新入生のはじめての人権学習?

今日は1年生のオリエンテーションの日です。去年までは「まぁええか」と思っていましたが、なんか「このままではアカンなぁ」と思いはじめたので、今年度から思い切って攻めることにしました。
とは言え、みんな「人権は大切」っていいながら、うしろまわしになっている現状です。例えば、教務部が30分、生徒指導部が30分、保健部が30分、進路指導部が30分と、すでに例年通りのタイムスケジュールがあります。そんな中で、生徒指導部の中で5分だけもらうことにしました。まぁでも、みんな長々としゃべるだろうから、逆に5分でサックリ話をした方がいいかなとも思います。
オリエンテーションをやっている会場に着くと、案の定、すでに時間がおしてます。てか、どんだけしゃべんねん(笑)。しかも、会場を見渡すと、みんな服は黒!子どもたちは制服なのでもちろん黒ですが、教員もみんな黒。そんな中、わたしひとりがピンク(笑)。目立つな…。
で、わたしの順番。こんな話をしました。

はじめまして、人権教育担当です。
みなさんは「人権」と聞いて、どんなことを考えますか。
「あー、差別のことか」
「差別したらあかんのやろ」
「そんなことはわかってるわ」
もしかしたら、そんなことを思うかもしれませんね。「なになにしちゃいけない教育」ってね。
でも、もしも「人権」が「差別しちゃいけない」ってことならば、わたしの担当は「差別しちゃいけない担当」になってしまいます。でも「人権教育担当」なんです。てことは、たぶん「人権」って「なになにしちゃいけない教育」じゃなさそうですね。
じゃ、「人権」とはなにか。
それは、これから3年間かけて担任の先生から学ぶだろうと思います。が、ここではひとつだけ、「人権が守られている状態とはどんな状態か」ということだけは言っておきます。「人権が守られている状態」とは「みんなが幸せな状態」です。ね?ハッピーでしょ?
で、人権教育担当の仕事はふたつあります。
ひとつは、「人権が守られていない状態にある生徒の話を聴く」ことです。
じゃ、どんな人が人権が守られていない状態にあるか。例えば「イジメられているひと」です。ね?イジメられていたら幸せじゃないですよねー。これはわかりやすい。でも、本人は気づいていないけど、社会的にイジメられている状態にある人がいます。それはどんな人か。それについては、国がリストをつくっています。一番はじめにあるのは?それは「女性」です。ね?ここにいる中の半分くらいの人がそうですね?それから「子ども」「高齢者」「障害者」「同和問題*1」「外国人」「HIV感染者」「ハンセン病回復者」などと続きます。でも、それだけじゃないですよね。例えば「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」あるいは「シングルマザーの状態で生活している人」とかね。みなさんの中にもみなさん自身がそうである人もいるだろうし、みなさん自身はそうじゃないけど、親やきょうだいや親戚がそうである人もいるかもしれない。
別にそんな人がいつも不幸なわけじゃない。でも、ふとした時に心にトゲが刺さることがある。もしもそんな時、その気持ちを伝えたいなと思った時に、そして「誰に伝えたらいいんだろう」と思った時に、人権教育担当のわたしの顔を思い浮かべてもらったらうれしいです。
これがひとつ目の仕事です。
そして、もうひとつの仕事は「人権が守られた状態にある社会をつくるためにはどうしたらいいかを学ぶ学習」を企画することです。つまり「人権学習」の企画です。
「人権が守られた状態にある社会をつくる」ためには「考える」のではダメです。「つくる」ということは「動く」ということです。でも、「動く」ためには「道具」が必要です。そのためには「どんな道具があるのか」を知ることと、その道具の「使い方」を知らなきゃならない。それを学ぶのが「人権学習」です。そして、それを学ぶためには、いろんなことと「出会う」ことが一番効果的です。例えば、すでにそんな社会をつくるために動いている「人」。あるいは「知識」や「歴史」。これから3年間、君たちにいろんな人や知識や歴史との「出会い」をつくろうと思っています。どうか楽しみにしていてください。
これで「差別しちゃいけない担当」ではない「人権教育担当」からの話をおわります。

ところどころ飛ばしてしまったけど、それはセリフが入っていなかったからです。
まぁ、でも、ここから長い長い3年間があります。その最初のとっかかりってだけのことです。さぁ、いっぱい出会いをつくろう。そしてできれば、子どもたちと出会いたいな(^^)。

