い電車で行くことにしました。でも、やはり眠い。授業中も眠い。会議中も眠い。そんな一日でした。

でも、印象的なことがひとつ。
昨日の飲み会で、「いつきさんの勤務校、ほんとうによくなったね」と言ってもらったのですが、そしてそれはとてもうれしいわけですが、なんとも言えない釈然としないところもあったりするのです。それは、「どこを見て/なにをもって「よくなった」と評価するか」なんです。
通学マナーがよくなった?人の話を聞けるようになった?クラブ加入率があがった?たしかにいずれも評価軸ではあるし、もちろんこれらをもって「よくなった」はありだと思います。でも、わたしの評価軸は違います。わたしの評価軸は「正当な主張ができるようになりつつある」です。
ここにはふたつのハードルがあります。ひとつは「主張ができるかどうか」です。ヘタレの子どもには多いのは、群衆のひとりとしての声は大きいけど、みんなの前ではしゃべれない。つまり「主張ができない」。そしてもうひとつは「文句」や「わがまま」ではなく「正当な主張」であることです。
今日は生徒会選挙の立会演説会だったのですが…。去年の前期までは放送でやってました。でも、後期は体育館でやってみた。すると、できた。数年前では考えられなかったことです。
じゃ、なぜ変わったか。
その遠因は「考える」ことと「決める」こと、そして「実現すること」を生徒会に要求し続けたからだと思っています。そうした態度が先輩から後輩へと伝えられる中で、世代をまたがって成長していった中に、今の姿がある。
そんな生徒会の子どもたちの姿を見るのは、ほんとうにうれしかったです。
たしかに「よくなった」です。
さて。わたしたちは、子どもたちがつきつけてくる「正当な主張」に応えることができるだろうか。これが「よくなった学校」の教員に突きつけられる課題です。

おかしいな…。

とにかく、午後から出なきゃならないことがよくあるので、毎年「授業はできるだけ午前中に」ってお願いしてますが、今年は見事に希望通りにしてもらえた関係で、午前中は授業。午後から雑務ってできるので、ものすごく楽になりました。
が、おかしい…。なんか、午後から雑務がはかどりません。なんでだろ…。
今日もいろいろやってるんだけど「これができた!」って感じじゃなくて、「これ、できてるのかなぁ…」という感じで勤務時間が終わっていきました。
ま、そんな日もある。てか、そんな日のほうが圧倒的かな。

さてと。
TLやウォールでは、パレードについていっぱい流れています。みんな楽しそうです。「よかったよかった」と思いながら、なんともいえない思いもあります。
もちろんそれは、「24時間ひとりパレード」をやりつづけている/やらざるを得ないわたしの思いです。
そう言えば、かつて「ブブさん」から「いつきさんがホッとする時って、どんな時間」と質問されて絶句したことがありましたって(笑)。
まぁ、そんなもんです。
関西の片田舎の、誰も知らないところで、今日も明日もひとりパレードをやり続ける。まぁ、だからできることもある。
と、信じること。

と思ったら、これかよ!

部屋の大掃除をしていて、腰が痛くなったので、ひょいとパソコンを開けると、今日はこんなニュースが。
自民・稲田政調会長、LGBTの大会出席へ 自民党3役の出席は初
はい、きました!
まぁ、かつて同性愛者への差別発言をした石原元都知事の元職場でオープニングイベントをされるわけで、隔世の感があるわけです。個人的にはもやっと感があったりするわけですが、それはおいておきましょう。
いや、この「もやっと感」はですね。例えば、第7回GID研究会に日をあわせて開催した「トランス全国交流会」は「日之出解放会館」でやったし、第10回学会の時は「日之出集会所」でやったというわたしのもやっと感なんですけどね。ま、それはおいておきましょう。
まぁ、運動がそれだけ大きくなったってことで、無視できなくなったんでしょうね。
でも、一部のL/G/B/Tにとっては「元から味方」かもしれないけど、一部のL/G/B/Tにとっては自分たちを抑圧してきた張本人が、総括も自己批判もなしで「出席」するってどうよと、わたしなんかは古い人間だから思うんですけどね。

カミングアウト

自民 LGBT理解促進へ自治体に財政支援 法案提出へというニュースがかけめぐる昨今なわけですが。部落差別についても自民 部落差別解消の推進法案まとめるなんていう記事もあるし、ヘイトスピーチ関連法案を提出へ 自民と公明なんていうのもある。
もうね。この間の自民党の「マイノリティ取り込み大作戦」はひどいものだなと思うわけです。
もちろん、それを「一歩前進」ととらえることもできるでしょうけど、ひねくれもののわたしは「なんだかな」と思うわけです。
とりあえず、カミングアウトについて…。
「カミングアウトが必要ではない社会」って、よく言われます。最近もどこかで聞いたな−と思っていたのですが、こないだの全同教でした。レポーターが「カミングアウトの必要のない学校が目標」って発言したんですよね。この手の話、交流会の文脈でも言われるんですよね。子どもたちが「この交流会の目的は、こんな交流会がなくなること」と言ったりとかね。まぁ、子どもが言う分には「まぁまぁまぁ」「そんなことではないと思うよ」でいいんだけど、教員ですよ。しかも、全同教。互いが自分のことを語りあう解放教育をめざしてきた全同教の場においてそれはアカンやろうと思ったわたしは「カミングアウトは、当事者にとっては社会を変える武器です。だから、当事者からカミングアウトを奪わないでください」と発言したわけですが。
でも、たぶんついこう考えちゃうんですよね。で、被抑圧者側にいる生徒が言う分には、まだなんとなくわかる。いや、立場でものを考えちゃいけないってのはそのとおりなんですけど、でも、まだわかる。それに対して、抑圧者側がそれを言うなと。それって、結局、同化じゃんと。まさに、その同化と排除の中でしんどい思いをしているのに、「しんどいでしょ?同化してあげましょ」って、どれだけ上から目線やねんと。そして、その同化が新たな排除を生み出すということへの警戒心がない。いや、警戒心じゃないですね。歴史です。
皮多を排除し、やがて同化する中で、例えばうちなーんちゅやアイヌが排除された。そして、それらを同化する中で在日朝鮮人が排除された。やがて坂中論文に代表されるように在日朝鮮人への同化が進められる中、「朝鮮人ではない外国人」が排除されていく。
常に同化と排除が一体となって進んでいくこの日本社会において、「カミングアウトしなくていい社会」って、いったいなんなんだと思うわけです。

まぁでも、そういうことを考えてなかったら「それ、すばらしい!理想の社会!」って思うだろうな。
だから、歴史を知ることは大切だと思うし、自分以外の被抑圧者の闘いの歴史を知ることは大切だと思うだけど、そんなややこしい人の話は、まぁ誰も聞かないよな。