*1:他の課題は「人」を指すけど、部落だけは「問題」なんですよね。これは「問題」だと思っています。まぁ「法」が切れるということはこういうことなんですよね。

行く人来る人

今日は今年度最後の職員会議。それに先立って「離任式」があります。今年も「行く人」を見送る立場です。今回は、とても大切な同僚がほとんど転勤です。しんどいな。
去っていくものは美しい。そして、残り続けるものは醜いです。でも、その醜さを引き受け続けることを選択したんだから、それはしかたないですね。
そして、セクション会議。帰ってきた人、新しく来た人。そんな人たちと、新たに何ができるのか。
今日からしばらくかけて、舵は切られていきます。

空気

今日は前のおべんきょ場所の卒業式だとか。で、ランチのお誘いが。
なので、今日はお弁当を持たずに出勤。近くのうどん屋さんでランチです。
にしても、新しいおべんきょ場所に行くのはとてもたいへんなので、結局こっちによく来るんですよね。で、なぜ来るかというと、空気が吸いたいからなんです。
おべんきょ場所と仕事場とは空気が違う。その空気は「思考」とか「価値観」と言い換えてもいいかもしれません。そういったものがぜんぜん違うんですね。仕事場にいると、自分の思考がどんどん削がれ、価値観が崩れ、感性が衰えていくのがわかります。それに耐えられなくなった時に、「おべんきょ場所」に来る。そしてたっぷり「空気」を吸って復活する。
だから、みんなにはずいぶんとお世話になりました。今日、ランチに来たのはそのお礼です。そして、きっと今日卒業した「おべんきょ仲間」も、わたしの感覚がわかる日が来るんじゃないかな。そんな時は、ここに来ればいい。
てことで、たぶんこれからも顔を出すでしょうね。

「倫」

1月のおわりに、Fぁよんさんが
「「倫」って「なかま」っていう意味があるんですよね」
としみじみ言っておられました。つまり「倫理」とは「なかまのことわり」なわけです。てことは、「不倫」とは「なかまにあらず」あるいは「なかまのことわりをやぶっている」ってことになるのかな。
でも、「なかまのことわり」っていったいなんだろうと思うのです。どこかに明文化してあるのか?たぶんしてないですよね。たぶん、空気のようにそこにあるし、「なかまのことわり」の中で生きている人はそれを自由に改変しながら使えるし、そこに生きていない人にとってはそれは脅威でしかない。
ここ半年ぐらいで、その「なかまのことわり」で断罪された人がたくさんいます。なぜこんなに断罪されるんだろう。というか、明文化された「規則(例えば憲法ね)」に明らかに違反している人がいるのに、マスコミはそれを叩かず、明文化されていない「なかまのことわり」に乗っかって人を叩く。
でもね。「なかまのことわり」の中にいない人/いられない人は、たぶんいるんです。そして、その人のものの考え方は「なかまのことわり」の中にいる人にはわからない。
まぁ、でも、「叩く」行為によって、「なかまのことわり」を明確化し、「なかま」であることを確認する。それって、構造として差別と同じじゃん。

心が騒ぐ

火曜日に、ちょいと耳打ちされた情報について、昨日一日考えて、少し決意めいたものが芽生えてきたので乗ろうかなと。
と思ったけど、もう少し調べると、これは無理だなと。
なんというか、たぶんわたしは「ルート」を間違ったんでしょうね。今のことを進めてその先に「X」が存在するには、わたしは歳を取りすぎてる。でも、「X」を目指すにはルートが違う。
なんか、好きなところを掘ったんでは温泉はわかず、温泉がわくところを掘らなきゃならなかったんだなと。でも「好きなところ」も、もっと掘れば温泉はわくかもしれないけど、それをするには時間がない。かと言って、もう一回場所を変えて掘り直すにも時間がない。
じゃ、どうするか…。
基本は「温泉がわく」と信じて掘り進めるしかないです。その上で現実的なことを考えるなら、掘ってる場所を単に深さだけを追求するんじゃなくて、少し広めに掘る。
たぶん、そんな感じなんだろな。

さてと。前を向こうかな…。

はじめてのカムアウト

今日は1年間の最後の授業です。1年間の、毎週6時間の授業をしてきたクラス。ほんとうに濃密な関係になりますね。なんと言っても、生活集団と学習集団が一致した1年生を担当したのは、たぶん30年ぶりくらいです。なので、その中でできることや試したいことをいっぱいやりました。さらに、今年度はカウンターあり反安保法制ありという1年でしたから、当然いろんな話もするというものです。そんな話を受けとめてくれた子どもたちでもありました。
ほんとうに楽しい1年でした。授業ってこんなに楽しいものなんだって思わせてくれた子どもたちでした。
だから、この子らにはなにかを返したいってずっと思ってました。返せるものは、たぶん自分のことくらいかな。きっと、4月からずっと「質問」があって、でもその質問はしちゃいけないって気を遣ってくれていて、そのうちなんとなく質問は心の奥に沈んで別にどうでもよくなって、でもその「質問」は心の奥底にある。その「質問」に答えようかなって思いました。
でも、ビデオを見せるにはあまりにも短い時間しかありません。というよりも、ビデオを見せるのでいいのか?語ることから逃げてないか?っていう気持ちもあります。
なので、今年はほんの少しだけだけど、自分の言葉で話してみようかなと思いました。

まずは、この1年間楽しい時間を過ごさせてもらったことへのお礼。それから、教員になって7年目に担当したSという生徒のこと。「先生、なんでわたしを見捨てたん?」というSの言葉が、教員としてのわたしの原点であること。そこから赤点を出さないとりくみをひたすらしてきたこと。そんな話をしたあと、みんなに質問しました。
「君たち、4月からわたしにしたい質問、あったやろ?」
みんな、顔を見合わせて「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」って顔をしたり、ヘッドバンギングしたり。と、ひとりの子どもが質問。
「どうやったら勉強が好きになりますか?」
みんな「それー(笑)」って爆笑です。
「勉強きらいやからなぁ。でも、研究は楽しいよ」
って答えて、
「じゃ、質問ね。今からいくつか質問するから、「これ」って思ったのに手を上げてね。複数回答ありね」
「わたしを男だと思う人」ふたり。
「わたしを女だと思う人」けっこういるよ(笑)。
「どちらでもないと思う人」いるんかい!
「どちらでもあると思う人」これもいるんかい(笑)
「どひちゃんはどひちゃんって思う人」これもいるわ。
ということで、
「どれも正解ね」
って言いながら、5分ほど話。
その後、
「君たちと過ごした数学の時間について、感想書いてくれるかな」
ってお願い。みんな真剣に書いてくれました。
「授業には「うけさせられてる授業」と「うけている授業」があって、先生のは「うけている授業」。自由で強制しない感じ」って書いてくれた子がいました。その子「教えてあげてる感を出す先生が大嫌いだけど、先生はそんなことなかった」とも書いてくれてました。すごくうれしかった。他にも「生徒も声を上げていいんだってわかった」とか、なんか、もしかしたらいろんなことが伝わったのかもしれないなって気持ちになれました。
ちなみに、性別について書いたのがひとりだけで、それもまた「らしいな」と。

来年、この気持ちに引きずられちゃだめです。でも、今はこの気持ちに少しだけひたってもいいかな…。

抱負

2013年は「新たな半世紀へ」ってことで、「しでかしたろ!」って書いてました。たしかに、あんなことやこんなことを計画しましたね。2014年は「階段をひとつあがる」ってことで、「かなり勝負をかける」って書いてました。たしかに、2013年に考えたことを実行に移した年でもあるし、ほぼ1年後には「階段をひとつあがって」ました。で、去年は、とくに何も書いてなかったけど、たぶん「継承」ってのが頭にあったんだろうな。
さてと。今年だ。
真っ先に思ったのは「今考えていることを形にする」ですね。柳の下のどじょうは2匹はいません。が、やはりもうひとつやりたいし、やらなきゃ「次」がない。だから、今、埋めようとしてるひび割れを埋める。そのために、今年一年というか半年というか、力を投入したいな。去年のことを思えば、今ならまだ間にあいます。
あとは…。やはり「継承」かなぁ。おこがましいけど、「選択肢」を与えない社会のあり方をつくった上の世代のツケは背負わなきゃならんでしょう。とりあえず「選択肢」くらいはつくって、「こっちの水のほろ苦さ」くらいは知ってほしい。で、その「ほろ苦さ」にはまるヤツが出てきたらうれしいな。
そんな一年。

身体が思い出した?

昨日、布団の上に倒れたのが6時半頃。夜中の1時過ぎに一度目が覚めたけど、再び起きたのが6時前。てことは、11時間ぐらい寝ています。でも眠い。
とりあえず今日は特殊業務の日なので、早めに職場に行くべく車で出勤。
で、さっくりと特殊業務を終わらせたのですが、ダメです。
とにかく眠い。11時間以上寝たのにまだ眠い。早々に家に帰って、少しテレビを見てクールダウンして、9時半頃に再びふとんに潜り込んでみたり。
これ、もしかしたら、慢性的な睡眠不足に慣れてしまっていた身体が、いっぱい寝たことによって「睡眠不足じゃん」ってことを思い出して、睡眠不足を訴えるようになったのか?
とにかく、10時過ぎまで少しパソコンを触っていましたが、耐えきれなくて倒れました。

やさぐれの翌々日(笑)

今日は「かつての生徒」と呑み。ひとりは5年前の放送部の卒業生です。こちらはまぁいい(笑)。もうひとりは、なんと28年前の卒業生。しかも担任したわけでもなく教科担当だったわけでもない。でも、とても印象的だった生徒のうちのひとりでした。
行ったのは鉄板焼き&お好み焼きの有名店。とてもおいしかった。でも、それよりもなによりも、楽しかった。
なんか、ふたりの卒業生で共通してたのは「わたしは生徒をひとりの人として見てた」ってことでした。
で、それを聞いたわたしは「へ?」って思った。だって、それって当たり前のことです。高校生ともなれば、15年なり18年なりの人生を過ごしています。その人生をどう見るかなんですよね。
教員が見ることができるのは「麸」みたいなもんです。中身はスカスカ。でも、その子の人生はそうじゃない。「生麩」のようにぎっちりと詰まっている。で、大切なのは「自分が見ることができるのは、たかが「麸」程度」ということを認識することと「「麸」から「生麩」を想像すること」だと思っています。だから、いろんな話をしたり、家庭訪問したりしながら「麸」を「生麩」へと近づけていく。そして、そうやって見ていくと、それぞれの子どもには、それぞれの人生があること、そしてその人生をつくってきた背景なんかが立ち上がってくる。そうした時、その子へのリスペクトってのは自然とわきあがってくる。だから、当たり前のこととして「ひとりの人」として対面せざるを得ない。いや、逆かな。そういうふうに対面したいから「ひとりの人」として向きあうところからはじめるのかな。まぁ、そのあたりは、ほとんど鶏・卵です。
で、そうやって見ていくと、その子の「悪いところ(笑)」はその子の背景に原因があり、その子の「いいところ」はそのご自身の力だと思うようになる。もちろん、ここで「悪い/いい」なんてあたりがすでにダメダメなんですけどね。でも、とりあえずそれをおいといて、そういうふうに見えちゃうんです。
でも、そういうふうに子どもと向きあう教員って少ないらしいです。だって、ふたりとも「そういうわたし」を覚えてくれていたということは、「他の教員とは違う」ってことですから。さらに言うならば、今回一緒に飲んだうちのひとりは、わたしが教員になった年の入学生です。つまり、なんの経験もない、青二才のわたしでした。そして、もうひとりは5年前の卒業生。で、そこに変化がないということは、もとからわたしはそういう教員だったということです。
びっくりです。だって、教員たるもの、そうやって向きあうのが当たり前だと思っているからです。当たり前のことが少数であるなら、わたしは教員らしくない教員なのか。
なんか、教員ってなんだろう。学校ってなんだろうと思ってしまいます。

まぁ、もしかしたら、学校とか教員とかって、わたしが考えているようなものじゃないのかもしれませんね。
その子の表面を見て、自分の価値観にあっていれば「いい生徒」。あわない振る舞いをする生徒は「悪い生徒」。そうやって断罪する。そして「いい振る舞い」は学校や教員の成果で、「悪い振る舞い」はその子のせい。だから自己責任。

わたしはそれは教育ではないと思うのですが、「わたし」が印象に残るのであれば、「わたし」は少数であり、「わたしではない」が多数で、それが教員であり学校である。少なくとも、それが「今」なんですよね。
わかんないです。

学校ってなんだろう。教員ってなんだろう。教育ってなんだろう。
わからなくなります。
でも、少なくとも、今日飲んだふたりが、わたしのことを覚えててくれて、しかもそれを肯定的に感じてくれていたってことは、「こんなわたしでも教員やっててもいいんだ」っていうこと。そう思わせてくれた。
それはとてもとてもありがたいなぁ。